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『発生』:1953/54年の序文
( 20031126-20040117 )

Japanese/English

今回からデリダ自身による1953/54年の論文への序文を読み始めるのだが、一つおわびがある。原註のうち、さまざまな著作について(特にフッサーリアーナについて)、原典、フランス語訳、英訳などへの参照がくどくどしく書かれている部分は、勝手ながら省略させて頂いた。申し訳ないがこれらの参照については本論文のフランス語版か英語版の原註を読んで頂きたい。また今回に限って、前半は英訳から、後半(「『その代わりに』という表現は...」以降)はフランス語の原典 Derrida J., Le problème de la genèse dans la philosophie de Husserl, Paris, 1990 からの翻訳になっている。今後はずっとフランス語原典からの翻訳になる。くどいようだがこのページに掲示している『発生』の翻訳はすべて、単なる日曜哲学愛好家でしかない僕による翻訳なので、これを学術目的に利用することは固くお断りする。

2003/11/26付記:フランス語で読み直してみると意味の取り方がかなり違ってくる箇所がままあるので、やはり時間を見つけてフランス語から翻訳し直すことにした。

2003/12/08付記:originaire, originaritéは渡辺二郎訳『イデーン』(みすず書房)によればそれぞれ「原的な」「原的であること」とされているが、「原的であること」という翻訳がやや冗長だと思われたので、以下のthink or die訳ではあえてそれぞれ「始原的な」「始原性」と訳してみた。僕の訳語が気に入らない方は、「始原」という言葉に出くわしたら渡辺二郎訳にならって「原的」と置き換えながら読んで頂きたい。

2004/01/17付記:1953/54年の序文は数ページに分けて掲載していたが、最後まで翻訳が終わったのを契機にこの1ページにまとめた。


発生のテーマとテーマの発生
  「哲学の歴史と歴史の哲学」
  二重性と弁証法
  発生の矛盾
  先取りと「ア・プリオリ」な綜合
  主題の発生:不十分な二つの解釈
  発生と還元
  錯綜した含意と「方法」の困難さ


発生のテーマとテーマの発生原註1

(原註1:これらの長い予備的な考察は、本来いまのような歴史的研究の導入になるはずではなく、同じ問題をめぐって後に着手するかもしれなかった著作よりも、もっと詳細で教条的な著作の導入となっている。これらの予備的な考察が、後につづく歴史的な試論にいくぶん光を投げかける可能性があるなら、ここに紹介するのもいいことかもしれないと考えたのだ)

「哲学の歴史と歴史の哲学」

この論文のはじめから終わりまで、二つの問題がおたがいに絶えず混ざりあい、含意しあうことになるだろう。それらの問題が、たがいに区別され、厳密に並置できるような定義に適しているとすれば、ここで「思弁的な」問題、つまり、ひじょうに大きな意味で哲学的な問題と、「歴史的な」問題について語らなければならないだろう。しかし最初から言っておく必要がある。最終的にわれわれは発生の哲学に賛成することになるが、その発生の哲学は、方法論的なものと慣例的なものといった区別の可能性を厳密に否定すし、その根源的な含意の中に、哲学の歴史と歴史の哲学という二つの意味の世界が本質的に分離できないということを明らかにするだろう。

一方で、じっさいに、それ自体として考えられた、発生についての哲学的な問題に取り組んでいるように見える。つまりこの問題は歴史的な土壌の中で生きることができたのだが、その土壌から根こぎにされたものとして取り組んでいるように見える。ならばフッサールのテクストは弁解の形をとるだろう。その歴史的な道筋をたどっていけば、フッサールのテクストはその哲学的な特殊性と広がりの中で扱われた問題に向かって近づいていくための唯一の道筋になるだろう。この問題とともに、客観性や、基礎づけの正当性、歴史的な生成、形相と質料の関係、能動と受動、文化と自然などといった偉大な古典的問題の核心に入ることになるだろう。哲学的な地平の全体性を明らかにするためには、これらの問題を思い出すだけで十分だ。

他方で、発生の問題によせる関心は、その哲学的な重要性のなかで取り扱われているのだが、ある意味で二次的で間接的なものとして現れるだろう。その関心は導きの糸として役立つだろう。その関心はより直接的に歴史的な足取りの探求へとつながるだろう。フッサールの思想に統一性または非連続性が、その生成において提示されていると結論づけるべきだろうか。これらの仮設のうちの前者または後者をどのように理解すべきだろうか。少なくともこれらフッサールの命題や主題において明らかな変遷の意味は何なのだろうか。

したがってここで、発生の概念は二重の意味で中心的である。まず、哲学と歴史の関係を疑問に付すという点で。非常に一般的な方法で、そして、その普遍的であると同時に個別的な意味で、歴史は原註2、理性的な構造、(サルトルがその言葉を使ったような意味での)「意識」、そして始原的な意味の体系が連続的に現われるのを記述することによって、すべての知識、または、すべての哲学的な意図が、その歴史的契機に依存しているということを含意しているように見える。こうして歴史は、客観的なものの絶対性と、基礎の自律性に対するあらゆる要求を裏切っているように見える。理性と哲学的な意識を、自然で客観的な時間の中に位置づけることによって、発生は自律的な基礎づけの探求としての哲学の可能性の問題を、物理学や人類学的な学問に対する哲学の関係についての問題と同時に、提示するだろう。物理学や人類学的な学問は、いかなる哲学よりも前に、実的な(reell)発生原註3の光景を与えているように見える。しかしもともとこの光景が可能なのは、哲学的な意識に対して、そして哲学的な意識を通じてではないだろうか。その哲学的意識は、その光景の学問的な基礎づけをするだけでなく、自分自身をそこに生じさせ、そこに引き起こさせ、自分自身をそこに包含させる。そのような哲学全体こそが、自分自身の意味と尊厳について、ここで自分自身に問いかけるだろう。

(原註2:ここでは構成された学問から始める必要がある。しかしこのように始めることがどうして「フライング」であり、本質的に「ナイーブ」な始まりであるかを、後ほど見ることにする。次のような問題についてしばしば考える必要があるだろう。つまり、言説にとってどうしていつも誤った始まりが必要なのか。この必要性はどういった意味をもつのか。それは単に修辞学的な問題ではなく、心理学や「教授法」の要求にこたえるだけではないように思える。これらの要求は、それ自身、次のような問題のより深い「契機」を参照している。なぜ構成されたもの、つまり、派生的な生産物からいつも始め、その後に、構成する起源、つまり、もっとも始原的な契機へともどっていかなければならないのか。ここに提起されているのが、発生の問題全体であることを、後に見ることとする。E.フィンクは『イデーンT』で「現象学的還元」についてあつかったフッサールのテクストに関連して、類似の問題を提起している。フィンクの『現代の批判におけるE.フッサールの現象学的哲学』を参照のこと。)

(原註3:フッサールのつくった世界的な自然な真実性(Reales, Realität)と、生きられたものの真実性(reell)の区別をつかって、発生のこの真実性の意味に後ほど光を当てる必要があるだろう。)

絶対的な始原原註4の要求をテーマとして取り上げ、同時に生きられた経験原註5の時間性を究極的な哲学の参照ととらえるそのような哲学を通して、このような哲学を通して、フッサールの思想がこの問題をどのように提示し、取り扱っているかを見ておくのは興味深く見える。その哲学は同時に、哲学に対して学問としての厳密さ原註6を新たに要求し、その厳密さを具体的な生きられた経験の純粋さに求める。またその哲学は、絶対的な主観性を、それが心理学であれ歴史であれ原註7、構成された学問から引き剥がし、歴史の哲学を基礎づけようとし原註8、現象学と心理学をある意味で和解させようとしている原註9

(原註4:フッサールなら「考古学」という言葉を、「世界的」な意味ではなく現象学的な意味へ引きもどしたかっただろう(E.フィンク『E.フッサールの現象学の問題』参照)。絶対的な始原の探求はフッサールの著作のすべてを貫いて存在している。特に『イデーンT』第1章44頁を参照)

(原註5〜9は単なる参照のため省略)

いまやフッサールの問題関心全体を動かしているのは、たしかに発生のテーマだ。フッサールの主なアプローチ方法を表面的に見ると、その問題関心は2つの幅広い運動にしたがっているように見える。一つは前へ、もう一つは後ろへの運動だ。最初の運動は、心理学主義、歴史主義、社会学主義の拒絶である。自然的または「世界的な」学問の、論理学的で哲学的な野心は、非合法で矛盾したものだからだ。ひとことで言えば、フッサールは「世界的な」発生の現存をそれ自体として否定してはいないが、それでもなお彼の目にはその実在は、論理的な意味の客観性に達しないし、それに相関して、現象学的または超越論的な意識の存在または尊厳にも達しない。この現象学的または超越論的な意識こそが、あらゆる発生を構成する源なのだ。その意識の中で始原的な生成が自分自身を作り出し、自分自身に対して現れさせるのである。「超越論的」還元は、この運動の目的であり原理でもあるが、あらゆる歴史的な発生、この語の古典的かつ「世界的な」意味でのあらゆる発生との決別なのである。しかし観念論者のスタイルで哲学的な純粋さへと退いた後、ある種の回帰、幅広い再征服原註10の運動の輪郭が告げられる。それは、超越論的発生原註11という概念だ。おそらく適切に理解されたあらゆる還元が明らかにするであろうすべての還元に対して、この超越論的発生の概念は原理的に抵抗する。そしてこの概念は、歴史を哲学的に回復するように監視し、現象学と「世界的な」学問の和解をゆるす。現象学は「世界的な」学問の基礎となっている。なぜなら、フッサールはその経歴の最初から、そのような統合への要求を定式化していたからだ。フッサールはアプローチを巧みにあやつっている間じゅう、どうやって自分の探求の統一性を守りとおしたのだろうか。その間、少なくとも表面的には彼の探求の統一性はムラがあり、振り子のようにゆれているのに。ひとことで言うと、自然的な時間では超越論的発生に先立つ経験的な発生の主題を、理解して見つけ出すために、あるとき超越論的発生の主題が現れるのだとすれば、この進展の意味をよく考える必要がある。それはどのようにして可能だったのか。ここではこの問いが、哲学の純粋な歴史に属しているのではなくて、むしろその歴史的な特殊性においてこそ、あらゆる発生の意味を非常に正確に参照しているのだということを示したいと思う。

(原註10:この再征服をデカルト的なスタイルの、「コギト」の絶対的な確かさにたどり着いた後の、演繹的著作と混同しないように注意しなければならない)

(原註11:この概念は『イデーンT』(1913年)までは登場していないが、『Erfahrung und Urteil』(手稿のほとんどが1919年に書かれている)ではっきりと使われており、それ以降のすべての著作に現れる)

