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個人主義の本物とニセモノ(1)
( 20030827 )

Japanese/English

沼上幹氏の著作の参考文献になっていたので、ハイエクを初めて読んでみようと思い立ち、フリードリッヒ・A・ハイエク著、田中秀夫訳『市場・知識・自由―自由主義の経済思想』を図書館で借りて少し読んでみた。しかし第1章に訳出されている『真の個人主義と偽の個人主義』にあったデカルト批判にカチンと来て、しかもこの翻訳の読みにくいことはなはだしく、最後の方は複数の副文の連なりをそのまま日本語にしているものだから、いつまでたっても「、」また「、」で文が完結せず、ほとんど文意も追えないほどだった。そこでとりあえず英語の原文に当たってみることにした。

八重洲ブックセンターに2冊だけあったハイエクの英書、1冊は『Individualism and Economic Order』、もう一冊は『The Road to Serfdom(隷属への道)』で、運の良いことに読みたかった「Individualism : True and False」というエッセーが前者に収録されていた。自分だけ読むのももったいないので、講読形式でしばらく読むことにしたい。と言いながら途中で飽きて止めてしまうかもしれないが、そのときはご自身でAmazon.comから注文して頂きたい

なおハイエクの論述は必ずしも「サラリーマンを考える」にふさわしくないのだが、限られた会員の皆さんしか読むことができない区画に入れたかったので、便宜上ここに掲載することにした。

「T.個人主義:本物とニセモノ

社会秩序について明快な原理を提唱すると、今日ではほぼ確実に役立たずの空想家というレッテルを貼られることになる。社会的なことがらについて固定された原理にとらわれず、一つひとつの問題に対して「そのメリットに応じて」決断すれば、思慮分別のある証拠だと見なされるようになっている。何事にもご都合主義の考えにしたがって、対立する見解の間でいつでも妥協する用意があるといった態度も、やはり賢明な証拠だと見なされている。

しかしながら原理というのは、はっきりと分からないかたちで一つひとつの決断の中に暗黙のうちに含まれている場合であっても、自分自身を確実なものにするための手段を持っている。何がなされ、何がなされていないかということについてのあいまいな考えとしてしか表現されていない場合にも同じことが言える。このようにして「個人主義でも社会主義でもない」という看板のもとで、現実には自由な個人からなる社会から、完全に集団主義的な性格をもつような社会へと、私たちは急速に移行するはめになったのである。

私は社会組織についての一般原理を擁護することを提案するだけでなく、一般原理への敵意や、場あたり的な考えでことを進めたいという気持ちが、ある動向の産物だということも示してみたい。その動向というのは、一定の原理をみんなが認識することで成り立っている社会秩序から、直接の命令によって秩序が形成されるような社会へと、私たちを連れもどすような動きなのだ。この動きは、「段階的にものごとを進めるのはやむをえない」という考え方によって進められている。

この30年間の経験によれば、私たちは原理をもたないために漂流しているということを、ことさら強調する必要はおそらくないだろう。その間支配的だった実利主義的な態度は、経済発展に対する私たちの支配力をまったく増やさず、現実には誰も望まなかった状況へと私たちを追いやった。原理を無視することで私たちが得た唯一の結果といえば、出来事の論理によって支配されてしまっているという状況だけだ。私たちはそれらの出来事を無視しようとしたが、無駄だった。今問題になっているのは、私たちはしたがうべき原理を必要としているのかどうか、ということではない。むしろすべてのことに適用できるような原理の体系などというものが、そもそも存在するのか、ということなのだ。その原理の体系は、私たちが望みさえすれば、それにしたがって行動できるようなものであるはずだ。今日のさまざまな問題を確実に解決に導いてくれるような一連の教訓を、私たちはどこに見つけ出すことができるのだろうか。道徳的な目標だけでなく、その目標を達成するのに適した方法も教えてくれるような、一貫性のある哲学が、どこかに存在するというのだろうか。

