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『発生』:英訳者による注釈
( 20031103 )

Japanese/English

いつまで続くかわからないが、ジャック・デリダ『フッサール哲学における発生の問題』を読んでみたい。「1953/54年の序文」の手前までは、英訳書Jacques Derrida, The Problem of Genesis in Husserl's Philosophy, Chicago, 2003, Translated by Marian Hobsonからの日本語訳、「1953/54年の序文」以降はフランス語原書からの日本語訳で読み進めていく。

なおこの『フッサール哲学における発生の問題』の部分は、think or dieの通常のエッセー群とは異なり、インデックスのページから個々のエッセーにリンクを張ることはせず、この最初のページに対してのみリンクを張ってある。ただしインデックスページの更新日付は、最新の日本語訳を追加してアップロードした日付へ順次書き換えていく。またトップページからのリンクも最新の日本語訳ページへのリンクとなる。英訳書は英訳者であるMarian HobsonによるNoteから始まるので、まず英訳者のこの注釈から翻訳する。

なお以下の英訳および原書からの日本語訳は、僕が単に休日の趣味のひとつとしてやっているだけなので、学術目的の転用にはまったく耐えうるものでないということを強調しておく。日本語として読みやすいように、僕が適宜日本語を補っているので、決して原文に忠実な翻訳ではない。

「本書はデリダの『フッサール哲学における発生の問題』の英訳である。この作品はこれまで未刊だったが、デリダが1990年版の序文で書いているように、1953年から1954年に大学高等課程修了証書のための論文として書かれたものだ。本論文の注釈の部分は、執筆当時ドイツ語とフランス語で入手できたフッサールの著作を参照している。1990年版の序文で説明されているように、これらの参照はエリザベス・ウェーバーによってまだ出版中だったフッサールの著作集『フッサーリアーナ』と、1954年以来入手できるようになったドイツ語からフランス語への翻訳を用いてふたたび更新された。彼女のなしたこの貢献は、1990年版でもこの英訳でも、括弧<>の中に記されている。本論文はすでに出版されているので、参考文献や原文の状況は英訳することでさらに複雑になっている。というのは英語で出版されているフッサールの翻訳は、しばしばフランス語訳と異なっているからだ。そこで私の注釈は括弧[]に入れてある。

この英訳はある程度まで言葉の面の状況が複雑であることをそのまま示そうと試みている。例えばデリダのフランス語のテクストでは、「devenir」や「originaire」「vécu」などの語がよく使われるが、これらの語を自然に翻訳すると、例えば「development」や「original」、そしてあっさりとした「experience」などとなる。しかしじっさいには「becoming」「originary」、そして「lived experience」と翻訳してある。しかしデリダ自身がフランス語で言葉を選ぶときには、フッサールのドイツ語と、ポール・リクールによるフッサールの『イデーン』の翻訳を直接参照している。フランス語におけるこれらの言葉は、日常的に使われる哲学用語と混同されてはいないが、ふつうの言葉に対して明らかに横からつながっている。そして私はその性格を英語でも温存しようと試みた。英語で書かれた哲学は、ドイツ語は言うまでもなくフランス語で書かれた哲学とは異なる歴史を持ち、しばしば異なる関心と異なる文体を持つ。もし翻訳を英語の哲学的伝統と結びつけたいと思うなら、そして現にこの英訳では結び付けているわけだが、ときどき「mind」という言葉を使うことを、少なくともフランス語の「psychique」(=「精神の」)との関係において避けるのは難しい。しかし英語の言葉はフランス語またはドイツ語へ明瞭に翻訳することはできない。しかもフランスの(そしてドイツの)哲学でよく使われる特定の言葉は、英語とは違った方法で意味を分類する。「unité」の例は興味深くもあるし、重要な例でもある。この語はフレーゲにおける論理的意味でのEinheitの訳にもなり得ると同時に、より広い意味で「unity」とも翻訳できる。英語では「unit」か「unity」かのどちらかしか選択できず、この2語は少なくとも異なる領域に使われる。いっぽうフランス語とドイツ語はその2つの意味を分割しないままにしておける。また、フランス語の「motif」はおそらくデリダ自身のテクスト(第3章参照)において同じような事例になっている。私の見解では、デリダは「motif = reason」と「motif = subject」の間をゆれ動いているが、そのゆれ動きははっきりしていない。デリダの後の著作では、観念が「主題化」されるとき何が起こるかという問い、つまり、観念はいつ明白に主題として項目化され、明白になるのかという問いが示されるのだが、本論文でデリダはそれを示唆するようなやり方で、両者の間を移動している。観念は主題化されると、凝縮された構造に押しかためられながら、意味の上では増大し、もはや調査されることがなくなるかもしれない。