二重性と弁証法

たしかにここでの問題設定が二重になっていると反論することができるだろう。その問題をもっとも図式的で抽象的なかたちで提示したとき、哲学の歴史をくわだてるすべての方法論と同種のものになると、反論できるだろう。というのは、歴史でもあり同時に哲学でもある後者の超越論的発生の動きは、定義上、振り子のようにゆれうごく弁証法のなかにつかまえられる運命にあるのではないだろうか。つまり、誰かの思想をその言説と著作の根本において捕らえた場合の歴史的な単独性と、その主張と意図の重要性とみなした場合の哲学的な普遍性、その両者の間の参照するものされるものの始原的で乗り越えられない相互関係のなかにつかまえられる運命にあるのではないか。この弁証法の観念は、このように提示されると、平凡であいまいなばかりではない。不十分で誤りでさえある。ここで問題になっているのは宿命にしたがうことでもなく、学問として構成された哲学の歴史の法を適用することでもなく、他の場所で議論されるだろう問題をその結論までたどっていくことでもない。この問題は後に論じることにする。われわれ自身を構成された学問のもつ特定の問題の前に、あるいはそれを超えたところに置きながら、すでにフッサール的な態度を実践する必要がある。それはフッサール的な態度が、まさにそれが始原的に構成される体験の中でもなお独立していることを検証するためなのだ。ここでその観念を協調しておいた弁証法は、「方法論」でも、ある視点でも、実践でもないだろう。存在論がすでに世界的に構成された学問でない限りにおいて、その弁証法が「存在論的」であり、語のフッサール的な意味で(この意味をスコラ哲学の意味やカントにおける意味と区別する必要がある)、厳密に超越論的なものであることを示してみたい。この問題はさきほど喚起しておいた、さまざまな問題の統一性でもあるだろう。この序論で示しておきたいのはこの統一性が弁証法的な統一性だということだ。この統一性はまず、形式的または人工的な統一性から区別される。形式的または人工的な統一性は、著作の本当の内容に対して外部から押しつけられるおそれがあり、二つの展望、つまり、並行しておこなわれる二筋の探求の偶然の統一性である。また弁証法的な統一性は、フッサール哲学の歴史的な内容をその哲学的な意味に還元したり、逆に哲学的な意味を歴史的な内容に還元したりする分析的な統一性でもない。フッサールの思想を哲学的に検証することで、われわれは発生の概念を課せられだろう。その発生の概念はそれ自身、その代わりに、フッサールの哲学をその生成の中で一定の理解をするように強制するだろう。「その代わりに」という表現は今回は方法論的な意味しかもたない。この弁証法の現実的な(réel)始まりを決定することは絶えず不可能だろう。2つの運動の区別と関連性を同時に肯定することができれば、その同時性と複雑さを、純粋で単純な継起に還元することは決してできないだろう。どのような言葉に対しても、最終的には、年代学的で、論理的で、存在論的な原則としての価値を与えることはできないだろう。現実的な始まりを現実的に規定することがどのようにしても不可能であることは、発生の哲学の最終的な意味となるだろう。その最終的な意味こそ、本論の結論として定義したいと思っているものである。そうすることが不可能なのは、究極の哲学的な結論としてあり、形式的で非超越論的な結論である。つまり、それが不可能であることによって、弁証法を停止させずにすみ、同時に、始原にある絶対原註12を参照しているフッサールに忠実であり続けることができ、現象学によるさまざまな解釈を超えることができる。それらの解釈はこの弁証法を、唯物論者的な意味であれ観念論的な意味であれ、形而上学的な意味の中で規定する。

(原註12:特に「無限の作業」としての哲学というフッサールの考え方。『危機』を参照)

フッサールの思想のさまざまな契機の継続した連鎖と、それらの契機の相互関係、そして相互の含意を理解する仕方は、したがって同時に、発生の哲学を前提とし、呼び出すだろう。いかなる結論づけも、演繹も、また、発効させること、それらの手続きのあれこれによってあらかじめ与えられているような方法を技術として使うことも、まったく問題ではない。そのような方法の適用は、つねに、ある原則を弁証法的に複雑化する。その原則はそのような方法が適用されることで、形式的に第一義的かつ単純なものとして、現実に両義的かつ弁証法的なものとして明らかにされるだろう。二つの言葉はそのときどきに、決して相手方を二次的なものと結論付けることを許さず、おたがいを疑問に付す。さらに、弁証法的な偉大な主題を、更新しないにしても、少なくとも設立し、認証することができるのは、フッサール以降だけであることを示そうと思っている。そのような弁証法的な偉大な主題は、プラトン哲学からヘーゲル哲学にいたるまで、哲学のもっとも強力な伝統に生気と動機を与えているのだ。原註13

(原註13:本論の途中では、もっとも興味深い歴史的なアプローチが非常にしばしば必要になっているように見えるだろう。そのようなアプローチについては、ほのめかすだけにとどめておくようにしたいと思う。そうすることでそれを重んじつつも、すでに非常に広大なものである主題から距離を置こうと思う。ここでは、哲学の歴史に関してフッサールがとっている著しい無視の態度を、皮肉でなく、よりどころにできるのではないだろうか。)

発生の矛盾

われわれの意図において、そして、もっとも一般的な形の下で、この弁証法が還元不可能であることを、どのように示せばいいだろうか。最初に発生を、素朴かつできるかぎり形式的に検討し、その概念の中に二つの矛盾する意味、つまり、始原としての意味と、生成としての意味を統合する。一方では、じっさい発生とは誕生であり、ある瞬間またはある「審級」原註14の絶対的な生起である。その「審級」は先行する審級、創造、根本性、自分以外のものとの関係における自律性といったものに還元できない。要するに、絶対的な始原、存在論的または時間的に考察する限りでの始原性、公理として考察する限りでの始原性なしに、発生は存在しない。発生による生産はすべて、超越論的でないものに対する超越によって現われ、意味をもつようになる。

(原註14:ここでこの「審級」という言葉を使うのは、その意味があいまいだからである。その意味は、時間と存在の二重の領域に反響している。)

しかし、その同じ契機において、発生を包括する存在論的で時間的な全体性のただ中にしか、発生は存在しない。発生による生産はすべて、自分自身以外のものによって生産され、未来によって追い抜かされたもの、呼び出されたもの、方向付けられたものによってもたらされる。発生による生産は、一方ではそれ自身のものであり、しかしながら他方ではその生産をはらゆる方向へはみ出し、包み込むような文脈の中に書き込まれることによってしか、存在しないし、意味を持たない。そのような文脈が、発生による生産自身のものであるというのは、つまり、その生産がその文脈に属しており、その一部分になっているということであり、それによって連続性におかれるということだ。ある意味で生産はその文脈を含意し、極限的にはそれを含み、包括し、認識している。このようにして発生は包含であり、内在なのだ。

あらゆる発生の実在は超越論的なものと内在的なものの間の、そのような緊張関係を、意味として持っているように見える。まず発生は自らを存在論的あるいは時間的に無限なものであり絶対的な開始として、連続性と非連続性、同一性と他性としてあたえる。この弁証法(本論文では少なくともこの考え方に光を当てたいと思う)は、同時に連続性と非連続性が連続している可能性原註15であり、同一性と他性が同一である可能性、等々である。このような同一性と連続性は絶対的に形式的なものでもなく、絶対的に現実的なものでもない。形式主義と現実主義の対立はここでは「現実的なもの」に対する反定立によって形式的なのではなく、「超越論的なもの」に対する反定立によって形式的なのだ。ひとことで言えば、その対立は「世界的な」ものだ。皿に説明した方がよければ、絶対と相対の形式的な絶対は、絶対的に形式的なものでもなく、絶対的に現実的なものでもない。つまり、何らかの仕方ですでに構成されたものなのだ。このような弁証法の弁証法的論理は、ひとつの構成された「形式論理学」であり、構成する「超越論的論理学」の発生へと送り返す。その「超越論的論理学」の水準において、「弁証法」という言葉は単に類推の意味しか持たないということを、後ほど考察する。偉大な弁証法と生成についての偉大な古典的哲学の弱さは、その形式主義と「世界的」な点にある。それらはつねに「二次的な」対立物から出発して打ちたてられる。その「二次的な」対立物はすでに、形相と質料、意味と感覚などの間で形式化されており、その結果、伝統的な形而上学において提示されているような発生は、(プラトン哲学やヘーゲル哲学において)完全に理解可能または有意味であり、(弁証法的唯物論において)完全に歴史的あるいは現実的であるという口実の下、自らを超越論的な発生につなぎ直すためのつながりを断ち切る。超越論的な発生は、「始原的なもの」であるため、自分が生産した構成物の中でのみ弁証法的である。しかし「非弁証法的なもの」が「弁証法的なもの」を構成するためには、そしてその構成が、無からの純粋な創造または単純に結合するだけの構築にならないためには、その「非弁証法的なもの」は「すでに」弁証法的である必要があるのではないだろうか。フッサールによって理解されているようなものとしての超越論的な発生について、このような問題を設定したいと思う。もし「始原」が弁証法的であるなら、その「始原」は「原始性」との関係では二次的なものではないのか。超越論的なものと世界的なものの間の区別は崩れるだろうし、それとともに哲学のあらゆる根本的な基礎づけの可能性も崩れるだろう。つまり現象学は現象主義になってしまうだろう。しかしフッサールが非弁証法的なものと弁証法的なものとの弁証法を、形式的で「空虚な」意味として、派生的な仮設として、いかなる本質にもいかなる始原の現前にも送り返さない概念として、本物ではない志向性として考えていたことは、すでに分かっている。そのことを彼に認めるのはときに難しいだろうが、しかしその問題は重要であり、提示されたままになっている。その問題は本論が成し遂げたい二つめのことと結びついている。それは、この「弁証法」をフッサールが描いたように始原において構成している運動は、同時に、フッサール哲学の発展の「弁証法的な」理解を指し示しているということだ。ひとことで言えば、この際限ない矛盾は、現象学的な試みにとって、動機付けであると同時に最後の意味でもあるだろう、ということだ。

(原註15:可能性と必然性の弁証法についても、このように二つずつ連結されたほかの用語についてここからもう少し述べているようなことを、すでに言うことができる。)