これらのことについて、宗教そのものが決定的な解決にならないということは、教会が努力している様子を見ればよくわかる。教会は完全な社会哲学を作り出そうとして、キリスト教という同一の基礎から出発しながら、いくつかのまったく正反対の結論に達してしまったのだ。私たちがいま知的・精神的な方向づけを失っているのは、主として宗教の影響力が弱まっているからだ、ということに間違いはない。しかし、だからといって宗教を復活させたところで、社会秩序についての広く受け入れられる原理が必要なくなるわけではない。私たちは依然として政治哲学を要求すべきなのだ。宗教や道徳が与える教訓は、基本的で誰にでもあてはまるが、政治哲学が与えてくれる教訓はそれ以上のものだ。

本章のために選んだ題名をご覧いただければ、私がそのような哲学はまだ存在すると考えていることがお分かりだろう。その哲学とは、確かにほとんどの西洋的・キリスト教的な政治の伝統に暗黙のうちに含まれる一連の原理ではあるが、もはやわかりやすい言葉で明確に書きあらわせない。だからこそこれらの原理をもういちど完全に記述しなおす必要がある。その後にはじめて、それらの原理が実践的な導きとして、まだ役に立つのかどうかを判断することができる。

難しいのは、最近の政治用語があいまいなことで悪名高く、同じ言葉が別の集団にとっては正反対の意味になってしまっているという現実だ。さらに深刻な事実として、お互いに矛盾して和解できないような理念を信じている人たちを団結させるために、一つの同じ言葉が使われるということがある。「自由主義」または「民主主義」、「資本主義」または「社会主義」といった言葉は、もはや一貫性のある思想体系をあらわさなくなっている。まったく異質な原理や事実のかたまりを記述するようになっている。それらの原理や事実は、歴史的な経緯でたまたまそれらの用語に結び付けられただけで、その時々に同一人物が使っていたとか、単に同じ名前で呼ばれていたとかいった以上にほとんど共通点はない。

この点でもっとも被害をうけたのが「個人主義」という政治用語だ。この言葉は反対派によって、ほとんどそれとわからないように巧みに風刺されてきただけではない。決して忘れてならないのは、ほとんどの現代人は、今日時代遅れになった政治的理念を、その理念に反対する人たちの描いたイメージを通してしか知ることができないということだ。さらに個人主義という言葉は、歴史的に敵対する人がそれぞれ、ほとんど共通点のない社会像を目指しているのに、彼らの態度を共通して記述するために使われてきた。じっさい、私がこの論文を準備しているとき、いくつか「個人主義」についての標準的な記述をあたってみたのだが、この言葉がこれほどまでに乱用され、誤解されているなら、自分が正しいと信じてきた理念をこんな言葉と結び付けるのではなかった、と後悔し始めたほどだった。「個人主義」という言葉は、私が正しいと信じてきた理念以外のことを意味するようになるかもしれない。それでも私が擁護したい見解をあらわすために、この言葉を使い続けたいと思う。それには2つの理由がある。1つは、この見解が今までずっと個人主義という言葉で知られてきたということ。たとえこの言葉がその時々によって別のことを意味したとしても、である。2つめの理由は、「社会主義」という言葉が個人主義の反対の意味をあらわすためにわざわざ作られたという特質を持っているからだ。私が取り扱うのは、まさに社会主義以外のもう一つの選択肢となる体制なのである。」

think or dieコメント:この小論の中にあるデカルト批判を僕が不当だと思う理由は、権利の問題と事実の問題を、デカルトを批判したいがためにハイエクが意図的に混同しているように考えられるからだ。人間の知性に限界があるのは事実上そうだということである。権利上も限界があると仮定すると一人ひとりの人間は、本質的に特定の事柄を理解することができないということになるが、ではその理解不可能な事柄が一人ひとりの人間に対してどのように割り当てられるのかということを説明する必要が出てくる。この説明をしようとすると運命論になってしまう。Aさんは生まれつきこれこれの事柄を理解できない運命にある、などだ。

しかも一人ひとりの人間の知性には限界があると書き表すためには、それに先立って「限界のない知性」について理解している必要がある。限界があるかないか分からないものについて「限界がある」とは言えないからだ。限界があると表現できるのは、限界のない状態との対比においてのみである。つまりハイエクは暗黙のうちに無限の知性の認識を前提していながら、デカルトが人間に可能性としての無限の知性を認めたことを批判している。ハイエクの批判が正当であるなら、ハイエクは人間以外のものに無限の知性を結び付けていることになる。

