think or die :
1970年代生まれの
人たちのための
エッセー集
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日本的意思疎通
「書き手責任」と「読み手責任」
2003/04/23

先日職場で他部署の社員から電子メールで受けた質問に対して、管理元の部署として公式の回答文を作成するという仕事を、同じグループの人たちと共同でしていたのだが、日本人社員と西欧人社員で非常に興味深い態度の違いを見つけた。

質問をよせた社員はすべて日本人だが、回答する側の日本人がまず何を考え始めるかといえば、「この人はなぜこういう質問をしたのか」ということなのだ。質問の意味はさっと読めばわかるので、表面上の意味を理解するや否や、質問者を個人的に知っている場合はとくにその人の顔を思い浮かべさえしながら、「あの人日ごろからうちの部署に文句の多い人だから、きっとこういうことが言いたいんじゃないか」「あの人はこの間の会議であんなことを言っていたから、この質問はその件のことを遠まわしに言っているのでは」などなど。

質問そのものは簡潔である場合が多く、悪く言えば言葉足らずなのだが、日本人はその短い質問からできるだけ多くのことを汲み取ろうと努力するのである。そして汲み取ったこと一つひとつに対する回答をすべて含んだ回答文を作成しようとする。ほとんど無意識のうちに、日本人はこういった気の回し方をして、とても長い回答文を作る。

ところがそうして作成した回答文の英訳を見て、西欧人のスタッフは聞かれていることに対してだけ正確に答えるべきだと主張するのだ。一つの質問に対して余計な解釈を付け加える必要はない。ただ書かれていることにだけ答えればそれでいいということである。

別の場面でも似たようなことがあった。日本人の中間管理職が外国人の上級管理職から、部署の職務内容を英語で書いた資料をわたされ、日本語に翻訳するように命令されたようなのだ。

この日本人の中間管理職は、なぜ外国人上司が自分にこんな仕事を依頼したのか、その意義をよく考えた。そして自分たちの部署の役割や仕事の範囲をこの機会にはっきり分からせておこうという隠された意図があるのだろうと推測した。そして部下を集めて自分の日本語訳が彼らの認識とずれていないかを確認した。そうすることで部下にも外国人上司の隠された意図を伝えたいと思ったのだろう。

ところがその後、当の外国人上司に聞いてみると、単に日本語に翻訳してもらいたかっただけようなのだ。日本語で書かれた他の部署の職務内容と、言葉づかいや文体など形式を合わせたいのだが、本人は当然日本語が分からないのでこの中間管理職に頼んだというだけのことだった。

これら二つの例には、会社の中で意思疎通するときの日本人と西欧人のふるまいの違いがはっきりと現われている。それを短い言葉でいえば、日本人は「読み手責任」と「豊かな含意」の世界に生きており、西欧人は「書き手責任」と「文字通り」の世界に生きているということになろう。

概して日本人社員は自分の考えを、書き言葉で過不足なく表現するのが下手くそである。日本人どうしはそれが分かっているので、書く方は自分の書いた文章がつねに「言葉足らず」であることを自覚しており、読み手もつねに書き手が表現できなかった意図を言外や行間から汲み取ろうと努力する。

これは書き言葉に限らず、話し言葉にも当てはまる。日本人の上司が部下に指示するとき、つねに言葉足らずであると言ってもよい。部下は上司の短い言葉から真意をくみとって動かなければならない。上司が「あ」と言っただけで部下がいっせいに同じ方に向かって仕事を始めるというのは、きわめて日本的な指示系統のあり方だろう。

逆に西欧人は書かれていること、言われたことに余計な解釈を加えず、言葉どおりに反応しようとする。書かれていることが理解できないとすれば、それは書き手に原因があるのだから、書き手に真意を確認しなければならない。口頭でうけた指示が分からない場合も、勝手に解釈をふくらませるのではなく、上司に意図を確認すべきである。意図が不明なときは話し合いで明確にする。それが西欧人の態度である。

日本人は上司の意図がよく分からなくても、遠慮があるのか、上司に恥をかかせてはいけないと思うのか、直接話して確認することをせずに、自分の解釈にもとづいて動き始めてしまう。

同じ文脈、つまり「読み手責任」と「豊かな含意」の世界に生きている日本人どうしなら問題ないのだが、一方が西欧人で一方が日本人である場合には、さきほどの二つの事例のように明らかに問題が起こる。

西欧人は情報を発信する側である場合、自分の意図を完全に伝えているつもりなので、それ以上の解釈を勝手に加えて欲しくないし、分からないことがあれば確認してほしいと考える。逆に情報を受ける立場にあるとき、受けた情報に勝手な解釈を加えないし、そんなことをするのは時間の無駄、非効率だと考えるし、理解できなければ本人との対話で確認する。