先取りと「ア・プリオリ」な綜合

これらの省察の入り口からすでに、その省察の究極的な意味を引き渡す必要があるのは偶然ではない。ここで問題になっているのは、方法や技術の必然性ではなく、経験の次元による拘束ではない。すでに言ったように、われわれの説明にわれわれが与えた形式は、思弁的に設定された問題に対する答えと親密かつ弁証法的に結びついているということは、まさに本当だからだ。このように絶えず先取りすることは、人為的でも偶然でもない。あらゆる発生、あらゆる発展、あらゆる歴史、あらゆる言説が意味をもつためには、その意味はなんらかの仕方ですでにその始原から「すでに」でなければならない。さもないと、意味の現われと生成の現実性を同時に理解することができなくなってしまうだろう。したがってある特定の先取りは、あらゆる発生の意味に忠実なのだ原註16。あらゆる革新は立証であり、あらゆる創造は完成であり、あらゆる出現は伝統である。いましばらくこの一連の判断にとどまることにしよう。まずそれらの言葉の一方または他方がなければ、人間の生成はその内容においても、意味においても不可能になる。立証のない発明は同化できず、純粋な順応になるだろう。限界において、それは「意識に対するもの」でさえなくなるだろう。あらゆる意味を「自己にとっての」意味として知覚しないような意識はない(この「自己にとっての」とは超越論的な主観にとってということであり、心理学的な主観にとってではない)。あらゆる意味は意識に対するものであり、定義上、志向的で「超越論的なエゴ」にとって見知らぬものではありえず、つねに「すでに」現前しているものとして自らを明らかにする。限界において、立証のない発明は意識の志向性を否定するだろう。というのは、そのような発明は何ものに「ついての」発明でもないのであって、つまり自分自身(によって)自分自身(を)発明するものではないのだ。そのような発明はあらゆる発明の意味そのもの、綜合的な意味である意味そのものを破壊するものである。超越論的な志向性原註17のパラドックスと奇妙さは、発生の象徴としてのあらゆる発明の中心に再び現れる。時間的な行為が立証するものとなり、限界において分析的であるのは、生成のおかげであるのと同じように、「綜合的な」価値によってでもある。しかし立証のない発明が、志向性のない意識という神話、世界と時間から根こそぎにされた思考という神話の中でしか考えられないのと同じように、発明のない立証は何ものによって何ものも立証せず、純粋な同語反復であり、うつろで形式的な同一性であり、あらゆる真理が現れる意識や世界、時間の否定である。したがって、発明のない立証が綜合の行為の中で、自分自身以外のものへと送り返さなければならないのは、あらゆる立証の、そして意味を狙うあらゆる行為の「分析的な」本質のおかげだ。あらゆる創造とあらゆる完成、あらゆる出現とあらゆる伝統の間の結びつきを検証できるのは、同じ意味においてである。しかしながら、形式論理学つまり絶対論理学の観点からすると、これらの判断はその内部に還元できない矛盾を持っている。というのは、「AはBである」といったタイプの属性についての判断が問題になっているのではないからだ。そのような判断においてBはAの述語となるだろう。ここでそれぞれの言葉の意味そのものは、主語と述語がそれぞれの契機の一つひとつにおいて、まとめて与えられているような意味なのだ。主語と述語の一方を他方に結びつける以前においてさえ、明らかに分析的な観点からすると、発明は「すでに」立証であり、立証は「すでに」発明である。したがってこれらの判断の二つの言葉が、交換可能であるのは、ア・プリオリな必然なのだ。それら二つの言葉はすべて、同時に主語であり述語である。それらを結び付けている必然性は絶対的だ。しかし同時に、それらのような判断の明証性は分析的ではない。もし分析的だとすれば、それらの言葉の一つひとつと矛盾することになるだろう。それらの言葉は二つとも、じっさいに一つの生成的で綜合的な価値をもっている。それらの言葉は二つとも、自分たち以外のものを狙いとして定め、包含し、生産する。説明すること、つまり、覆いを取り除くこと、ある論理の中で分析的な行為としてとらえられた説明は、ここでは論理学を基礎付ける存在論的あるいは超越論的な意味で綜合なのである。しかしこの綜合が隠れたものを明かすものであればそれだけ、ア・プリオリであるということになる。この綜合が綜合であるためには、生産的で発生的である必要がある。この綜合が意味のある綜合として現れるためには、ア・プリオリである必要がある。そうでなければ、その綜合はまったく意味を現前させないだろうし、そのようなものとして認識することもできないだろう。ある契機から別の契機へ移ることは奇跡の形をなし、歴史にとっての例外の形をなし、信じがたい新しさの形をなすだろう。発生あるいは綜合は、現実的な生成ではなく、時間の爆発であり収用である。カントはヒュームに反駁しつつ、悟性のア・プリオリな形式が介入しなければ、あらゆる判断は必然性という性格を失ってしまうだろうということをうまく証明した。ここで歴史的な分析には立ち入らないことにしよう。ただカントが数学的な次元の判断だけを「ア・プリオリな綜合」と形容したことだけを記しておこう。数学的な次元の判断は正確に言えば発生を逃れるものだ。それらの判断の綜合は、少なくともカントの目には「現実的な」原註18ものではない。それらの判断が歴史的に現実的な経験の中で生まれるものではない限りで、また、それらの判断がそのような経験によって「構成されたもの」ではない限りで、それらの判断はア・プリオリである原註19。ある意味、カントにおいて、経験的なものとア・プリオリなものは互いに相いれない。あらゆる発生の意味は現象的な意味である。発明は絶対的な立証になっていない。したがってその発明は現実的な発明ではない。あらゆる判断の経験的=発生的な意味は構築の対象であり、したがって定義上、疑わしい。少なくともこの点で、ヘーゲルによるカント批判原註20がフッサールの観点を非常に正確に予告しているのは驚くべきことである。現実的なものについて「現象的な」と言われる経験は、ア・プリオリな綜合と両立しないどころか、あらゆる経験とその経験のあらゆる意味を可能にするのは(例えば、非常に一般的な仕方で、思惟されたものと現実的なもの、意味と感覚でとらえられたものの)ア・プリオリな綜合原註21なのである。起こりうるすべての経験の現実的な原理としての、そのような始原的な綜合という考えが、超越論的意識の志向性という考えと緊密に結びついていることは、あまりに自明すぎる。ヘーゲルの思想とフッサールの思想が、そのように奇妙なほど深く似通っていることを、これからもたびたび証明しなければならないだろう。しばらくの間は、現実的な発生の問題を提示することができるのは、ヘーゲルとフッサールの思想の唯一の展望の中においてであるとうことを証明するだけで満足することにしよう。現実的な発生はひとつの綜合である。たとえカントにおいて、綜合がそれ自体で、あるときには、数学的な合理性の世界の中で、完全に理解可能でア・プリオリに必然的だが、「非現実的」原註22で非時間的でしかありえず、またあるときには、経験的な生成の中で、現実的で時間的だが、ア・ポステリオリであり、偶発的で疑わしいものであるとしても、志向性についての疑いなく始原的で基礎的な経験は、「批判的な」態度をくつがえしつつ、歴史的な生成の中心にア・プリオリな綜合を書き込む。そのようなア・プリオリな綜合はあらゆる経験の始原的な基礎であり、あらゆる経験は経験それ自身の中で、それ自身によって、引き渡される。綜合として考えられた発生の問題が興味深く、かつ、難しいのは、まさにその点である。意味あるいは発生の存在の、絶対的に始原的な基礎づけ原註23は、どのようにしてその発生の中で、その発生によって包含されることが可能なのか。というのは、あらゆる綜合がア・プリオリな綜合の上に基礎づけられるというのが本当ならば、発生の問題はこのア・プリオリな綜合の意味の問題だからだ。もしア・プリオリな綜合が、あらゆる判断や起こりうるあらゆる経験の源にあり、その基礎にあるのだとすれば、無限の弁証法の方へと送り返されるのではないか。基礎づけの始原性は、どのようにしてア・プリオリな綜合たりうるのか。すべてのものはどのようにして複雑なものでありうるのか。もしあらゆる発生とあらゆる綜合が、ア・プリオリな綜合によってそれらの構成へと、ア・プリオリな綜合そのものを送り返すのだとしたら、超越論的で資源的なものだと主張されている、構成的な経験の中にそのア・プリオリな綜合が現れるとき、つねに「すでに」意味を持っているのではないのか。定義上、つねに「すでに」他の綜合によって構成されているのではないのか。このようにして無限に続くのではないのか。もし現象学的な始原性が、歴史的「原始性」と呼ぶことのできるものの後に来るのだとすれば、現象学的な始原性は、どのようにして意味の最初の構成を絶対的に熱望することができるのか。原始性は始原における構成によってしか、そのようなものとして「現われない」、そう言う必要があるにもかかわらず。この弁証法を乗り越えることにはつねに、欺瞞があるのではないだろうか。この弁証法の哲学的な主題化原註24を、超越論的な構成の始原性、志向性、そして近くへと送り返すことによって、形式主義を乗り越えようとしているのだが、その形式主義に再び陥ってしまったのではないだろうか。現象学的な時間性、超越論的で始原的な時間性は、単に現われにおいてのみ、そして「自然な」時間から出発してのみ、「時間化するもの」であり構成するものなのではないか。そしてそれ自身超越論的な意識には無関心に、そのような意識に先立って、そのような意識を包み込みつつ、そうなっているのではないか。フッサールはとりわけ人生の最後の数年間に、おそらくそのことに異議を唱えることはなかった。おそらく彼の最後の努力はすべて、この新しい関係を現象学に同化することによって、現象学を救うことにささげられていた。ともかく、いまや今や明らかなのは、ア・プリオリな綜合の上に築かれたあらゆる意味が、始原的に現われ、そして自らを現れさせるのは、つねにある「先取り」によって、少なくとも形式的な「先取り」によってであるということだ。発生の絶対的な意味がどのようにして、同時に「始原的」でもあり「先取りされた」ものでもありうるのかを知るために、質問を開いたままにしておこう。そのようなものとしての未来の上に、あるいは始原的な現在と先取りされた未来によってつねに構成されている過去の上に、その先取りは作られるので、その意味がどんなものであれ、あらゆる可能な意味の現われにとって必要不可欠なのだ。その先取がなかったとしたら、われわれの最初の意図だけにとどめておくためには、哲学の歴史についてのあらゆる探求が、テクストのさまざまな審級の多数性の中で使い尽くされ、浪費されるだろう。限界において、この多数性は多数性として、つまり、関係性として現れることさえできず、単に不透明な文字の混乱としてしか現れることができないだろう。あらゆる理解可能性は、ある意味で、自己以外のものへ向かっての関係であり乗り越えである。しかし逆に言えば、あらゆる先取りはフッサールの言説の歴史的なテクスト性から出発して、あるいは、最初の哲学的な意味から出発して実現される。発生の哲学のあらゆる難しさが透けて見えているのは、われわれの探求の実的な始まりを決定することの不可能性の中なのだ。

(原註16:あるいはフッサールの言葉でいうと先行する試み(protention)となる。この先行する試みはもともと、始原的な「今」において、過去の「ひきとめ」によって可能にされる。あらゆる綜合が基礎づけられるのは、時間についてのこの始原的な弁証法の上なのだ。あらゆる綜合がア・プリオリな綜合として還元不可能なものにとどまるのは、その弁証法によってである。)

(原註17:この超越論的な志向性は同時に、同じ運動の中で、能動的なものでもあり受動的なものでもある。また、生産でもあるし意味の直観でもある。また、もっとも深い意味でとらえた「すること」でもあるし「見ること」でもある。この志向性の両義性については、『イデーンT』p.xxxを参照)

(原註18:数学において、時間は虚構でしかないだろう。数学的な綜合と発見は、数学者の本性にとって偶発的なことによってしか時間の中に書き込まれないだろう。ひとことで言えば、彼ら数学者の時間は心理学的なものでしかなく、学者のあらゆる仕事はすでに作られた綜合を「再び作ること」、持続を「再び生産すること」、発生をまねることである。)

(原註19:同じ個所)

(原註20:ヘーゲル『信仰と知識』の諸所)

(原註21:具体的にア・プリオリなものについてのフッサールの概念については、始原的な経験と混同されているが、それとカント哲学に対するフッサールの異議申し立てについては、G. Berger『フッサールの哲学におけるコギト』を参照。同様にトラン・デュク・タオ『現象学と弁証法的唯物論』を参照)