この論文で印象的なのは、いかに知的に豊潤であり、それにもかかわらず論文にとどまっているかということだ。本論文は確かに論文というジャンルにおさまっているのだが、それでも以下に簡単に論じるように、デリダが後にどのような哲学者になるかについて、ひじょうに大きな示唆を与えてくれる。ただ意外なことに、その文体については逆の注釈ができるだろう。10年もたたない後のデリダの書き方とは完全に違うのだ。本論文では、文体の面で将来への示唆は失われている。使われている構文も、ところどころで紋切型でさえあり、なんども繰り返される構文の鋳型から文が作られている。

そうだとしても、テクストと言語の重なり合いと、時間の混ざり合いさえもが、執筆から出版までの時間差を考えると、今回の英訳ではかなり複雑なことになっている。このことは、哲学作品を後で別の言語に翻訳するときには避けられない事故に見えるかもしれない。しかしそうだろうか。そして何が起こったのだろうか。この論文から1960年代以降を眺めると、デリダがこの言語横断的、テクスト横断的なやり方で、ある哲学者(=フッサール)についてフランス語で書き始めるということは決定的に思える。その哲学者のドイツ語は難解さで評判が悪く、彼自身の独特の語彙を持っている。当時その哲学者の著作のほとんどは、翻訳が手に入らなかった。そしてその著作の相当な部分が、実際には出版されていなかった。デリダはルーヴァンを訪ねてフッサールの資料室で未刊の手稿を参照し、後にDie Frage nach dem Ursprung der Geometrie als intentional-historisches Problem[ドイツで1939年に作者の死後出版された『指向的=歴史的問題としての幾何学の起源についての問い』]をフランス語に翻訳して1962年に出版する。この作品に対するデリダのまえがきは、彼の著作の中で初めて広く出版されたもので、文体と内容の点で、デリダが1960年代に急速に著名になっていく種類の作品の一部をなす。文体におけるこの変化、そしておそらくデリダが哲学に寄せる期待の変化は、本論文を読むとき上流からはっきり見える。何故その変化が起こったのかは、また別の問題だ。デリダが語ることによれば、『発生』は1953年から54年の学年にかけて、大急ぎで準備したということだ。アーヴィンのカリフォルニア大学にある彼の論文の中には、少なくとも高等師範学校の学生時代に書かれた試論が一つある。その背表紙には彼の教官だったルイ・アルチュセールの注釈がある。アルチュセールは親切に、本当に心配しているような様子で、文体が学術的な分野の規則にそっていないとデリダに警告している。この試論は、非常に難しいフランス教員資格試験(1954年から55年)の準備のためのものだった。上に述べたように、本論文で紋切型の構文がよせ集まっているのは、大急ぎでこの論文を書く必要があったからだけでなく、アルチュセールの警告に用心する段階にあったからでもあるのか。いや、前者のような理由でないことは間違いない。

しかし本論文は着想がひじょうに豊富で、数年後の彼の著作をいくつかのやり方であきらかに予告している。まず本論文はフッサールのドイツ語とすでに存在したフランス語訳の間の運動を含んでおり、当時まだドイツ語から翻訳されていなかったテクストに、妥当なフランス語版を見つける必要があるということを明らかにしたに違いない。本論文を書くことで、デリダは哲学における特定の自然言語の役割を、さらに強く認識したにちがいない。私たちは、詩は異なる言語で書かれると、異なるものになるという考えに慣れている。しかし哲学作品はどうだろうか。私がここで示唆したいのは、デリダがその哲学作品を執筆した最初から、言語の問題にとりくまなければならなかったということだ。それも一般的な問題としてではなく、フランス語とドイツ語という2つの言語で、哲学的な意味を生み出す別々の方法に関連して言語の問題に取り組まなければならなかったのだ。これは一般的に考えられている「翻訳」という言葉に含められるような問題ではなく、より広範でより困難な問題であり、言語に関する根本的な問題を指し示している。デリダは何度か「思考と言語の非古典的な分離」について語っている。つまり、まるで天使の言語のように、思考が言葉を失ってから、その後に人間の言語を身にまとうといった分離ではなく、単語や文節と思考が一致するということでもなく、記号化のことでもない。そうではなく、表現されるものには鋳型があるということである。その鋳型は、自然言語の特殊性と、表現する必要性につねにつきまとう制約を通して生じる。この自然言語の特殊性と制約は、新しいもの、つまり、過去が言語に侵入するとき、過去から立ち退かされたものを、押しつけることに抵抗する。その後に言語は、意味一般の可能性の問題だけでなく、特定の言語やさまざまな言語の体系における意味の可能性の問題も問いかける。