ところが日本人は情報を受け取ると、ほとんど無意識のうちに「言外の意図」をさぐって解釈を付け加え、分からないのは自分の英語力や理解力が不足しているからだと考え、何とかつじつまをあわせようと頑張ってしまう。日本人が情報を発信する立場の場合は、相手は自分の心を汲みとってくれるだろうから、多少言葉たらずでも語り掛けさえすれば、思いや魂は伝わると思っている。逆にあまりこと細かに説明するのは、相手の理解力が低いとバカにしているような印象を与え、好ましくないとさえ考える。極端に言えば、分かりにくく説明することで、かえって相手への敬意を表現できるとさえ思っているふしがある。

西欧人と日本人の違いは、単なる文化的な差異として尊重されるべきだと僕は考える。しかし、である。両者が同じ職場で仕事をするとき、いったいどちらの態度を採用すべきだろうか。僕はまちがいなく西欧人のやり方をとるべきだと考える。

日本人のような意思疎通のやり方が成り立つのは、前提条件として「あ・うん」の呼吸が通じる一定水準の共通理解が必要になる。日本人どうしの意思疎通は「みなまで言わなくてもわかる」ということが基礎にないと成立しない。この暗黙の相互理解を西欧人にもとめるのは、そもそも無理というものである。

それに対して西欧人は「すべてのことを十分に表現しなければ、分かってもらえるはずがない」という前提で意思疎通をする。だから自分の言いたいことはできるだけ漏れなく、省略なく言葉で表現し、書きものの場合にはイラストや図など視覚的に訴える工夫までしようとする。

ただし、ここまでの議論はほぼ自明の理で、同様の指摘をしている人は他にもたくさんいると思う。僕が西欧人のいる日本企業の職場で本当の問題だと考えることは、ここから書こうと思っている。その問題点とは、こうした差異の存在について、西欧人を受け入れる側のいわばホストの立場である日本人が、あまりに無頓着であることなのだ。

日本で働く西欧人が、いわばゲストの立場として、自分たちと日本人の文化的差異について非常に意識的であり、その違いを表面化させることで克服しようとするのに対して、ホストの立場である日本人は、自分たちが彼らの言葉に余計な解釈を付け加えたり、「行間を読む」ようなことを無意識のうちにやっているという事実そのものを意識化できないでいる。

もちろん日本人社員が日本文化を特殊だと思っていないわけではない。ところが、日本人社員が西欧人に対して説明する「日本的なるもの」とは、儒教的伝統であったり、温泉や寿司であったり、西欧から見た異国趣味の枠内にきれいに刈り込まれてしまった、きわめて貧相な「典型的日本文化」に過ぎないのである。

本当に「日本的なるもの」は、実は自分たちの日常的な意思疎通の方法や行動様式の中にこそ埋め込まれているにもかかわらず、日本人はそれらの事実を意識化することができないまま、温泉や寿司など、非常に分かりやすい日本文化の類型を説明する言葉しか持たないのだ。

日本人がこうなってしまうのにも理由がある。公共広告機構のテレビCMを思い出してみるとよい。銀山温泉に生活する日本に帰化した白人女性が、古き良き日本の伝統の重要性を日本人視聴者に向かって訴えかける。あのテレビCMを見て、日本人は「ああやっぱり西欧人にわれわれを理解してもらうためには伝統文化に触れてもらうのがいちばんなんだ」という、とんでもない思い違いをしてしまう。

しかし日本の伝統文化に心酔するのが許されるのは、あのテレビCMに出演している彼女が外国人だからなのである。日本人が日本文化を西欧人に正しく理解してもらいたいと本気で思うのなら、まずその伝えるための意思疎通の方法た態度に、無意識のうちに書き込まれてしまっている「日本的なるもの」を意識化するところから始めなければならないのだ。

伝える内容よりも先に、伝えるための手段・形式に潜んでいる「日本的なるもの」を自覚できないまま、一生懸命、温泉や神社仏閣のことを説明しても、そもそも西欧人との意思疎通そのものが成立しないのである。その結果、上に述べたような滑稽な事例が生じてしまう。

日本人が理解されないのは、伝える内容が間違えているのではなく、伝える方法に潜んでいる日本的な偏向を、西欧人に分かるような形に意識的に変換できていないためなのだ。もちろんここでいう「方法の変換」の中には、一定水準の語学力ということも含まれる。

最後にこのエッセーでは意識的に「西欧人」という言葉を使うことで米国人を除外してきた。というのは米国人もやはり日本人と同じように、自分たちの意思疎通の方法がいかに偏っているかを意識化できていないと思われるためだ。その無自覚さは、日本人の場合、自分を責める卑屈さという形で現れるが、米国人の場合は、「なんで分からないんだ」という押し付けがましさという形で現れる。この点で日本人と米国人は似ているが、日本人と西欧人は根本的に異なっている。

という具合にエッセーの内容がどうしても反米的になってしまうのは、やはりあの戦争のせいではないかと思われる。