(原註22:つまり、カントにおいては、直観的な内容への参照なしにということ。ここではフッサールと逆になっている)

(原註23:存在と意味のア・プリオリな綜合だけが問題になっている。存在と意味という言葉はそれぞれ、無媒介にア・プリオリなものとして、したがってその始原性において認識されなければならないが、同時に、ある綜合の中に含まれているために、自分自身とは別のものに送り返されなければならない。

ア・プリオリな綜合という表現の純粋に論理的なふるまいが、フッサールの言語にとっても標準的でないことを知っておく必要がある。フッサールの言語はその表現を使うことをきっと拒否するだろう。しかしここでは、その表現は非常にはっきりと問題を提示しており、志向的な経験の意味を非常によく表しているように見える。)

(原註24:われわれはしばしばこの思い言葉を使おうと思う。それを正当化するのもまた発生の観念だ。主題化は研究対象に結び合わされることで、それを創造することもないし、構成にその対象を付け加えることもない。主題化は対象を、すでに現前している主題として明らかにし、それに意味を与え、記述する。このようにして主題化は、志向的な行為と超越論的な発生の意味を表現する。それは直観であると同時に生産であり、明らかにすることであると同時に発明でもある。主題化という言葉はその本質的な両義性を十分考慮に入れているように見える。

発生の「主題化」のもつ矛盾については、ずっと先の第三部、第一章、p.177以降を参照)

「じっさい、もしつねに何らかの先取りが必要なら、もし未来が何らかの仕方で現在と過去に先行しているなら、もしその帰結として何らかの含意がつねに隠されたままにとどまるなら、本質的にその先取りに依存している理解可能性と意味は、つねに過去や過去の未来、未来の過去の不定性へと送り返され、そのようにして絶対的な基礎や根源的で始原的な有効性を剥奪され、決定的に危険にさらされるおそれがある。現象学的な哲学は、始原的な体験の時間性を尊重したいと思うなら、発生的でなければならない。ところで、発生の哲学が哲学的な尊さを熱望するためには、無条件の基礎づけに達する必要がある。しかし発生の哲学が、正統的に発生的かつ現象学的であるためには、その基礎づけが条件づけされていることを、その本質をゆがめずに記述しなければならない、つまり、基礎づけそのものの経験を内包するものとしての、もっとも大きくもっとも始原的な意味でとらえられた経験について、その経験が生成する中でさまざまな意義が生じるのを、記述しなければならない。そこに途方もない困難さが認められる。その困難さは超越論的な発生の困難さであり、絶対的な基礎づけそのものを、その発生的な現われの中で記述する必要があるということである。絶対的な基礎づけは、自らの過去を含意しつつ、自らの過去に含意されているが、発生的な現われに還元されてはならないし、結論がその前提に依存しているとか、結果が原因に依存しているとかいった意味で、発生的な現われに依存してもいけない。ある説明や因果関係の分析においては、単純な「領域」(élément)の資格で時間性が統合されているが、そのような説明や因果関係の分析へと、発生的な概念化が立ちもどるなら、発生的な概念化はあらゆる理解可能性一般の基礎づけを破壊し、とくに自らの理解可能性そのものを破壊する。同じ理由で、その発生的な概念化は、純粋に包括的ではありえない。というのは、自らの発生的な生成の創造的で綜合的な性格を無視するだろうからだ。二つのケースで、発生を純粋で単純な発展や解明に還元すること、自然の系列あるいは本質の系列の中にある普遍で連続した説明に還元することは間違っている。純粋に包括的な態度に直面すれば、歴史は純粋な理念性つまり純粋な合目的性となるだろう。説明的な態度を前にすれば、歴史は即物的な作為性でしかなくなるだろう。歴史のある契機、自然な時間のある契機に、人間はこれこれしかじかの客観性の力に達する。この客観性は発生の哲学に統合されるためには、一方では、客観性ではないもの、たとえば「参加者」あるいは「アニミズム的」原註25等々と言われる態度のの、絶え間ない連続として現れなければならず、自らが歴史に根を張っていることの中で把握されなければならない。そしてその反対物である客観性の不在の歴史的な推移を、歴史的に理解可能にする必要がある。しかし、そのような理解可能性に達するためには、他方では、このような客観性の力を使う必要がある。この客観性の力そのものは、歴史との関係で超越論的な自由、根本的な自律性として自らを与えない限りは、現象学的な意味に適合しないだろう。そのような自律性がなければ、その客観性の価値は、まさに歴史的な規定によって疑わしいものになってしまうだろう。そうだとすれば、正統的に発生的な現象学は、歴史についてのあらゆる哲学がその間で揺れ動いている二つの誘惑を、どうしたら乗り越えられるだろうか。一方では、そのような客観性の過去は、正統的に発生的な現象学にいたる単純な道筋として、あるいはまたそのような客観性の唯一の「呼び出し」として記述される。客観性はずっと以前から、「すでに」歴史の中に現前していただろう。その客観性は音もなく能動的で、歴史に先行しており、歴史の現象学的な到来を用意しているのが見えていただろう。人がもう一つの誘惑に屈するのは、まさにそのようにして合理的な合目的性と意味をア・プリオリに歴史の中に導入するのを避けるためなのである。そのもう一つの誘惑とはつまり、客観性の現象学的な到来と、客観性の現われの歴史的な出来を、絶対的に区別し対立させることである。この二つのものを分離することから出発して、発生を、あらゆる現象学的な意味をはぎとられた純粋な偶発事へと還元する、二種類のやり方の間で揺れ動くことになる。あるときは、客観性は歴史的な決定性との関係で、自由を前提としているという口実のもと、そのようにして自由のもつ現象学的な意義を尊重していると信じつつ、客観性の現象学的な到来を、ただ一つの本質的なものだととらえる。そしてまたあるときは、かつて自由を生み出し、そして絶えず自由を生み出し続けている自由化という歴史的行為なしには、自由は何ものでもないのだと考えつつ、客観性と自由は、一つの自然の歴史の中で、その歴史によって「構成されている」のだと考えつつ、客観性の現われの歴史的な出来を、だた一つの結果的な現実だとする。これら二つの場合においては、フッサールの現象学でもっとも正統的な意図に忠実でなくなるのではないだろうか。一方では、一つの構成された自然から、構成する自然を作りつつ、「世界的な」哲学、心理主義、そして歴史主義の暗礁に乗り上げる。もう一方では、超越論的な還元や本質についての直観から、実在の純粋で単純な否定を作る。フッサールの現象学は、われわれにそのような二者択一を乗り越える実的な可能性を与えてくれるのだろうか。逆に、このような二つの極の間を絶えず揺れ動くことでしかないのだろうか。このことについて議論する必要があるだろう。このパラドックス、つまりこの弁証法を引き受けて乗り越えることでしか、このような揺れ動きを避けることができないと、今後われわれは知ることになる。客観性の力(われわれの事例だけにとどめておくが)は、歴史の中で、歴史の真の意味にしたがって、われわれに現れてくるままに忠実に記述され、発生の生産物以外の何ものでもなく、その発生から逃れ、発生を根本的に超越し、発生から本質的に解き放たれている。この客観性の力が根を張っており、かつ、新しいことは、一方を他方に還元してしまうことができないのである。広い意味で、発生の哲学は、歴史主義や心理主義におちいることなく、哲学の発生へと自らを直接的に変換しなければならない。発生の哲学は、そのような哲学の発生の中で、自らを哲学として基礎づけなければならない。つまり、哲学が歴史に依存しているということから、哲学が永遠に無力だと結論づける可能性のあるあらゆる懐疑論を避けなければならない。

(原註25:ここに例として引用した原始的な心性の問題は、フッサールが晩年にひじょうに興味をもっていた。数多くの手稿がレヴィ=ブリュール研究ということを口実にしている。レヴィ=ブリュールへの未刊の書簡(1935年3月11日付)及びグループFの手稿を参照)

しかしその問題はここで形式的に問われており、弁証法的な記述によって難しさが解決されるわけでは決してない。この弁証法はそれ自身、よく練られた概念とすでに構成された世界から出発して作られていないのではないか。そのすでに構成された世界は、最後の審級において、自分自身を始原的な構成の単純さに送り返すだろう。哲学がもし自分自身以外のものによって発生したのだとすれば、それでも始原的な自律性を主張することができるのだろうか。哲学を救うために、哲学は哲学による哲学の発生でなければならないのではないか。しかしこのように仮定すれば、「汎哲学」に行き着くことになるのではないだろうか。その「汎哲学」は「汎論理主義」に非常に近く、実在的な歴史を哲学的な目的論の単なる下婢に還元してしまい、志向性や、世界の超越性、他性、現実的な時間性の始原的経験から、幻の現われを作ってしまうだろう。しかしここで弁証法はすこし違った形式のもと、ふたたび生まれるだけである。というのは、あらゆる発生の自律性が素朴なあるいは「世界的な」ものだとすれば、つまり、超越論的な意識の行為によってすでに構成されているものだとすれば、あらゆる発生の自律性は超越論的な意識へと送り返され、超越論的な意識はそのようにして弁証法を宙づりにし、われわれはそのようにして超越論的な発生へと移動させられ、超越論的な発生そのものが、構成された形式的な論理学の用語で把握されないようにするために、また、「悟性」または純粋「理性」の生産物にならないようにするために、超越論的な発生は自らの中で構成される存在論と実在的に混ざり合わなければならない。じっさい、超越論的な意識の発生から、存在の発生を(意識に対する存在の超越性の中で)存在そのものによって作るや否や、超越論的な意識から実在そのものが作られる。その実在は存在の目の前で構成され、主題化されている。そして意識の志向性は否定され、ふたたび心理主義の中で、世界的な哲学の中で座礁する。しかし、逆に、超越論的な意識とその生産物を横切って、存在が自分自身を発生させるのだとすれば、弁証法が存在の中で意識に対して自らを現前させるのだとすれば(われわれはここで志向性の反映原註27とその矛盾のすぐ近くにいるのだが)、われわれは初めに呼び起こしておいたようなものとしての発生のアポリアにふたたび陥ってしまう。このような展望の中では、科学主義を推進することしかできないし、資源的な意味と言われているものを実体化することしかできない。その科学主義においては、発生の資源的な意味への接近がすべて禁じられるだろう。資源的な意味と言われているものは、その歴史的な現実性から切り離されているため、もはや発生「の」意味ではなくなり、偶然のこれこれの意義となるだろう。「素朴な」科学主義や実体主義的な形而上学がどんなものであれ、いつも同じ結果にたどりつく。そしてたどりついたところにあるのは偶然の出会いではなく、共通した含意の直接的な帰結なのだ。二つの違った道をとおって、同じ心理主義にたどりつくのは、超越論的な志向性を同じように否定するからなのだ。意識や意義から純粋で単純な歴史的内容を作るためには、まえもって志向的な始原性を知らずにいる必要がある。そして存在の照準と(正確に言えば超越論的な意識をその存在へと還元したくなるだろう)、主観性の心理学的で自然な内容の中にある存在の「証明」を閉じ込めておく必要がある。外見上は始原的な意味から、自足している絶対的なもの、いかなる客観的で自然な歴史にも送り返さない絶対的なものを作るためには、自分自身の上に閉じている「即自」的なもののあらゆる充実をつかって「意識の内容」をそこから作らなければならない。問題は難しい。超越論的な志向性を和解させることが問題である。超越論的な志向性は、始原的な超越論的主観性を、その主観性が構成する原註28超越論的な「存在の意味」と、他方では、あらゆる始原性と連帯している絶対的なものと、たった一つの行為の中で統一するので、弁証法的な本質を持っている。ひとことで言えば、われわれがフッサールに対して問いかけようと思っている質問とは、次のようになるだろう。フッサールの存在論的な可能性と、(同時に)その意味の中で、弁証法と非弁証法についての絶対的な弁証法を基礎づけることができるのだろうか。その絶対的な弁証法において、哲学と存在はお互いを決定的に疎外することなしに混ざり合うだろう。

