企業はいまや経済的な問題だけでなく倫理的な問題に直面している。
たとえば環境問題。ISO14001という国際基準は、環境コストの明確化という経済的な課題だけでなく、従業員一人ひとりが環境問題について正しい認識を持つという倫理的な課題を要求している。サラリーマンは仕事さえデキればよい、という時代はとっくに終わっている。
ところで、環境問題に直面している僕らが、幸福を追求する自由を手放すことなく、豊かな生活をいつまでも楽しむことができるだろうか?
多くの人は「環境破壊か、生活水準のダウンか」のどちらかを選ばなければならないと考えている。たとえば原子力発電所の建設をめぐる議論では、「今の電力需要をまかなうには原発は必要だ、原発を廃止するなら30年前の生活水準にもどる覚悟をせよ」という論調がある。
自由で豊かな生活はそのままにして環境破壊をくいとめる方法は、ほんとうにないのだろうか?この難問にひとつの解決を与えようとする本がある。岩波新書『現代社会の理論』(見田宗介著)だ。
僕は学生のころ見田教授の比較社会学の講義に出席したことがある。つねに大きな構想の中に現在のテーマを位置づける、手堅く地味な方法論には感銘をうけた。この本でも論理的厳密さと倫理的な問題意識の調和が感動的でさえある。
見田教授は高度情報化社会・消費社会を否定するのではなく、それをつきつめた向こう側に、環境問題の解決の可能性をさぐっている。
教授によれば、現代の消費社会は、消費者の欲望を無限にかきたてることで成立している。まだ着られる洋服でも流行の洋服に買い替え、自動車のモデルチェンジは物理的な寿命よりも速い。
消費者の無限の欲望が、一方で環境汚染を引き起こし、他方で第三世界の搾取を続けさせている(発展途上国の肥沃な土地は先進諸国向けの輸出作物にあてられ、現地住民はやせた土地からの不十分な食料しか得られない)。
教授はこうした環境問題・南北問題に対して、消費者の欲望を否定するのではなく、「消費」という概念の本質へと回帰することで解決をはかろうとする。ここに教授の消費社会論のコペルニクス的転回がある。
ふつう「消費」というと、形のある「物質」を消費することを考えがちだが、僕らが「消費」という行為に見いだしているのは、洋服や自動車そのものではなくそれらによって得られる「精神」的な幸福である。
消費という行為のベースにある幸福感を、「物質的」なものではなく「精神的」なもので満たすことができれば、物質の過剰消費による環境問題・南北問題を解決できる。そこで重要になってくるのが「情報」の果たす役割だ。
見田教授は「ココア・パフ」という例をあげている。ココア・パフとはトウモロコシを原料にしたスナックだが、その定価は原料価格の25倍である。ふつうは「とんでもない粗利稼ぎだ!」ということになるが、逆に言えば、ココア・パフを製造する企業は、消費者に500円分の満足感を与えるために、たった20円のトウモロコシで済ませているとも言える、と教授は分析する。
残りの480円は、この企業がココア・パフという商品に、パッケージや広告を通して付け加えたイメージである。ココア・パフを食べる消費者は、イメージという「非物質的」なものから幸福感を得ているのである。
考えてみれば消費活動のほとんどが、形のないものに向けられているのではないか。極端な例をあげれば、プレイステーションのCD-ROMの製造原価と売価を比べてみればいい。僕らが買っているのは物質ではなく、情報やイメージといった形のない幸福なのだ。
だとすれば、情報化社会がさらに進展することで、僕らは物質的な消費を減らし、環境破壊を遅らせることができる。実際、同書に引用されているある統計は世界全体の物質ベースでの消費量が80年代後半から横ばいになっていることを示している。
僕はここにこれからの世代が生きる可能性を見いだす。つまり、物質的な消費生活ではなく、精神的な消費生活。モノの豊かさではなく、情報の豊かさである。
ただ、情報の豊かさは、少し前にベストセラーになった「清貧」とはまったく違う。清貧とは自分の欲望を抑圧して質素な生活を送ろうという、人間のもつ基本的な「自由」に反する時代錯誤の考えだ。
これに対して、見田教授が擁護するような、情報化社会をつきつめたところにある精神的な豊かさは、むしろ人間の欲望が無限であることを肯定する。そしてその欲望の無限性を、限りのある「物質」に転嫁するのではなく、無限のひろがりをもつ情報やイメージといったものに転嫁する。
僕は別のページで、自動車や持ち家といった物質的な幸福にこだわるサラリーマン的価値観を批判した。残念なことに僕と同じ世代の中にもいまだに物質的繁栄に執着する人が多いが、僕は彼らに対して、情報をベースにした消費社会を擁護したい。
情報をベースにした豊かな消費社会に対する第一の批判は、リアルとバーチャルの境界があいまいになるのでは?という恐れだろう。われわれは実物にじかに触れることで初めてリアルな体験ができるのであり、情報に溺れて現実感を失った人間は危険である、という反論である。
この反論については、見田教授自身が「Intercommunication」誌最新刊の橋爪大三郎氏との対談で触れているのでご参照いただきたい。見田教授はいくらヴァーチャルな世界にのめりこんだところで、自分自身の身体の物質性というリアルな認識は残ると述べている。
僕としては、暴力的なTVゲームが即殺人につながるという短絡したTVゲーム批判は、それこそ人間の身体性に対する冒涜だと考える。情報化がいくら進展しても、人間が生理的な欲求を持った肉体的な存在であることにはなんら変わりない。
このホームページの別項の繰り返しになるが、凶悪犯罪を犯す一部の若者の暴力性はTVゲームが原因なのではなく、暴力性を持った若者が暴力的なTVゲームを好むというだけである(もしほんとうにTVゲームが原因なら若者は殺人者集団になるが、そうはなっていない)。
そういった若者の暴力性の原因は、むしろ物質的な過剰にもかかわらず精神的欲望が充足されないというひずみにある。核家族・学校・塾という閉じた世界に、情報ネットワークを通じた若者どうしの横のつながりという回路を開いてやれば、リアルな人間関係をとりもどす余地が十分にある。
ただ、現段階で開かれている情報のチャンネルはあまりにも少なすぎる。かつて精神的な幸福感を支えていた、大家族や地域コミュニティーに代わる役割を果たすには、今の情報ネットワークはあまりに貧弱すぎる。
僕らの世代はそのチャンネルをひとつでも多く開こうと手探りしているところだ。携帯電話・ポケットベルといった道具そのものはお仕着せだけれども、それを使ってまったく新しいコミュニケーションの形を生み出そうとしている。
そうした若者の「努力」に対して、携帯電話やベルを禁止する態度しか取れない人々は、自分たちが若者の精神的幸福の機会を奪い、リアルとバーチャルのひずみを増幅しているだけだ、ということに気づいているのだろうか?歴史を巻きもどすことばかり考えずに、現実的に将来の姿を考えてもらいたいものだ。
見田宗介(みた・むねすけ)
1937年 東京生まれ。東京大学総合文化研究科教授
専攻:現代社会論、比較社会学、文化の社会学
著書:「時間の比較社会学」(岩波書店・真木悠介の筆名)
「宮沢賢治−素材の祭りの中へ」(岩波書店)
「自我の起源」(岩波書店・真木悠介の筆名)
「現代日本の感覚と思想」(講談社)
編集:「社会学事典」(共編)(弘文堂)
「岩波講座 現代社会学」(共編)(岩波書店)