さて今回は「『フッサール哲学における発生の問題』を読もう!」の第2回ということで、いよいよデリダ自身が書いた「1990年版への序文」を読むことにする。なおこれは最初にも最後にも書いておくが、このページの日本語はよりよい翻訳にするために今後もちょくちょく見直したいと考えているので、下記が僕として納得のいっている最終版ではない。ただしそうであったとしてもこの日本語は、かなりいい加減なデリダ愛好家が暇にまかせてものした日本語であることに違いないので、その程度のものとしてお読み頂きたい。
「1990年版への序文
1953年から1954年の日付のあるこの著作を出版する必要があったのだろうか。実はもう出版を終えてしまった今日になっても、私はまだ確証がない。
この出版に先立つ数か月の間、「自分自身を聴く」というフランス語の表現がもつフランス語独特の性質が、いままで以上に不安定であるように思え、ときには脅威にさえ思えた。自分自身を聴くこと、そんなことが楽しいはずがあるだろうか。毒のひどい味を味わったり、病気の前触れを味わうことなく、その楽しみを見いだすことができるだろうか。私はそのことをますます疑っている。たしかに出版したいという誘惑に屈したことで、つねに自分自身を聴いている。そのことをどうして否定できるだろう。別の言い方をすれば、そのことを否定するより他なにができるだろう。そうすることで自分の欲望を聴いていることになる。それはたしかにそうだ。そしてテクストの中で話している声がふたたび、しばらくの間響きわたるのを、まだ聴いている。少なくとも聴いていることを受け入れている。しかし40年近くたってもまだ聴いているなどということがありうるだろうか。
この著作を不安を抱きつつ読み直してみて、ためらい、そして反論さえもが、その当時私が感じていた一時的な不安感とともに、私自身の中でふくれ上がり、自分自身を聴いているということに、私はほとんど動揺してしまったほどだ。テープまたはスクリーン上の自分自身のように、ひじょうに聞こえにくいために、ほとんど自分自身が聞こえないという経験、そして認識することなく認識するという経験、私が言いたいのは自分でそれと受け入れることなく認識するということなのだが、許すことさえなく認識するという経験、哲学や、修辞学、戦略における変化の記憶をたどることで、おそらくほとんど変わっていない話し方、ある声の古くてほとんど運命的な位置、あるいはむしろ声色といったものを認識することなく認識するという経験の中で、私は動揺してしまったのだ。この声色はもはや身振りから切り離すことはできない。その身振りは自分自身をコントロールすることによってもコントロールできないのだ。それは身体の運動に似ている。最終的にはいつも同じことで、自分で問題の展望の中へ入りこむ。たとえそれがどれだけ思弁的に見えようとも。そう、そのとおり、すべてが古い映画に似ている。その映画はほとんど音がなく、何よりも映写機のノイズしか聞こえず、古くて見なれたシルエットを浮かび上がらせる。そんなに遠く離れては、もう自分自身を聴くこともできない。あるいはむしろ、悲しいかなそれとは逆に、少しだけよく自分自身が聞こえるようになったとしても、その理由もまた、自分自身を聴くことがいちばん厄介だからこそなのだ。スクリーンの前にいたたまれず、自分自身の映像が権威主義的にあらわれるのを毛ぎらいし、その音も視覚も、最終的にはおそらく一度もそんなものを好きになったことなどなかったし、そんなもの一度も知らなかったし、ほとんど出くわすこともなかった。それが私というものだったのか、それが私というものなのか、それが?
私は30年以上もこの学生の書いた試論を読み直したことがなかった。それを出版するという考えは、もちろん頭を一度もよぎらなかった。私はここで体裁をたもとうとしているわけではないのだから、仮に私が自分自身を聴いてさえいれば、友人たちに耳を傾けもしなかっただろうと言うべきなのか。私は特定の読者たちのアドバイスに、もっと頑固に抵抗すべきでなかったか(とくにパリにあるフッサール資料室の特定の同僚たちのアドバイス、まずはフランソワーズ・ダスチュールとディディエ・フランク)。そして私が他のフッサールに関する研究をすでに出版していたコレクションの編集者である、ジャン=リュック・マリオンの心の広い提案にも、同じように耳を傾けるべきではなかったか。ジャン・イポリットもいつものように気を遣いながらこの著作を読んでくれ、1955年当時、私に出版するように励ましてくれたのだから。最終的に説得されてしまったのは、正しかったのか間違いだったのか、このことだけが残る。私ひとりがリスクをとることに対して全責任を負うことは、言うまでもない。しかしこの試論の出版が彼らのおかげであることを思い出しつつ、彼らのよせてくれる信頼に感謝したい。たとえ私が彼らの信頼を自信として共有することをためらうとしても、そしてためらうからこそ。
この著作は当時、大学高等課程の修了証書のための論文と呼ばれたものに相当する。私はこの論文を1953年から54年の間にソルボンヌ大学教授、モーリス・ドゥ・ガンディヤックの用心深くて親切な指導のもとで準備した。そのころ私は高等師範学校の2年生だった。ドゥ・ガンディヤック婦人とヴァン・ブレダ神父のおかげで、私はルーヴァンにある資料室のフッサールに関する未刊の資料を調べることができた。