主題の発生:不十分な二つの解釈

われわれの問題について概略と大きな歩みをあらかじめ示しておくために、発生についてのあらゆる哲学的な理解によって引き起こされる、さまざまな難しさを、図式的かつ教条的にほのめかしてきた。われわれの探求は、フッサールの思想が、その歴史における特異性そのものの中で発展していく点に注目したいと思っているのだが、そのような探求の中心に、それらの難しさが再び現れるのではないだろうか。このような側面の下に、フッサールの思想は、絶えず「発生」に近づき、だんだんと「発生」をよく把握するようになりつつ「生成する」哲学としてわれわれに提示される。ところで、この生成には二つの解釈があり、それらは真の意義における発生の二つの還元となる。

まず一つの展望については純粋に「分析的な」ものとして定義したいと思う。このような展望においては、発生の根本的な側面に執着しがちになるだろう。フッサールにおける発生の概念がすこしずつ主題化されていくこと、経験的な発生から超越論的な発生への移行、ひとことで言えば、発生的な主題の発生は、全体として、クーデターの不連続なつながりへと還元され、先行するさまざまな契機が追い越され捨て去られるような、一連の絶対的契機へと還元される。このようにして、たとえば、超越論的な主観性の体験への回帰、「構成的な」探求、超越論的な還元など、要するに『イデーン』において観念論を呼び出すために使われているすべてのことが、いわゆる論理主義的な実在主義と、『論理学研究』原註29での「プラトン的」実在主義を転倒させることになるだろう。この論理主義は、それ自身が『算術の哲学』原註30での心理主義を純粋かつ単純に否定している。同じように、より歴史的なタイプの探求、つまり、超越論的な間主観性や、超越論的な発生、「生活世界」、前述語的なもの、などなどの主題化は、絶対的にモナド的な主観性としての「エゴ」という教説を決定的に禁じてしまうことになるだろう。このような仮定には、風刺がある。しかし例外的に、このような仮設は多くの場合定式化されておらず、含意されてもいない。このような事例は、その実際の内容においては虚構で見せかけのものであり、発生についての特定の概念の形相的な意義を与えてくれる。その発生は発生によって生み出されたものの特有の純粋さや、その純粋に現象学的な意義、その歴史的な過去からの孤立、その生産行為の動作などを守るために、それらのものから一つの否定を作る。その否定とは、極限において、何物か「についての」否定としてさえ措定されないだろうし、「忘れられたもの」になるだろう。したがってその実在的な発生から、あらゆる経験的・歴史的事実性をはぎとった、純粋に観念的な残り滓に直面しているのだ。極限においては、あらゆる時間的な体験とあらゆる相関的な行為をむしりとられ、その文脈から切り離された、純粋に理解可能な生産物しか、もはや知覚されない。そのような生産物はもはや、自分自身にしか送り返さないし、一つの抽象、一つの透明性に還元されてしまっている。その透明性は、背後に何も透けて見えず、純粋な不透明さ、あるいは密度のない現われに変わってしまっている。その純粋に観念的な残り滓は、純粋な意義であり、まさにその限りで何も意味しない。純粋性の絶対的なものは、つねに反対のものへと自分を変形させる。つまりより正確には、純粋性とは二つの反対物の分析的な自己同一性なのである。まったく無規定な純粋性は、純粋な形式あるいは意義、理解可能な絶対物であると同時に、純粋な不透明性、統合された不合理である。たとえば、超越論的還元は、素朴な態度が転倒したり再び始まったりするとき、全体として理解可能であるためには、その現実的な実在から、自分自身へとたどり着くに到ったあらゆる歴史を削除し、脱ぎ去らなければならない。超越論的還元は、その現象学的な価値に答えるために、また、超越論的な自由の行為として現れるために、自分を「動機づけている」原註31ように見えるかもしれないあらゆることを宙吊りにしなければならない。しかし超越論的還元が、まさに「動機づけられていないこと」において理解可能であるためには、そして、志向的な始原性として自らを与えるためには、逆説的にその現実性において、じっさいに「すでにそこに」あった何物か、じっさいに「すでにそこに」ありつづけている何物かについての、還元でなければならない。一方では、超越論的意識に先行する世界の実在を括弧に入れなければならないが、他方では、その還元の中で、少なくとも時間の順序でいえば、つねに現象学的な態度の前であるように見える素朴な態度を変換しなければならない(この時間的に前であるという意味、そしてこの時間の順序の意味は、後に見るように、発生というわれわれの主題のすべてを決定づけることになるだろう)。たしかにフッサール以降原註32、自然的な態度は還元の後でのように、巻き添えにされることはないと断言するだろう。しかしこのように再認識することは、単なる還元不可能な歴史的先行性の再認識ではないのか。そして、素朴な意識の純粋な可能性、意識の始原からすでに現前している潜在性を、還元から作ったとしても、意識の自然な始原によって理解されるものを、さらに明確にすることが必要になるのではないだろうか。「純粋な可能性」は、世界にしたがって、自然な意識の現実性によってもたらされ得るのだが、その世界をよりよく規定することが必要になるのではないだろうか。自然な意識は、還元の「始原的な」態度との関係によって「原始的」なのだということを、ここでも再び言うことができるだろう。ところで、フッサールがつねに理解していたようなものとしての超越論的還元は―あらゆる誤解にもかかわらず―この「原始性」を決して否定しようとしたことはなかった。原始性はその超越論的還元を、その本質に接近するために、単純にその実在の中で「宙吊り」にしている。しかしここで問題になっているのは、どのような本質のことなのだろうか。そのようなものとしての実在の本質などあるのだろうか。われわれの意図としては、発生の実在そのものと混同されないような、実在的な発生の本質とはどんなものなのだろうか。そのようなものとしての純粋で単純な実在原註33の本質であり得るものを把握することが難しいのと同じように、生成のあらゆる本質が、ある程度、生成の反対物であるように見える。そこでこそ、ある古典的な見方が、非常にしばしばわれわれに課せられることになるだろう。フッサールのさまざまな主題の発生の「意味」を覚知することは、ある仕方で、それらの主題について、連続的な統一性、安定した恒久性、あるいは逆に、不連続性、中断や破壊または革命さえも現れさせるために、それらの主題の生成を否定することにならないだろうか。それらのものは原始的な時間の不変の連続性から逃れている限りにおいてしか、そのようなものとして現れないだろう。原始的なものと始原的なものについての、神秘的で原始的な弁証法がなければ、原始的なものを始原的なものへと還元することに直面し、そして現象学的態度から出発して素朴な態度の発生に直面しなければならないだろうし(観念論のもっとも受け入れられない形式へと、われわれを連れて行くであろうもの)原註34、あるいは、始原的なものからあらゆる尊厳を取り除くような単純に逆の「革命」に直面しなければならないだろう。それら二つの場合において、超越論的なものと経験的なものの区別を取り逃がすことになり、その区別とともに絶対的な基礎づけのあらゆる希望も失われる。フッサールの思想をその生成の中で検討することにわれわれが与えたい意味は、弁証法的なものでしかありえないように見える。

(原註29:すでに刊行されているこれらの著作が、さまざまな主題の年代的な順序に適合しているように見えるとすれば、未刊の著作におけるさまざまな主題は非常に錯綜しており、一つの問題の誕生と消失を厳密に決定することがまったくできない)

(原註30:以下のp.35[think or die註:Introductionの最初のページ]を参照のこと)

(原註31:このように還元が「動機づけられていないこと」については、E.フィンク『現代の批判におけるエドムント・フッサールの現象学的哲学』(カント研究第38巻、3/4、ベルリン、1933年、p.346)(Unmotiviertheit)参照)

(原註32:たとえば、フィンクはすでに引用した論文でつねにフッサールに同意している)

(原註33:その前述語的な側面において)

(原註34:これらすべての誘惑はフッサール自身の著作において、多少なりとも明白であることを白状しておく必要があるだろう)

この事例から、あらゆる発生的解釈一般のように、フッサールの思想の発生的解釈が、発生の創造的あるいは「根本的な」側面だけに執着するとしても、フッサールの哲学を絶対的な始まりのもつ無限の多様性のなかに消失させてしまうだろう。そのような絶対的な始まりは、時間的でもなく、非時間的でもなく、歴史的でもなく、超歴史的でもない。このような解釈はあらゆる発生が含意するものを取り除き、そして、発生が自らの基礎づけの一つへと絶えず送り返すのと同じように、絶えず送り返している先にあるものも取り除く。それはつまり、存在の連続性の中への、時間の中への、世界の中への、本質的な根付きである。

そのような観点は、始原について純粋に分析的なものである。というのも、思考のあらゆる動的な連続性を理念の上で始原的なさまざまな意義の時間的な点の連なりへと還元するからだ。そしてそのような観点は、自らが分析している実在的な運動と対比させられたとき、純粋で理解不可能なさまざまな綜合の滝のような流れにまで達する。それらの綜合は機械的な仕方で、お互いをお互いに付け加え、並置している。純粋な分析―つまり、すでにその分析に与えられている本質の、さまざまな必然性の上にのみ基礎づけられているために、この分析はア・プリオリなのだが―現実的な発生の抽象的な非限定性そのものと無理解そのものの中で、再び結合され、同一化する。

ある意味で、このような分析的な方法は、フッサールの原理に忠実なものとして現われ得るだろう。弁証法は、その内部にこのような分析的な方法が閉じ込められていると主張されているのだが、あらゆる概念的な弁証法からわれわれを自由にする弁証法的な意義を、始原において把握していることを前提としているのではないか。さまざまな意義と本質の狙いは、分析や綜合のあらゆる対立物のあちら側に、あるいは、こちら側に作られるのではないか。じっさい、一つの本質をそれ固有の純粋性ではないものの中に根づかせようとしつつ、その本質を一つの概念、または、一つの「事実」と混同することを人が恐れるのは、一つの本質の観念的な始原性と客観性を変えてしまうことを避けるためなのである。純粋な事実性、構成された概念、または、本質の間の区別原註35は、フッサールにおいては基礎的なものなのだ。したがってっこでは「意味」の現象学的な現われに忠実でありつづける必要がある。その「意味」を概念的な構成によって説明することは、すでに構成したいと思っているものをすでに前提にしてしまうことになる。その「意味」を単純な事実性の発生によって説明することは、意味を脱自然化し、「そのようなものとしての」事実の現われを不可能にしてしまう。あらゆる意味を概念に還元すること、または、意味から純粋に物質的な発生の生産物を作ることは、似たような2つの試みであって、心理学的な主観性、原註36または、物理的な事実性の利益のために、志向性を否定してしまう。フッサールの思考のそのような変形は、彼の思考を外部から襲撃しつつ、概念体系の建築学的な必要性によって、あるいは、経験的=歴史的な諸規定によって、彼の思考に押し付けられているのだと考えることは、極限において、心理主義的で歴史主義的な構成主義のあらゆる一貫性のなさにはまりこんでしまうことにならないだろうか。