その「人間以外のもの」こそ集団としての人間だというなら、有限な知性どうしが互いに重なる部分を持ちながらも、総和として無限になりうることをハイエクは証明する必要がある。しかし有限の知性をいくら足し算しても無限にはならない。集団としての知性が無限の可能性を持つためには、その構成部分である個人の知性が、少なくとも可能性としては(権利上は)無限である必要がある。

あるとき全く理解できなかったものが、時がたつにつれて理解できるようになる。集団としての知性が無限の可能性を持つには、個人の知性においてこのような過程が存在することを認めなければならないが、可能性としては時がたつにつれて何でも理解しうるということが、すなわち個人の知性が権利上は無限であるということであり、デカルトは飽くまで権利上の話をしているのだ。

こんなことを長々と議論するまでもなくハイエクは哲学者としては三流だと思われるが、その三流さ加減をよく知った上で彼の自由主義についての政治哲学を理解しようと努力する必要があると思い、ここで翻訳を試みているというわけだ。think or dieコメントここまで

「2

個人主義という言葉で私が本当に何を言おうとしているかを説明する前に、この言葉にどんな知的背景があるのかをいくらか示しておけば役に立つかもしれない。私が擁護しようと思っている真の個人主義は、ジョン・ロック、そしてとりわけバーナード・マンデヴィルとデビッド・ヒュームが近代的な意味で発展させ始めたものである。そしてジョサイア・タッカーとアダム・ファーガソン、アダム・スミスらの業績によってはじめて完成の域に達した。現代の偉大な思想家、エドムンド・バークを評してアダム・スミスは、一度も交流を持たなかったのに、経済的なテーマについて自分の考えを正確に思考している唯一の人物だと書いている。バークの業績も個人主義の完成に寄与している。個人主義は19世紀になると、その世紀でもっとも偉大な2人の歴史家と政治哲学者の業績にほとんど完璧なかたちで書き現わされている。アレクシス・ド・ドクヴィルとアクトン卿のことだ。この2人は他のどの著述家よりも、スコットランドの哲学者バークの思想をさらなる成功にみちびいた英国ウィッグ党員である。19世紀の古典経済学者、あるいは少なくともベンサム主義者や、彼らのうちの哲学的な急進派などが、別の起源をもつ異なった個人主義の影響をますます強く受けるようになった。

この第二の流れは、個人主義とはまったく異なる思想であるにもかかわらず、個人主義として知られており、フランスやその他の欧州大陸の著述家たちがその代表である。おそらくデカルトの合理主義が、この個人主義の形成に支配的な役割を果たしているからだろう。この伝統においてとくに目立つ代表的な人物は、百科全書派やルソー、重農主義者などである。その理由については後で考察するが、この合理主義的な個人主義はつねに個人主義とは反対のもの、つまり社会主義や集団主義へと発展する傾向にある。というのは、私が真の個人主義という名前をつけたいのは、上に述べた最初の個人主義の方だからだ。第二の個人主義はおそらく、厳密な集団主義の理論と同じくらい、近代社会主義にとっては重要な源泉と考えるべきものだろう。

個人主義の意味については混乱が広く見られるが、それを描こうと思えばバークの例が最適だろう。私には彼こそ真の個人主義のもっとも偉大な代表者と思える。彼は一般にルソーのいう「個人主義」の主な反対者だと説明されている(これは適切な説明である)。彼はルソーの理論によって、国家が瞬時に「個人のチリやクズ」へと分解されてしまうことを恐れていた。そして「個人主義」という言葉が英語に初めて取り入れられたのは、真の個人主義のもう一人の偉大な代表者、ド・ドクヴィルの作品によってであった。ド・ドクヴィルが『アメリカの民主主義』において個人主義という言葉を使ったのは、彼が批難すべきものとして拒絶した態度に対してだった。しかしバークとド・ドクヴィルの二人がアダム・スミスに近い基盤の上に立っていたことは間違いない。アダム・スミスに個人主義者という称号をつけない人はいないだろうし、彼らが反対する「個人主義」はスミスの個人主義とはまったく違うものだ。