また、フッサールとの関係がある。上述の点に加えて本論文は、1990年以前に実際に出版されたデリダの著作でははっきり見えない問題関心の層を示している。本論文はこの問題関心をはっきり示している。フッサールの最初の著作は論理学と、算術の哲学についてのものだ。マイケル・ダメットが指摘したように、フッサールは分析哲学の父である、ゴットロープ・フレーゲと手紙をやりとりしていたとき、西洋哲学の二重らせんをなす二本の線がお互いの意味と関係性の問題について有意義な議論をすることができていた。フッサールの『論理学研究』(1900-1901年)はまだ明らかに論理数学的な文脈について論じている。しかし『イデーン』(1913年)はそうではない。デリダの本論文は次のように結論づけている。フッサールの思考にとって一つの駆動力となっているが、決して完全に明示されず、還元によって完全に超越論的に構成されなかったものは、起源の問題、つまり発生の問題であるということだ。(『還元』とは超越論的な観点を手に入れることができた場合、括弧に入れること、世界を当然のこととして前提することを中断することである)フッサール後期のテクスト『幾何学の起源』の翻訳にデリダがつけた序文によれば、フッサールが最後にくわだてた還元の対象は言語だとされている。しかし本論文には、初期フッサールについて、および彼の哲学が論理学にどう関係しているかについて、詳細で体系的な説明がある。フッサールが死の床についてまで哲学にたえず見直しを要求していたことを理解している人なら、このことを知って驚くかもしれない。(本試論の最後にデリダが引用している、フッサールの姉による報告を参照)

1990年版への序文でデリダは後期の著作で発展させてきたテーマ、とくに起源の問いと、起源の綜合的でアプリオリな本質についての問い(これはカントの問いだと注釈が付されている)などをいくつか取り上げている。デリダは起源についての問いを本論文で取り扱うために使った「弁証法的」という名前についても取り上げている。この点について、2つの注釈を付け加えられるだろう。一つは、弁証法と呼ばれているものに与えられている構造は、バランスのとれた位置といった構造ではない。この点で1990年版への序文はもたついていて、


フッサールに対してわれわれは次のように問いかけることができるだろう。弁証法と弁証法でないものの間の絶対的な弁証法を、その存在論的な可能性と(同時に)その意味においても、基礎づけることが可能だろうか。この弁証法のなかでは、哲学と存在はお互いをお互いのなかに混ぜ合い、自分自身から自分自身を決定的に疎外することがない。


この弁証法は(少なくとも本論文で光を当てたいと思っている概念なのだが)同時に連続性と非連続性の連続性や、自己同一性と他性の同一性などが可能かどうかということでもある。

この構造は対立するものの一方の側が延長されて、その位置を繰り返すことで樹木の形になり、後に「差延」と呼ばれるものの基礎となっていることがわかる。なぜなら「差延」において対立するものは安定せず、静止しているところをとらえることができないからだ。差異化のプロセスは継続する。ヘーゲルの論理学のように、対立するものが何らかの仕方で取り戻されるようなパターンに、私たちはとどまらない。私たちは絶えざる運動、継続的な分割と喪失に向き合わなければならない。

私の二つめの注釈は、無限の問いについてである。デリダはフッサールの思想のいろいろな段階で言われている無限の観念のさまざまな形に一致している(序文の註12を参照)後にデリダはフッサールにとって無限の観念が本質的な役割を果たしていると指摘している(第三章、註73参照)。この註73によれば、フッサールが無限と格闘したことはデリダにとって重要であり、じっさい本論文を通じてところどころに現れている。そしてこのことは『幾何学の起源』への序文における議論の最終段階にも光を当てる。『発生』の第五章註89でデリダは、このフッサールの問題を実存主義者の思考と比較対照して説明している。無限定の形式をもつ無限の直観は不可能だが、無限の観念はそれでも把握できる。なぜなら無限の観念の形態は有限だからだ。しかしフッサールはこの矛盾を掘り下げていない。デリダは掘り下げるだろう。」

以上、比較的何が書いてあるのかわかりやすい英訳者による注釈だ。念のために申し添えておくと、初見で頭から日本語に置き換えながらテキストエディタで入力していっただけなので、ミスタイプや誤訳、日本語として不適切な点は多々あると思う。しかし個人的な趣味でデリダを読む一会社員の単なるヒマつぶしなので、厳密なことは言わないで欲しい。この注釈に関する限り、僕にとっての収穫は最後の弁証法についての解説部分だった。まともに研究したい方は、当然英語ではなくフランス語の原文に当たるべきである。

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