(原註35:しかしこの区別は、分離不可能性と弁証法的に連帯している。特に『イデーンT』第一部、第一章、第二節と第四節を参照)

(原註36:あるいは論理学)

このようにして「分析的」と言われる試みの最初の志向が、フッサールの基本的な志向に忠実であるように見えていたのは、その志向が「意味」を純粋に歴史的な物質性の生産物あるいは心理学的な活動の構成として記述することを拒む限りにおいて、また、そのような意味の絶対的な始原性がその志向によって再認識され、尊重される限りにおいてであった。しかし、構成主義的な経験主義は、そうかんたんに乗り越えられない。構成的な経験主義を絶対的に捨て去りたいと願うために、ふたたび汚染のリスクを犯すことに同意することの方がずっと簡単だ。というのは、志向と意味のあらゆる統一性を疎外するような、絶対的な始まりの絶対的な複数性を「概念化」原註37するのが不可能であることを、このようにして余儀なくされるからだ。それでは、より粗悪なものの観念連合説を強制されなければならないのだろうか。フッサールはその心配性の忍耐によって、絶えず初期の著作を繰り返し取り上げて手直ししながら、彼の探求のあらゆる発展に連続性を確保したが、その連続性を純粋に心理学的な偶発事として無視する権利はないのだ。フッサールがつねに再認識するのを拒んでいたのは、超越論的なものと経験的なものの間に「実在的」な区別、「内容」の区別をつけることだったのだろう。絶対的な忠実さは、ここで絶対的な不忠実さと結合する。

(原註37:あるいはより正確には「綜合」)

同じように、展望を絶対的に転倒させつつ、そして、純粋に「綜合的な」始原における取り扱いの中で、構成主義的な細分化と並置を避けるために、フッサールの思想の全体をたった一つの運動においてとらえ、集結させたくなるだろう。そうするためには、同時に志向の統一性でもある意味の統一性から、ア・プリオリに出発する必要があるだろう。ほとんど半世紀の間、フッサールの省察の発展全体は、『算術の哲学』から最後の手稿に到るまで、あらゆる著作を生気づけている不安あるいは要請、含意あるいは企図を、少しずつ明るみに出し、展開し、明らかにすることに専心してきたが、志向の統一性とはそのようなものなのである。たとえば、『幾何学の起源』の中で提示されている歴史的=志向的発生の主題、「沈殿作用」の理論や「再顕在化」(Reaktivierung)の理論は、「内的時間意識」についての試論の中で書かれている「未来把持」と「過去把持」の弁証法を明らかにするにすぎない。このような意味の統一性は、もしそれが絶対的に実在的なものであるとすれば、フッサールの思想の透明性、理解可能性を保証するだろう。しかし極限において、意味の統一性がもはや考慮に入れなかったのは、フッサールの思想の実在そのものなのだ。意味の統一性は少しずつ前に進むというその性格をもはや考慮しなかったし、陳列、言説ももはや考慮に入れなかった。それらを考慮に入れるためには、フッサールの思想は、論証の歩みを、本質的に直観の統一性の外部にあるような偶発事へと還元しなければならなかっただろう。しかしそのような外部性によって、どのようにして一方が他方へと送り返されるのかを把握できなくなるだろう。フッサールの実在的な言語は、純粋に人工的な偶然性や、教育的要請または偶発的で方法的な要請によって、さらに、外部にあるものに課せられている経験的な必然性、たとえば心理学的な時間の必然性によって、そこにあったということになるだろう。『算術の哲学』における特定の心理主義が、『論理学研究』原註38において明白な論理主義へと、さらに『イデーンT』においてもはや心理学的ではなく超越論的な主観性へと、ゆっくりと推移していくのは、その本質的な論理において、上記のような必然性から独立していることになるだろう。超越論的な還元の状況を、機械的な偶然あるいは―結局は同じことだが―純粋に修辞的な必然性に帰しただろう。それは客観的な時間のそのように規定された契機においてであり、少なくともある意味で、その契機の中でフッサールの言説に出会うことから「始める」必要がある。観念的には(もしこの言葉が純粋な意味を持つことができるとすれば)、超越論的な還元はフッサールのあらゆる歩みの含意の中に、絶えず本質的に現前していただろう。同じようにして、不安で個人的な30年間の省察を観念的には削除しただろう。その省察は「世界的な」意味での発生的な説明の拒否を、超越的な発生へ明白に訴えかけることから区別する。「エゴ」としての全体的な主体性の観念から、「エゴ」との超越論的な親密さの中にある「他のエゴ」の介入へと到る歴史的な道を決定的に括弧にくくっただろう。絶対的な連続性という仮定においては、『イデーン』の中でとらえられているような、純粋な「エゴ」の志向性につながれたものとしての客観性から、『デカルト的省察』の中で記述されているような客観性へと到る実在的な運動が取り除かれている。『デカルト的省察』では超越論的な間主観性から、客観の意味へ接近する最後の条件を作っている原註39。同じように、歴史主義を退去させた後、純粋に超越論的なものとして与えられつつ更新される態度をとりながら、フッサールが、精神や「客観的精神」原註40などの歴史的世界を記述しようと企てざるを得ないのは、ただ一つの内的な論理または連続する解明への現象学的なただ一つの要請があるからである。最後に、伸び続ける横糸にそって、超越論的な時間性と歴史的な時間性、本質の純粋な流れと前述語的な世界、反自然主義と「生活世界」を、たて続けに主題化することは、基礎づけを単に裸にすることと結び付けられているのである。発生の絶対的な意味は非常によく知られており、同化されてしまっているので、発生そのものの無用さが、その実在的な内容の中で、断片となっている。

(原註38:とくに第一巻)

(原註39:1910〜1911年の手稿は、『イデーンT』(1913年)では不在のままであるにもかかわらず、他の場所でこの主題をはっきりと告げ知らせている。そこには、公刊されている著作によって引き起こされた年代順の誤りのうち、もっとも著しい例の一つがそこにある)

(原註40:とくに『イデーンU』第三部)

この見方は先ほどの見方と始原において対比すると奇妙に似ている。それら二つの見方の絶対的な差異は絶対的な類似なのだ。われわれがこの論文でそれぞれの審級において検証したいと思っている古典的な弁証法の運動と原理はまさにそこにある。あらゆる絶対的なものは、同じ非規定性の中でお互いに結びつく。絶対的な他性は絶対的な同一性である。同一性が自らを肯定し、深めればそれだけ、自らをそのようなものとして与え、拡張し、自らを規定する。同一性は自らと差異化しつつ、自らを変化させる。他性が自分の本質の中で自らを検証し、認証すればそれだけ、「自らを変化させる」。他性は自らを変化させつつ、同一性へと向かっていく。

ここにおいて、フッサールの思想のあらゆる綜合的な把握のくわだては、思想の言説のあらゆる複雑さを、唯一の意義の直観的な単純さにア・プリオリに還元し、思想のあらゆる豊かさと綜合的な発展を、分析的な時間性にア・プリオリに還元しなければならなかった。このような概念化の最初の意図は、歴史的な運動への接近とその運動の全面的な理解可能性を、自分自身のために準備することだった。その歴史的な運動とは、フッサールの現象学そのものの歴史的な運動であった。さらにもう一度、その歴史的な運動のために、その弁証法的な意味の運動が禁じられている。思想の「意味の」あらゆる「発生」を、ただ一つの概念の単純さの中に置くために、あらゆる契機において時間性の外で湧き出している絶対的な源泉を「意味」から作り出すことによって、ほどなく発生が取り消された。今や、発生を意味に対して絶対的に先行させることによって排除している。発生は、歴史の中に意味を書き込むために後になってから不意に現れる道具として、自らを意味に対して付け加える。逆に、発生を恣意的に括弧に入れたいと願うことで、発生によってかつてないほど規定される。完全に理解可能であるということは、全面的な不合理性に変じる。純粋な綜合、つまりア・ポステリオリな綜合は、純粋な分析、つまりア・プリオリな分析と結合する。二つの場合において、理解可能な意味または形式、つまりここでは始原的な直観または絶対的な始まりの無限の多様性であるものを、それらの歴史的かつ物質的な相関物から切り離すことになる。したがってそれらのものを、それらの形式的な始原性においてよく規定しすぎたために、それらをお互いに包含することをやめてしまっている。ただ一度で与えられる分析的な意味から出発して、一方では絶対的な綜合の並置を理解不可能にし、他方では実在的、綜合的、歴史的な発展を理解不可能にしている。

しかし二つの試みがお互いに似ているのは、まださらに注目すべきである。最初の試みにおいて、構成主義を避けるために、結局は構成主義にたどり着くことを余儀なくされていたし、構成主義の多様性の中で、還元不可能な自立性の中で記述されたさまざまな意義を結合し、包括する必要があった。フッサールの全面的で歴史的な思想を、その思想のさまざまな「要素」から出発して再構築する必要があった。それらの要素をそれ自体で完全に理解可能なものにしたいと願ったために、さまざまな要素はお互いに閉じていて不透明なものになってしまった。「総合的な」解釈においては、意味の始原的な統一性は、歴史的なものではなかった。定義上、意味の始原的な統一性はフッサールの思想の年代的な出発点と混同されなかった。ところで、一つの意味を発見する必要があり、その意味は、著作の中で特定の契機に出現しており、始原的な直観の、年代順としては二次的な現われであった。意味の始原的な統一性から出発して、意義のある全体性を再構成したいと望んでいる。一方ではこの再構成はア・ポステリオリな再構成のあらゆる危険性を現前させる。そして特に他方では、フッサールの発展のどんな契機から出発したとしてもその再構成を作ることができる。範疇的直観の主題、本質直観の主題、形相的還元の主題、超越論的還元などなどの主題に訴えるとすれば、それらの含意や帰結を明らかにすることで、フッサール現象学の意義の全体性を再び見出すことはつねに可能なのである。しかしこのような操作は、フッサール思想のどのような年代上の契機から出発しても可能である。どの契機を選択するかは、自由に決められる。なぜそうなるのだろうか。その理由は、自然な時間の「年代順」は「始原的な」意味との関係ですでに構成されたものであり、二次的なものであるという言い訳のもと、始原的な意味は自然な時間の年代順からは独立していると考えるからだ。フッサール自身において本質の「始原性」が「前述語的」世界の「原始性」、つまり意味の現われの基底原註41の上に基礎付けられているということは、そのようにして忘れられるのだ。これこれのフッサールの主題を恣意的に選び、その主題をあらゆる方向へ引きのばしてフッサールの「体系」の全体性を定義することで、もはや一つの本質ではなく概念に直面することになる。この概念はもはや実在的な基底へと送り返すのではなく―ここでは著作における一つの年代的な契機のことなのだが―論理的または心理学的な構成へと送り返す。本質はもはや何物かの本質ではなく、抽象的な本質となる。このようにしていかなる特定の契機の作為性も「その」意味を押し付けることはないのだから、選択の恣意性はどのように自らを方向づけるだろうか。というのは選択と歴史的な物質性のどこかの時点への参照は、たとえそれらが偶発的で作為的なものだと主張したとしても、必要不可欠だからだ。前述語的であるもの、概念の基底にあるもの、あるいは「非本質的であるもの」は、もっとも大胆な本質主義を崩壊させる罪を受けたくなければ、最初に一つの現われを作らないわけにはいかない。たとえその現われが非常に短く、ほとんど知覚されないとしてもである。歴史を目の前にして、絶対的に自由な恣意を要求することが最悪の隷属を決心するのは、まさにその点においてなのである。フッサールの思想のこれこれの歴史的な契機に対して、いかなる本質的な特権も与えたくないと思うことで、最終的に、最善の出発点は彼の思想の「最後の」状態であると気づく。「絶対的に」本質化したいと思っていた作為的な年代順に、このようにして「絶対的に」譲歩することになる。この契機から出発すれば、概念的な訓練のルール、つまり、ある体系の再構成、実在的な運動のア・ポステリオリな再構築にもはや身をゆだねるしかなくなる。

