homeup mail to
sub title

個人主義の本物とニセモノ(2)
( 20030831 )

Japanese/English

今回は前置きなしでハイエクの『Individualism and Economic Order』。第3節の途中からである。

「反合理主義のアプローチは、人間を高度に合理的で知的な存在とは見なさず、非常に非合理的で間違いやすい存在と見なす。人間の個人的な間違いは社会プロセスの中でしか修正できないと考える。反合理主義のアプローチは非常に不完全な材料から最良のものを作り出すことに目標をおいているのだ。これはおそらく英国個人主義のもっとも特徴的な点だろう。反合理主義のアプローチが英国思想界で支配的なのは、大部分がバーナード・マンデヴィルの深い影響によるものだと私は考える。中心的な考えは彼が始めて定式化したのだ。

デカルトの合理主義的「個人主義」とこの見解の対比をもっともよく示すには、『方法序説』第二部の有名なくだりを引用すればいい。デカルトは次のように論じている。「様々な人の手によって作られ、ばらばらの部分からなる作品は、一人の名人が完成させた作品のような完成度をめったに示さない」。彼はつづけて次のように示唆している(設計図を書き上げる技術者の例を引用しながら)。「半分野蛮の状態から文明の状態へとゆっくり発展した国家は、法律を順次制定し、いわば特定の犯罪や紛争の弊害に直面しただけでそれらの法律を施行してきたが、このような過程をふんだ国家は、共同体として団結した当初からある賢明な立法者の任命にしたがってきた国家に比べると、不完全な制度しか持たないだろう」。デカルトはこの点を強調するために、彼の意見に次のようなことを付け加えている。「スパルタがかつて卓越していたのは、その一つひとつの法律が優れていたためではなく、一人の個人に起源をもち、彼ら全員が一つの目標にむかっていた状況のためなのだ」。

この社会契約論的な個人主義の発展、つまり社会制度の「設計」理論を、デカルトからルソー、フランス革命を通して、社会問題に対する技術者たちの特徴的な態度まで追跡すれば、面白いことになるだろう。そのような素描をすれば、デカルトの合理主義がいかに根強く、歴史的現象を理解するのをひどくさまたげているかを証明できるだろう。そして歴史的発展には避けられない法則があるという信念や、この信念から派生した近代の運命論が生まれたのは、デカルトの合理主義の責任だということも証明できるだろう。

しかしながら私たちがここで問題にするのは、以上のような見解は「個人主義」として知られているが、以下の2つの点で決定的に真の個人主義と完全に対比をなしているということだ。まず一つは、この見せかけの個人主義について、「哲学者の中には、個人を出発点と見なし、個人固有の意思を別の人間の意思と契約によって結びつけることで社会が形成されると仮定する者もいるが、そんな哲学者はだれも、社会が自然発生的な産物だという信念を論理的にもつことができない」ということが言えるが、他方で、真の個人主義は、社会が自然発生的に形成されるということを理解可能にする唯一の理論だという点。そしてもう一つは、設計理論の必然的な結論が、人間が個人の理性の言いなりになる場合にしか、社会過程が人間の目標に役立たず、それゆえ社会主義へと直接つながっていくことになるが、他方で、真の個人主義はまったく反対のことを信じている。つまり、人間は自由にされれば、個人の理性が設計したり予想したりできるよりもおおくのことをなしとげる場合が多いということだ。

真の反合理主義的な個人主義と、偽の合理主義的な個人主義のこのような対比は、あらゆる社会思想に広がっている。しかしこれらの理論はともに同じ名前で知られるようになったため、また19世紀の古典経済学者たち、とくにジョン・スチュアート・ミルとハーバート・スペンサーが英国の伝統だけでなくフランスの伝統からも多くの影響を受けていたこともあり、真の個人主義とはまったく無関係な概念や前提条件がその教義の本質的な部分だと考えられるようになってしまっている。

