think or die :
1970年代生まれの
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社内評論家は夕暮れに飛ぶ
評論家的社員は抹殺すべきか?
1998/04/12

日本の会社では「評論家」は嫌われ者である。

「最近、うちの会社は評論家ばかりだ」「評論家的にならずに、行動で示せ」などなど、とかく評論家はうとんじられる。その最大の理由はもちろん、評論家と呼ばれる社員たちは、口先ばかりで行動しないことにある。文句ばかり言ってちっとも仕事をしない、そんな評論家は給料のタダどりも同然。文句言うヒマがあったら、働け働け!というわけだ。

しかし、ほんとうに会社の中の評論家は役立たずだろうか?このページでも僕は日本の会社の、安易な行動主義を批判してきた。とにかく足で稼げ!とか、うだうだ言わずに実行しろ!とか、不言実行の士が無条件に尊敬され、有言不実行の社員は言語道断。そういう「行動第一」の考え方が、今の会社のさまざまな歪みの原因になっているのではないか?そのように問題提起してきた。ここでも評論家は何がしかの役に立っているのではないか?ということを考えてみたい。

まず、自分の部下に評論家が出てきた場合、なぜ評論家が生まれるのかを考えてみなければならない。評論家的な社員に、「じゃあ行動で示せ」と言うことはかんたんだ。しかし、仮にその評論家的社員が自分の見つけた問題点を改善するために行動に出たとして、それが実現するとは思えない。なぜか?

僕は日本型の小さなグループによる業務改善活動を過小評価したくない。毎日の業務の中に、小さな問題点を発見し、それをグループで強力して解決していく。このやり方はとりわけ製造現場で大きな実績をあげてきている。

もしあなたの会社の社員がバカばかりでないなら、そのようなグループによる改善活動が一定の成果をあげているはずだ。だとすれば、ふつうの社員が発見できる業務上の問題点は、そのようなグループ活動によって、まだ改善されてはいないかもしれないが、少なくとも問題として取り上げられてはいるはずである。

それでも評論家的社員がぶちぶち文句を言うのはなぜだろうか?えてして評論家的社員の評論家的態度が、そうした後ろ向きで非建設的なものになるのはなぜだろうか?それは、たとえその評論家的社員が行動に起こしたとしても、決して改善できないだろうという無力感やあきらめがあるからだ。つまり、評論家的社員の発見している問題点というのは、多くの場合、あなたの会社の現状の組織や制度の枠内では改善不可能な問題なのだ。だからこそ評論家的社員は、評論家的ふるまい、つまり、「口先だけ」でしかその問題点を指摘することができない。

評論家的社員が登場するということは、あなたの会社が、それだけ深刻な問題を抱えているということの前兆なのである。今の体制のままでは改善不可能な問題、その問題を発見した人物を、悲観的で後ろ向きな気持ちにさせてしまうくらい困難な問題が存在するということのあらわれなのだ。

たしかに評論家的社員は、その問題点を正確に指摘しているわけではないだろう。まったくとんちんかんなことを言っている場合もある。しかし、とんちんかんなことを言うまでに、その社員に無力感や閉塞感を抱かせている原因は何か?と問うべきなのだ。きっと会社の中に見えない壁のようなものが広がりつつある。評論家的社員の出現は、あなたの会社が制度疲労を起こしていることのさきぶれなのである。

だとすれば、そういう社員に対して「口ばかりでなく行動に示せ」ということが逆効果であることは言うまでもない。仮にその社員がおとなしく上司の言葉にしたがって、何とかしようとしても、大して効果が現れないまま頓挫してしまう。すると上司はそれを待ち構えて「ホラ見てみろ。お前の言うことなど最初から信用してなかったんだ」となる。間違っていたのは評論家的社員であり、会社は間違っていなかったということにされる。

先日、NHKの山一證券に関するドキュメンタリーを見た。日本の証券会社の病根は、投資家のあげた利益に応じて社員の営業成績を判断するという当たり前のことができていないことにあると、その番組は指摘していた。客が損しようが得しようが、手数料が入ればよい。そういう社員の評価システムの有効性が今問われている、というわけだ。

そして、山一證券大阪支店の営業部長が、営業停止を目前にして朝礼で社員に語りかけていた。今までだれもが、そういった手数料商売をおかしいと思っていた。おかしいと思いながらも続けてきてしまった。これからは、それぞれの活躍の場で、証券マンの役割を問い直して欲しい。そのような趣旨の話だ。

もちろん、一視聴者としては、「そんなこと今ごろ気づいたのかぁ。山一の営業部長と言えども、組織の中にどっぷりつかった人間は善悪の判断もつかなくなるんだなぁ」と、なかばあきれながら見ていた。ただ、この話のポイントは「おかしいと思いながらも」という部分だ。

僕は、山一証券の大阪支店には、評論家的社員は一人もいなかったと断言できる。たぶん社員のだれかの頭に、「こんな商売の仕方でいいのだろうか?」という根源的な疑問がうかぶことはあったに違いない。しかし、彼らは評論家的であることを特に非難される営業部隊である。文句を言う暇があったら、一銭でも稼いで来い!彼らには、営業畑一本で出世街道を上り詰めてきた営業部長の声が聞こえるようであっただろう。

その結果どうなったか?たしかに山一證券が自主廃業に追い込まれたのは、大蔵官僚の日和見主義の結果だが、遅かれ早かれ顧客第一主義を標榜する外資系証券会社にその地位を脅かされていたのではないか。つまり、評論家的社員を抑圧しつづけてきたことによって、山一證券は根本的な変革のきっかけを失ったのだ。

ふたたび柴田昌治氏の『なぜ会社は変われないのか』という本を引き合いに出せば、この本で評論家的社員の出現は、たしかにネガティブなものとして描かれている。しかし、よく考えてみれば、評論家的社員の蔓延ということがなければ、ここに描かれた架空の自動車部品会社も、自分の会社にひそむ病根の深刻さに気づかなかったはずだ。

繰返しになるが、評論家的社員に対して「口ばかりでなく行動で示せ!」と諭すことは、逆に組織の病根を温存し、ひどい場合には悪化させる可能性だってある。評論家的社員の出現が暗示している問題点に目をむけずに、いつまでも行動主義という短絡的な考え方に固執することこそ無責任な態度である。

あえて何もせず、評論家的に自分の会社を見つめなおすこと。今の日本の会社にとっては、それも必要なことなのではないか?