(原註41:とくに手稿のCグループと『イデーンT』以降の著作において)

確かに、そのような態度は、ある意味でフッサールの保証を持ち出すことができる。フッサールは彼自身、じっさいに『幾何学の起源』の中で歴史的=志向的な方法を行使し、意識の歴史的に「最初の」行為(Leistungen)をその始原的な意味において「再顕在化」すると主張しているではないか。フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機...』の中で、さまざまな哲学の隠された「動機」や隠された潜在的な意味を発見するために、さまざまな哲学の歴史的作為性を無視すると主張しているではないか。それらの哲学の理性的な意図は、超越論的哲学に向かう道程全体で覆い隠されると同時に現前しているが、そのような理性的な意図だけにフッサールは専念しているではないか。おそらく、そのような見方は歴史主義の危険性を避けるだろう。歴史主義はある教説の文字どおりのテキスト性に厳密に忠実でなければならないという口実のもと、その教説からあらゆるあらゆる意義をはぎとり、その教説を抽象的な要素の集合体に変形してしまっただろうし、それらの抽象的な要素は得体の知れない神秘によってお互いを生み出すのである。この意味で、仮に哲学の「意図」を受け入れようと「最初に」決断したとすれば、実在主義と客観主義という口実のもとに、接近不可能な本質へと際限なく向かっていくような経験的に偶然の出来事がばらばらと起こるような事態に出会うことになるだろう。

純粋で「あらかじめ与えられた」意義から出発して、フッサールの思想を綜合的に包括しようと試みるのは、そのような危険を防ぐためなのだ。そのような「方法」は、生産的であるように見えるかもしれない。そのような方法によってわれわれは、フッサールの思想の「純粋な」連続性、その思想の本質的な論理へ接近することができる。非常に簡略な観点から見ると、そのよな方法はわれわれに次のようなことを教えてくれる。つまり、不活発で二次的な形式論理に自らを限定してしまうことなく、自立的な論理によって論理的意義の客観性をどうやって基礎づけることができるのかということを教えてくれる。体験への回帰はただちに必要となり、同じアポリアにはまりこむ心理学的な体験に再び陥ることはありえず、始原的で超越論的な「純粋体験」の方へと再びのぼっていくことが可能だった。したがって超越論的還元は最初から呼び出され、含意されていたのだ。他方で、超越論的還元を主題化する前に、超越論的間主観性は最初の暗示においてすでに、還元に対して現前している必要があった。そうでなければ、どのようにしてまだ唯我論を逃れることができるのか、世界の「超越論的」構成がどのようにして自らを作ることができるのかを理解できないだろう。世界は意識に対して自分がよそものであること、他なるものであること、超越していることのうちに、自らを与えなければならない。じっさい、意識の中にあるようなものとしての他なるものの超越論的構成の始原性がなければ、世界と客観性一般に向かって始原的に自らを「超越する」能力のない心理学的志向性より先に進んだだろうか。自分自身の上に閉じている「世界的な」意識にとって、どのようにして発生が可能になっただろうか。時間性そのものはもはや創造的でも綜合的でもなかっただろう。時間性は自分自身をすでに構成された自然として際限なく分析することになっただろう。「意識にとっての」持続は不可能になっていただろうし、超越論的な発生はあらゆる可能な経験の彼方へ送り返されていただろう。

しかし、まさにそのために分析的な同一性を逃れるのだが、その同一性から始めなければならなかった。分析的同一性の充実性を征服するためには、自らを完成させるためには、自我論的な時間的体験は歴史的な言説の中で失われ、再発見されなければならなかった。自我論的な時間的体験が、その発展の歴史的内容に還元されなかったのと同じように、その体験をもたらし、あるいはその体験から発しているように見えた発生的綜合を、その体験に同化してしまうことはできない。意味と前述語的な基底の始原的な弁証法は中断されることも、乗り越えられることもできなかったのだ。

発生と還元

言及されている二つの大きな態度は、深いところで共通なものをもっている。その共通なものが進み方や失敗においてこれら二つの態度をよく似たものにしている。その共通なものとは、現実的な発生の現象学的な意味への還元であり、歴史的で一回限りの実在を、誤って本質と言われているもの一般へと還元することである。誤って本質と言われているものは、偽装された概念でしかない。「世界的な」発生の不十分さを逃れるために、そして、汚染のあらゆる危険性を避けるために、「世界」は決定的に括弧にくくられた。超越論的構成は前述語的な世界の基礎づけの上に始原的に自らを実現するので、超越論的構成そのものが不可能になっていた。超越論的な発生の代わりに、すでに構成されており、かつてないほど「世界的」で、形式的かつ空虚な「概念」(notion)しかもはや残っていなかった。正統的な超越論的還元の代わりに、もっとも一貫性がなく、もっとも二次的な形相的還元が行われた。それら二つの還元の試みは、フッサールに忠実であると同時に忠実ではないのだが、そのことは明らか過ぎるほどだ。それら二つの還元の試みは、一つの還元によって意味の純粋さに向けて努力する限りにおいてフッサールに忠実であり、その還元が「世界的」であることだけを望んでいるような発生を還元することであり、その意味の純粋さが原的な体験である限りにおいて、彼に忠実である。しかしそれらの還元が実在の純粋かつ単純な追放、経験の作為性の方法的な破壊にまで達する限りにおいてフッサールに不忠実である。このれは還元についてよく犯される過ちだった原註43。ところで、フッサールは実在の措定を単に「宙吊りにする」と主張するが、しかし実在的な経験の内容をすべて「中立化」することで保存するとも主張していたことが知られている。問題はいまや、この中立化が発生の現実性の前で超越論的に可能なのかどうかを知ることである。完全な超越論的還元は、フッサールのもっとも深い意図に合致しているが、発生の還元不可能な実在の前に失敗するということにならないだろうか。「世界的」だったり、心理学的だったりなどなどの発生は、おそらくじゅうぶん簡単に括弧にくくられるがままになるだろうが、そのような発生は「二次的」ですでに構成されたものだろう。現象学的還元は定義上、構成された自然の中に書き込まれている。しかし現象学的還元の行為が、始原的に構成する領域に属している限り、その行為がひとつの抽象、形式的な概念から出発した論理的操作でないようにするためには、始原的な「体験」としても自らを現れさせる必要がある。この体験は時間的だ。この体験は、自らの始原性の中で、時間そのものであり、自らを構成し、自らを「時間化」するのではないだろうか。経験的な発生を還元しつつ、われわれは超越論的発生とほとんど違わない形式のもとに再び生まれる問題を遠ざけるだけになる。そのようなものである限り、超越論的発生は還元の対象になってはいけないように見える。ところで、その意味にしたがって、超越論的発生が始原的で(この語の世界的ではない意味で)経験的な生成にとどまるとすれば、絶対的な意味はどんな主体に対して現れるだろうか。絶対的な超越論的主観性はどのようにして同時に自分自身を構成する生成でありうるのだろうか。時間のそのような根本的な自律性の中で、絶対的な主観性はもはや構成するものではなく、「構成されたもの」ではないのか。超越論的な生成は、還元されたり、あるいは逆に、現象学的還元によって明らかにされたりするどころか、始原的に還元自体を可能にするものではないのか。したがって超越論的な生成はもはや究極的な基礎づけや意味の絶対的な始まりなどではなく、絶対的な意味、あるいは、哲学は、純粋な生成と和解できないように見えるのだから、超越論的生成そのものを「宙吊りにする」新たな還元へとわれわれは送り返されるだろう。しかし一方では、われわれはこのようにして問題を別の始原的な時間性まで後退させるしかないだろうし、他方では、フッサール現象学のもっとも正統的で、あるいは、もっとも「真剣な」動機づけにぶつかることになるだろう。われわれは抽象的な論理の弱さにたどり着くだろう。

(原註43:われわれがここで告発している欠点について、フッサール自身が批難された。まるで誤解がつねに始原にあったように見える。この問題については第二部第二章でより詳細に検討したい)