おそらくアダム・スミスとその学派の個人主義が今もなお誤解されている様子をもっともよく示すのは、「経済人」というお化けを発明したのが彼らであるという考えと、彼らは厳密に合理的な行動を前提としていたり、概して間違った合理主義的心理学をつかっているために、自らの結論をだいなしにされているという考えである。もちろん実際には、彼らは決してそのような前提を持っていなかった。より真実に近く表現するなら、彼らの見解によれば人間は生まれつき怠けもので、先見性がなく、破滅的だということ、周囲の状況によって強制されない限り、人間は経済的に注意深く行動し、手段を目的にあわせることができないということになる。しかし彼らは人間の本性について非常に複雑で現実的な見解を持っていたのだから、こんな風に言うのは不当なことだ。スミスと彼の同時代人たちを、彼らの使っていた間違いだらけの心理学にかこつけてあざ笑うことがはやっているので、私はあえて次のような意見を述べたい。あらゆる実践的な意味で、ほとんどの「社会心理学」についての近代ぶった議論よりも、『諸国民の富』に書かれた人間の行動から私たちは多くを学ぶことができる。

しかしながら、主要な論点についてはほとんど疑いはないだろう。つまりスミスの主な関心は、人間がいちばん調子のよいときにたまたま達成できることよりもむしろ、いちばん悪いときに害をなす可能性を最小限にとどめることにあるという点だ。彼と彼の同時代人が提唱していた個人主義の最大のメリットは、悪い人間ができるだけ害をおよぼさないようにするシステムのことだ。このことはいくらでも強調してよいだろう。」

think or dieコメント:ハイエクが人間の不完全性を主張し、社会過程の中でのみ人間の誤りが修正されると言っているのが、権利上ではなく事実上であることを認めたとしても、実はおかしなことになる。事実として人間の不完全性は社会過程の中で補完されるためには、その不完全性がおたがいに伝達される必要がある。つまり人間が不完全である代わりに、コミュニケーションが完全でなければならないということになるのだ。

コミュニケーションが完全であるということは、たとえば人間が自分の誤りを意図的に隠そうとしないこと、あるいは、隠そうとしても無駄であることだ。別の言葉でいえば、事実を伝えるためのコミュニケーションの透明性が個人の意思に左右されないところで確保されていなければ、ハイエクの主張は成立しない。

しかし事実として僕らが目にしているのは、こうした透明な意思疎通がますます難しくなってきているということだ。その理由の一つは知識の専門性が高まっており、かりに透明性が確保されたとしても、伝えられた事実の正しさを一人ひとりが検証することが難しくなってきていることだ。社会過程のなかで不完全な人間の誤りが事実上修正されるというハイエクの考え方は、人間どうしのほとんど透明に近い意思疎通を前提としているという点で、あまりに楽観的すぎる。

他方、デカルト以来の合理主義は、他人の考えの自己に対する透明性はおろか、自分自身に対する自己の透明性をも疑問に付すところまで考えが進んでいる。現代の僕らを取り巻く、事実としての問題を考えるとき、ハイエクの楽観主義がほとんど何の足しにもならないことは、明らかである。それならむしろデカルト以来の近代合理主義の流れを批判的に汲むことで続いてきた、デリダやフーコーの脱構築を信用すべきではないだろうか。think or dieコメントここまで

「(反合理主義的な個人主義者たちが提唱する社会体制とは)社会を機能させるために、その運営を任せる適任者をわざわざ見つけだす必要がないような社会体制、あるいは、必ずしもすべての人間が今より良くなっていかなくても成り立つ社会体制、善意のときもあれば悪意のときもあり、知的なときもあるが多くの場合愚かしいといった、多様で複雑な人々をありのままに活用するような社会体制なのである。彼らの目標とする社会は、同時代のフランス人たちが望んだように「善良な人々、賢明な人々」だけに自由を与えるのではなく、すべての人に自由を認めることができなければならない。

偉大な個人主義の著作家たちがもっとも関心をよせていたのは、一連の制度を見つけ出すことだった。その制度によって人間を、自らの選択と日々の行動を決める動機づけによって、他人の必要にできるだけ多く貢献するように仕向けることができる。そして彼らが発見したのは、私的所有のシステムがそれまで考えられていたよりもずっと、そのような動機付けを人々に与えるということだった。しかしながら彼らはこのシステムが改良をゆるさないものだと主張しなかった。むしろ、いま彼らの議論は、積極的な制度の有無にかかわらず「利害関心の自然調和」があるという風に曲解されているが、彼らはそんなことを主張していない。彼らは個人の利害関心がおたがいに対立することに気づいているだけでなく、「上手に作り上げられた制度」の必要性を強調しているのだ。この制度は「対立する利害関心と妥協の利点を規則・原則として採用し、一つの集団の見解や利害が他の集団に対していつも優位に立つような力を与えることなく、利害対立を和解させる」ものなのである。