もし誰かがこの古い書物を手に取ろうとしているなら、私はそのままさせてあげるべきだろう。彼または彼女がどのように読むのかを予想したりせず、ぬき足さし足でそっとその場を立ち去るべきだ。とくに私は哲学的な解釈を自分に対してゆるすべきではない。自信を持ったりすべきでもない。最終的に自分にとってこの著作の中でいちばん好奇心をそそるように思えることを口に出すこと、つまり、知識に対する関心としてのある種の関心事を答えることさえすべきでないだろう。この知識に対する関心は、いまになってみるとこの著作に、ある種の文献的な重要性を与えている。これだけが私の望みなので、この論文についてもうすこし語ることを許してほしい。
1.この論文をざっと読み通すと、フッサールの全著作を冷静に厚かましくもざっとスキャンすることになるが、そこでは一種の法が参照されている。その法の安定性には今になってなおさら驚かされる。というのはその法は当時からずっと、言い回しも文字どおりそのままで、私が証明しようとしてきたあらゆることを支配しつづけているからだ。それはまるで、一種の性癖がすでにそれ自身のやり方で、ある必要性をうまく切り抜けているかのようである。その必要性はつねにその性癖を追い越してしまい、なんども繰り返し際限なく、自分のものにしなければならない。それはいったいどんな必要性だろうか。その必要性とは、つねに起源がもともと複雑であるということについての問いであり、単純なものは初めから汚染されているということについての問いであり、初めから起こっている隔たりについての問いである。どう分析してもその隔たりを、その現れの中で呈示することはできないし、現前させることもできない。また、どう分析してもその隔たりを、要素のもつ瞬間的で、自分自身と同一であるという性質に還元することはできない。現にこの試論がたどる道筋を支配している問いは、次のようなものである。「基礎づけの始原性はいかにして総合的なア・プリオリでありうるのか。すべてのものがいかにして複雑なものから始まることができるのか」。現象学的な言説はある制約の上に組み立てられており、その制約はすべて、「汚染」は運命のように必然的なものだという立場から検討されている(「覚知できない含意、または偽って隠された汚染」は、対立物の両極の間にある。超越論的/「世界内的」、形相的/経験的、志向的/非志向的、能動的/受動的、現前的/非現前的、点のような/点のようでない、始原的/派生的、純粋/不純など)。それぞれの境界線がゆさぶられることによって、その境界線自体を他のあらゆるものへと増殖させるようになる。差異化する汚染という法は、本書の最初から最後までその論理を強要している。そして私は自分に問いかける。その「汚染」という言葉自体が、あの当時からずっと絶えず私を威圧しているのはなぜなのだろうか、と。
2.しかしそれなら、この法のさまざまな契機、配置、効果を通じて、起源がもともと「汚染」されていることは、私がそのときあきらめざるを得なかった哲学的な名前、弁証法、「起源の弁証法」を授けられる。この語はページからページへとしつこく舞いもどっている。「弁証法的」な増大は弁証法的唯物論よりも、さらに遠くへ行くと主張しており(例えばチャン・デュク・タオの弁証法的唯物論が、しばしば十分弁証法的ではなく、まだ「形而上学の囚人」にとどまっているものとして引用され、考えられている)、カヴァイエスがその当時有名だった一節で、フッサールに対抗するために呼び起こしている弁証法よりもさらに遠くへ行くと主張している(「発生する必然性とは、能動性のそれではなく、弁証法のそれである」)。敬意にあふれた批判の中で、この誇張された弁証法はしばしば(フッサールを読んだ他のフランス人たち、レヴィナス、サルトル、メルロ=ポンティ、リクールよりもむしろ)チャン・デュク・タオやカヴァイエスに対して異議を唱えている。数年後、[エドムント・フッサールの]『幾何学の起源』(1962年)への序文と『声と現象』(1967年)の中で、私が引き続きこの問題に取り組んでいたとき、読解は次のように始まった。「弁証法」という語は最後には完全に消えるか、それなしに、あるいはそれとは離れて、差異や始原の追補、痕跡を考えなければならないものになってしまった。これらのことはすべて、おそらく一種の道しるべのようなものだ。その道しるべは1950年代のフランスで一人の哲学研究生が何とか収穫を得ようとして、頼りにしていた哲学的・政治的な地図についてのものである。
このような出版に際して、一つの規則が当然のこととしてある。そしてその規則は例外を許さない。その規則とは、原版をわずかでも改変してはならないというものだ。この規則は念を入れて尊重されており、あらゆる種類の不完全さは、ああ、残念だけれどもこの規則にしたがってそのままにされている。特に私自身が翻訳した部分についてもそうだ。フッサールの著作全般について翻訳や参照が問題になっている箇所では、少なくとも文献情報については最新のものにされている。1953年以来フッサールの著作の出版は、みなさんご存知のようにドイツ語でもフランス語でも増加している。
エリザベス・ウェーバーは必要があると判断した注釈を書き加え、括弧<>でくくっている。彼女はまた参照をチェックし、文献情報を最新のものにし、本書の校正刷りもチェックした。ここで彼女に対して深い感謝の意を表したい。」
以上、1990年版に対してデリダ自身が書いた序文である。このページは今後もちょくちょく手を入れて、よりまともな日本語に近づけて行きたいと思っているが、それでもなお、かなりいい加減なデリダ愛好者によるひとりよがりの日本語訳であることに注意して読んで頂きたい。さて、次回は『発生』執筆当時のデリダ自身による序文「発生のテーマとテーマの発生」と相成る。