このようにして、一方では現象学のあらゆる意味は、絶対的で「動機づけのない」始まりとしての超越論的還元の純粋な可能性につながっていると考え、しかし他方では、還元は超越論的発生に到達せず(本質によってこうなるのだが)、さらに超越論的発生によって構成されており、超越論的発生の中で現れると考えるとき、問題がまさに重大であることがわかる。超越論的発生があれば、あらゆる志向的行為を基礎づける始原的な時間性があれば、それに相関して、超越論的間主観性が始原的にエゴの中心に現前しているのであれば、エゴはどのようにして実在的な主題を絶対的に宙吊りにすることができるだろうか。実在的な主題は始原的に時間性と混同されないだろうか。時間性は、あらゆる超越論的構成が実行される出発点となる「原始的な」基底であると同時に、他のものへ向かう志向性や乗り越えの「始原的な」動き、他の契機へ向かう未来把持の「始原的な」動きなのである原註45。この還元不可能な他性は、意味の純粋性を破裂させるのではないか。超越論的発生が還元に抵抗するだけでなく、還元を明らかにするのだと言うことは、時間に関するさまざまな学問の形態のもとに、自同者と他者のあらゆる弁証法を、一つの始原的なものの中心へと再び導入することになるのではないか。そのような始原的なものとは、過ぎ去った始原へと送り返すことによってのみ、または、未来の始原に向かって自らを投射することによってのみ、自らを現れさせる。意味の絶対性は自らを異化し、自らを自分でないものとの関係に置くことによってのみ、自らを現れさせるだろう。それどころか、この異化は、意味の絶対性が現れる可能性の条件となるだろう。超越論的発生の主題と超越論的間主観性の主題がフッサールの省察の、ほぼ同じ契機に現れているのは、偶然ではない。超越論的間主観性、モナド的「エゴ」の中に「他なるエゴ」(alter ego)が始原的に現前していることは、絶対的に単純な始原が不可能であるということのように見える。また、原始的で実在的な主題の核は、いかなる還元もこれまでつかんで来なかったが、その核についても「宙吊り」にすることができないだけでなく、還元の行為や、その可能性の条件の起源そのものに対して認めなければならないものではないのか。同じように、実在「についての」自立的で超越論的な還元が現れることは、その自由さと根こぎにされていることからしか自らの価値を引き出さないが、そのような還元の現われのもとに、(構成された形のもとでの論理的または心理学的な)抽象化の実在的な運動の中で、行為、または、後退や不在の実在手的な進行を象徴的に素描するのは、もっとも始原的な形のもとでの実在そのものであり、時間の実在、または、他者の実在、すべての他なるものの基礎づけだろう原註46。その後にはもはや始原的な体験は残っておらず、すでに構成された意味または概念しか残っていないだろう。もし時間または他者といった形のもとに、実在が超越論的な「私」のまさに中心に存在しているのだとすれば、それでもまだ、矛盾や気づかれない含意、または隠された汚染の危険性なしに、世界的な発生と超越論的な発生を区別することができるだろうか。世界的な発生においては原始的な実在が超越論的行為によって意味を与えられており、超越論的な発生においては「自らに」意味を与えるのもまた実在である原註47。時間性と他性がもし始原的に超越論的な身分をもつとすれば、それらは純粋な実在として、構成するものとして現れる契機において、いつもいつも還元不可能なかたちで「すでに」構成されたものというわけではないのではないか。したがって還元は抽象化でないのではないか。このことは現象学的なくわだての崩壊を意味するだろう原註48

(原註45:時間性と他性はつねにすでに構成され、そのようなものとして還元不可能な綜合である。それらとともに綜合あるいは受動的な発生の主要な主題が導入される。受動的な発生はフッサールにおいて非常に重大なさまざまな問題を提起する。超越論的「エゴ」の構成、あるいは超越論的「エゴ」から出発した構成は、どのようにして自らを受動的にすることができるのだろうか)

(原註46:この点でフッサールの還元は、ハイデガーの言う意味で「不安」になるだろう)

(原註47:ならばこれら二つのタイプまたは実在のこれら二つの契機を区別する規準とは何なのだろうか)

(原註48:フッサール現象学からハイデッガーの存在論への移行を理解するのはこのような展望においてである。ハイデガーの存在論については後に再び取り上げることにする)

フッサールは、純粋に経験的な発生と超越論的な発生の二者択一とそれらの間の弁証法を支配し、乗り越えるところまで到達したのだろうか。純粋に経験的な発生は意味を奪われており、極限において、それについて「語る」ことさえできないだろう。超越論的な発生はそれ自身、経験的な意味と抽象的な意味の間を揺れ動いている。この二つの発生の中で、始原的な意味の絶対性は他のものに変わるだろう。フッサールは始原的な意味と原始的な実在の弁証法を始原的に包括するところまで到達しただろうか。われわれがいる地点において、始原的なものは原始的なものよりも原始的なものとして現れている。始原的なもの原始的なものの意味であり始原的なものは原始的なものの現われを許す。しかし原始的なものは始原的なもの自体よりも始原的である。というのは、原始的なものは超越論的な基礎づけであると同時に意味の究極の基底だからだ。「実在」はあらゆる超越論的発生によって、そのもっとも純粋な形式、つまり、時間と他者として明らかにされるのだが、その実在はいったいどの程度まで還元の行為の中に矛盾を作り出さないでいられるのか。還元の行為の根源的な「単純さ」、絶対的な始原性は、現象学的哲学の最初でかつ最後の意味を基礎づけたに違いないのだ。フッサールはどの程度まで、そしてどのような仕方で、この一見還元不可能な弁証法を引き受けたのだろうか。われわれが提示したいと思っているのはこの問題なのである。

錯綜した含意と「方法」の困難さ

ここでの予備的注意の最初の言葉は、歴史的な問題構成と哲学的な問題構成が本質的に関連しているということと、この二つをお互いに全体的に同化することが不可能であるということを、同時に強調しておくことだった。フッサールの哲学は、じっさいに、単に「範例」をわれわれに提供しただけではなかった。というのは、ともかくわれわれは最初から、そして絶えず、現象学的態度を採用していたからだ。発生の問題は現象学的態度に戻ることによってしか提示されないと言うことさえできる。じっさいわれわれは経験的つまり「世界的」態度から出発して、(この言葉の形式的または抽象的な意味で)形而上学的または超越論的な展望の中で、発生の最初の意味、その正統的な問題が、もはや損なわれたものとしてしか出現しなかったもかかわらず、発生の第一義的な意味、発生の第一義的な意味についての正当な問題がもはや手足を失ったものとしてしか現われないのを見てきた。その問題が自らを現前させる用語は首尾一貫しないものでしかなかった。しかしフッサールの思想がわれわれにとって一つの範例、一つの口実、または、言説の一つの宇宙以上のものだったとすれば、厳密にはこの探求の終着点ではない。

じっさいわれわれは、一つの純粋に弁証法的な哲学が、その帰結もすべてあわせて、フッサール現象学の計画としっかりつながっていることを示そうと努力しつつ、おそらくフッサール現象学の計画はそのような解釈をする権利に抗議したであろうということを、進んで認めるだろう。弁証法は、一般的に理解されているようなものとして、一つの行為または一つの存在、一つの明証性または一つの直観の、始原における単純さに絶えず訴えるものとしての哲学の反対物でさえある。この意味で弁証法は、始原的な超越論的意識によってすでに構成された審級から出発することでしか、自らをうち立てられないように見える。したがって一つの弁証法的哲学は、第一義的な哲学であることを自ら主張する権利をまったく持たないことになる。弁証法的哲学は現象学に自らを重ね合わせる。ひじょうに明らかなのは、「世界的な」弁証法を乗り越えるために、われわれはあらゆることをしなければならないだろうということだ。そういうわけでわれわれは、たとえばトラン・デュク・タオ氏の結論を退けなければならないだろう。同氏はフッサールの思想の動きを深く、力強く調べた後で原註50、また、フッサールの弁証法の超越論的な純粋さにできるだけ近づいた後で、「世界的な」発生と唯物論的な弁証法の困難さにふたたび落ち込んでしまっているように見える。それらの結論を乗り越えることによって、われわれは文字どおりフッサールの思想に忠実であることになるだろう。われわれは明らかに弁証法的な概念を、それについての古典的な解釈に対して弁護しつつ、フッサールの精神だけに忠実であろうとするつもりだ。さらに弁証法的な解決または記述を用いることには、あきらかに哲学的、歴史的な不誠実さがあることを告白しなければならない。しかし、真の弁証法の運動には、その無媒介な不誠実さを、無媒介で単純で一枚岩の誠実さよりは誠実なものとして現れさせることが含まれている。生成についての一直線的な概念はすべて、一つのアポリアに達するように見える。弁証法はそのようなアポリアから勝ち誇って脱出する。なぜなら、弁証法はその概念を定義することで、その実在的な内容を変えることなしに、その反対物へと変形させるにいたるからだ。その実在的な内容を変えれば、そんな内容は不在であることが明らかになってしまう。しかし、発生の意義が弁証法的であると言うことは、発生の意義が「純粋な」意義ではないということになり、「われわれにとって」発生はその意味の絶対性とともに自らを現前させることができないということになる。したがって問題に対して「解決」を提示することではなく、そのようなものとして認識されている弁証法の中で、アポリアが「実在的な」アポリアとして「自分自身を理解する」ことを単に肯定することなのである。そのようにしてわれわれはたぶん哲学に出会うことになるだろう。

(原註50:『現象学と弁証法的唯物論』)

同じように、哲学へと向かうわれわれの道のりは、その「方法的な」足どりにおいて、連続したものでも一直線なものでもないということを、当たり前のこととして見出すだろう。ここまで見てきたようなさまざまな困難さについてはすべて、プラスの結果だけを考慮に入れた。そのプラスの結果とは、純粋な方法が不可能であること、先取りのない言説、逆戻りも揺れもない言説、自分自身によって自分自身を乗り越えたり自分自身において乗り越えたりすることのない言説などが不可能であるといった感覚のことだ。本論でわれわれがたどる足どりは、ぎくしゃくしたものになるだろう。単に論理的で「本質的な」秩序にしたがう権利がないにもかかわらず、フッサールの著作について純粋に年代的なつらなりに従うことは一貫性を欠くのだが、その理由について暗示しておいた。発生の問題に関して、フッサールの思想の運動を運動の現象学にしたがって説明することで、現象学の意図に忠実でありたいと思う。運動の現象学についての始原的な知覚によってわれわれに引き渡されるようなものとしての運動の現象学にしたがって、である。運動についての(または発生についての)記述はすべて、弁証法に同意しなければ、エレアのゼノンのパラドックスの前でつまずくことになる。一方で運動をそのようなものとして完全に理解可能なものにしようと試みるだろう。そしてそのために運動を、運動の「志向」、運動の意味の観念的な統一性へと還元するのだ。つまり、観念的な到着点を観念的な出発点と同一化してしまう。現に、観念的には、そして、運動についての純粋な意味の観点からすると、歴史的で実在的な差異はまったくありえず、すべての点と契機はよく似たものになる。それらの独自性は偶然のものになってしまう。しかし運動の実際の時間性、運動の実在性は取り除かれる。運動は不動になる。逆に運動は、完全な契機の総和、不完全な瞬間の総和、それらを超越するいかなる観念的な意味にも還元できない完成された全体性の総和でしかありえないことを示すことで、運動に実際の一貫性、実在的で存在論的な一貫性をすべてとりもどさせたいと思うだろう。そして事実、運動の「客観的な」現実性は、こうして忠実に記述されたように見えるかもしれない。しかし運動のこのような客観的な現実性は運動の反対物なのだ。なぜなら、運動の客観的な現実性は運動に対して不動であることを強いるからだ。ここに見えるのは、客観主義的な科学の意図が、自分が始原的な知覚の土壌から根こそぎにされていることを認めたくなかったばかりに、不合理の平手打ちをくらう様子である。始原的な知覚にとって、絶対的で即自的な運動などないのだ原註51

(原註51:運動についての現象学的な意義の絶対性はここ、あらゆる考察の「まじめな」出発点だけにある)

絶対的で即自的な運動は、時間的な諸契機についての絶対的な歴史主義または現実主義によって、そして、全体的な意味についての絶対的な観念論によって、その本質において反論されており、その現われにおいて禁じられている。したがって絶対的なものが弁証法的な諸契機において自らを疎外し、自らを分割し、自らをふたたび見出すのは、始原的な知覚においてなのである。絶対的に一義的なのは点なのか意味なのか、作品なのか観念なのかを言うことは決してできない。「主題」であると同時に「契機」でもあるようないくつかの中心の後に続く考慮に没頭しなければならないだろう。


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