これらの基本的な心理学的仮定には、一つもうすこし考慮する必要のある点がある。個人主義は人間の利己心を認め、奨励するという信念は、たくさんの人々が個人主義を嫌う一つの理由になっている。そして実に理解するのが難しいために、この点で混乱が生じているのだが、個人主義の前提が意味するところについて私たちは慎重に検討してみる必要がある。もちろん、18世紀の偉大な著作家たちの言葉の中には、人間の「自己愛」あるいは「利己的な利害関心」さえもが「普遍的な動因」として書かれているのだが、これらの用語を使うことで、彼らは何よりもまず、ひじょうに広く見られる道徳的な態度を示そうとしていた。しかしこれらの用語は、個人にとっての目の前の必要性だけを考える、狭い意味での自己中心主義を意味していなかった。人々は「自己」のことだけに関心をもつと想定されているが、この「自己」には当然のことながら家族や友人も含まれるのだ。そして人々が実際に関心をもっているすべてのものを含めたとしても、議論の道筋は変わらないだろう。

この道徳的な態度は変わってしまうことがあると考えられているが、それよりはるかに重要なのは議論の余地のない知的事実である。そのような知的事実は誰も変えたいと思うはずがないし、それ自体で個人主義哲学者たちが導き出した結論をじゅうぶん基礎付けることができる。その知的事実とは、人間の知識と関心のおよぶ範囲には本質的に限界があるという事実であり、人間は社会全体のほんの小さな部分以上のことを知ることができないという事実だ。したがって人間を動機付けるものには、自分の行動が自分のわかる範囲で直接ひきおこす結果しかふくまれない。個々人が社会に対してもつ影響力の大きさを考える限り、人々の道徳的な態度にみられるばらつきはほとんどなくなる可能性がある。事実、すべての人の知性がじっさいに理解できるのは、自分を中心とするひじょうにせまい円の中にあることがらだけだからだ。完璧な利己主義者であれ、もっとも完璧な利他主義者であれ、一人の人間がじっさいに考慮できるニーズは、社会のすべての構成員のニーズに比べれば、ほとんど無視できるほど小さいひとかけらのようなものである。したがって本当に問題にすべきなのは、人間が利己的な動機付けによって現に導かれているかどうか、あるいは導かれるべきなのかどうか、ということではない。本当に問題にすべきなのは、自分で知ることができ、考慮することもできる直近の結果だけを考えて、人間が行動するのを許してよいかどうかなのだ。あるいは、人間の行動が社会全体に対してどのような意味をもつのかを、より完璧に理解できると思われる誰かが、これは適切だと考えた行動をするように、人間をしむけるべきかどうかということなのだ。

よく知られているキリスト教の伝統によれば、人の行動にはなんらかの利点があるべきなら、道徳的なことがらについて、自分の良心にしたがう自由が必要だとなる。経済学者はさらに次のような議論を付け加えた。人が社会全体の共通な目的にできるかぎり貢献をすべきなら、自分の知識と技術をフルに活用する自由が必要で、自分が知っていることと自分が考慮していることに対する関心から行動を起こしても良いことにする必要がある。この限られた関心の範囲によって、人間の行動は事実上決定されてしまうのだが、経済学者たちの主な論点は、どうすればこの関心の範囲を効果的な動機付けにして、人々が自らすすんで自分の視野のとどかないところにあるニーズに、できるだけたくさん貢献するようにしむけることができるか、ということだ。市場というものは拡大するにつれて、人間を自分で理解できる範囲よりもっと複雑で広大なプロセスに組み込むための効果的な方法になる。このことを経済学者たちがはじめから理解していた。人間が「自分の目的にはふくまれない目的」に貢献するようにしむけられるのは、市場を通じてなのだ」。


無断転載禁止

サラリーマンを考える 日本的なるものを考える 日常生活を考える
「おじさん」を考える 映像/音楽/書物 情報システムを考える
愛と苦悩の日記 筆者のYouTubeチャンネル

homeup mail to