それでは真の個人主義の本質的な特徴とはどんなものだろうか。まず最初に言うべきことは、なによりも社会についての理論であるということ。人類の社会生活を決定付ける力を理解しようとする試みであるということだ。そしてこの言葉が社会に関する見解から、一連の政治的な格律へとつながっていくのは、単に二次的な意味においてだけである。この事実を指摘するだけでも、個人主義についてもっとも広く見られる誤解を反駁するのに十分だろう。つまり個人主義は、孤立し、あるいは自足した個人の存在を必要条件としており(あるいはその前提の上に議論を組み立てており)、個人主義が始まるのは、社会の中に生きていることによってはじめて本性や性格が決定されるような人間からではない、という誤解だ。もしこの誤解が正しいのなら、個人主義は私たちが社会についてよりよく理解をする助けにまったくならないだろう。個人主義の論点はまったく違うものだ。つまり、個々人は期待された行為にしたがって、他人に対して行動をおこなうが、社会現象を理解するにはそれらの行動を理解するしかないのだ。この議論はまず最初に正統な集団主義の理論にたいして向けられる。社会についての集団主義の理論は、社会全体を直接理解できると主張し、社会はそれを構成する個人から独立して存在する独自の実体であるとする。しかし社会についての個人主義的な分析は次に、合理主義的な見せかけの個人主義に向けられる。見せかけの個人主義は実践の上で集団主義へもつながるものだ。人類が達成したさまざまなことがらはさまざまな制度に基づいているが、それらの制度の多くは、設計し命令する知性がなくても生まれ、機能しているということを私たちは発見する。個人主義が主張するのは、個人の行動の効果を合成したものを追跡することによって、私たちがこのことを発見できるということであり、アダム・ファーガソンが書いているように、「国家は体制に偶然行き当たるのであり、その体制は確かに人間の行動の結果ではあるが、人間が設計した結果ではない」。そして自由な人々は自発的に協力しあうことで、しばしば一人ひとりの知性が完全に理解できるものよりも偉大なものを作り出すのだ。これはジョサイア・タッカーとアダム・スミス、アダム・ファーガソンとエドムンド・バークにとって大きな主題となるものであり、古典政治経済学の偉大な発見である。この発見は私たちが経済生活を理解するための基盤となるだけでなく、本当に社会的な現象を理解するため基礎にもなる。

上述のような見解によれば、私たちは人間に関するさまざまな事実の中に秩序を見つけるが、その秩序の大部分は個人の行動の予期せざる結果として説明できることになる。そして他方にはまた別の見解があり、私たちが見つけ出せるすべての秩序は熟考された設計まで遡ることができるとしている。両者の見解の差異は、18世紀英国の思想家たちが提唱した真の個人主義と、デカルト派のいわゆる「個人主義」との最初の大きな対比である。しかしこの対比は以下の二つの見解の間にある、もっと大きな差異の一つの側面でしかない。一つの見解によれば、人間に関するさまざまな事実において理性の果たす役割を、概して低く評価し、じっさいに部分的にしか理性に導かれなくとも、人間は今持っているものを手に入れてきたと主張する見解がある。そしてその見解は、人間個人の理性は非常に限られており、不完全であると主張している。もう一つの見解によれば、大文字の理性はすべての人間が等しく、完全に利用できるものであるという前提に立ち、人間が手に入れたものは個々人の理性が直接生み出したものであり、したがってその理性を前提としている。前者の見解は、人間の知性には限界があるという鋭い認識の生み出したものであり、非人称で匿名の社会プロセスに対する謙虚さにつながる。この社会的プロセスによって個々人は自分たちの知っているよりも大きなものを作り出すことができるのだ。一方、後者の見解は、個人の理性の力についての行き過ぎた信頼が生み出したものである。そうした行き過ぎた信頼は、理性が意識的に設計しなかったもの、理性にとって完全に理解できないものに対する軽蔑の念を生み出す。」

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