『内側から見た富士通 「成果主義」の崩壊』についてはもう少し議論すべきことがある。それはこのような内部告発の書を、退職したばかりの元社員が書いて大手の出版社から出版するということの倫理である。この問題を議論する手がかりはAmazon.co.jpの本書のレビューに見つかる。
たとえば「同じ人事部門に所属する」と自称するレビュアーは「文章のトーンが、全て悪意に満ちた視点で書かれて」いると断じている。そのわりには「そもそも『成果主義さえ導入すれば全てがバラ色』なんて考えで『成果主義』を導入している企業なんて、今時無いでしょう」と、制度的欠陥があることを知りつつ成果主義を導入していることを自ら認めるようなことを書いてしまっている。もし本当にこのレビュアーが今も富士通の人事部門で働いているのだとすれば、まさに本書が批判している「腐敗した富士通人事部」を見事に体現していることになるのだが、それに気づいている様子もないこのレビュアーはあまりにナイーブだ。
もしこのレビュアーが、自らがまさに「週刊誌ネタ」になっていることに気づく様子もないような演技と、本書に辛目の点数をつけるという演技をAmazon.co.jpのレビュー上であえてすることで、逆に富士通の人事制度の機能停止ぶりをほのめかそうとしているのであれば、相当な知能犯ということになるが、まずその可能性は小さいだろう。
もう一人「富士通に対する憎悪が感じられる。鵜呑みにしてはいけない」とするレビュアーは、「事実を公平に描写しているとは思えないフシ〜〜もある」と批判している。ただし、仮に公平な内部告発本があったとして、それが光文社ほどの出版社から出版されたかどうかは疑問だ。先ほどのレビュアーのように「こんは本は週刊誌並みだ」と断じたくなるような読者が出てくる程度には公平さを欠いているからこそ、われわれは日本の出版業界の厳しさにもかかわらずこの本を手に取ることが出来ているのであり、そもそも何らかの対象を批判する書が、限定された立場をとらないなどということはないはずだ。
対象が何であれ、何かを批判する内容の議論が「公平」でないのはむしろ当然のことではないだろうか。発言者が自ら責任を負って極端な立場をとるからこそ、初めて論戦が始まる。さらに、誰の目にも公平な事実、客観的な公平性などというものはフィクションであり、すべてを見通す神でもない限り「事実を公平に描写」することなどそもそも不可能なはずだ。
そして、公平な事実、客観的な公平性が存在するという信念こそが、「成果主義」という制度を成り立たせている信念であることを思い出そう。人間が、他の人間の業績という事実を、公平に把握し、記述できるという信念が「成果主義」の根底にある。しかし果たしてその信念は正しいだろうか、というのが「成果主義」に対する根本的な疑義の一つであり、『内側から見た富士通』にもそのことは書かれている。
にもかかわらずこのレビュアーは、まさに「成果主義」を成り立たせている信念と同じ信念にもとづいてこの本を批判しているのだ。自分自身が「成果主義」の根底にあるのと同じ信念の上に立ってしまっていること、つまり自分自身が部分的に「成果主義」的な考え方を体言していることを自覚せずに、成果主義批判の書を批判している。
以上のように、程度の差はあれ、本書に「悪意」や「憎悪」を読み取っているAmazon.co.jpのレビュアーは、まさにミイラとりがミイラになるという状況に陥っている。最初のレビュアーはある意味で本書の潔癖さ、筆者の正義漢ぶりを批判することで、かえって富士通の「成果主義」が不完全なものであることを自ら証明している。二番目のレビュアーは客観的事実の公平な描写という、まさに「成果主義」を成立させている信念にもとづいて、「成果主義」批判を批判するという循環論法に陥っている。
このことは、本書に「悪意」や「憎悪」を読み取るや否や、読者はつねにある種の陥穽にはまってしまうことを見事に示していると言っていいだろう。では本書については逆に「善意」や「愛」を読み取るべきだということになるのだろうか。
筆者は本書の中で、何度か「富士通という会社を愛しているからこそ」というフレーズを登場させている。おそらくこのフレーズの半分以上は、このような内部告発の書を書いてしまった罪の意識に対する、自分自身への免罪符代わりに発行されているのだろうが、残りの半分は文字通り受け取っていいと僕は考える。というのは富士通が裏切ったのは、たしかに「成果主義」の導入による混乱によって、大量に会社を去っていった社員でもあるけれども、それによって損失を与えた株主でもあるからだ。
株式会社にとっての倫理、資本の「倫理」は、究極的には株主に対する責任に帰結する。富士通が「成果主義」導入の失敗によって、何か「悪い」ことをしでかしたのだとすれば、それは株主に損失を与えたことである。それまで多大な費用をかけて育成してきた人材を、むざむざと流出させ、それに対していまだに有効な施策をとることができていない点、そして、まさにそれを告発するこのような書物の出版を許すところまで状況を悪化させるに任せた点、これらは明らかに株主にとって損失である。
富士通の顧客は、富士通の人材の質が信用できなくなれば、他のシステムインテグレータに乗り換えればいいだけの話だ。別に富士通の内部で「成果主義」が成功していようが、失敗していようが、自社で使う情報システムが要件どおりに完成すれば何の文句もない。構築業者が富士通である必然性もないし、損害をこうむったのであれば損害賠償を請求して、まだ仕切りなおせばよい。
しかし株主によって実行に移される資本の論理は、株式会社としての富士通の倫理に直結している。投下した資本を回収できなくなることで、損失をとりもどすすべを失う可能性が出てくるからだ。もちろん富士通が明らかに株主の利益に反するような行為に及べば、訴訟に持ち込むこともできるだろうが、「成果主義」という制度の運用に失敗した程度では、株主は自分たちの「見る目」がなかったのだとキャピタルロスを甘んじて受けなければならない。
ところが人事制度の失敗は、業績に対して長期的に深刻な影響を及ぼす可能性がある。長期的な見通しは直近の株価に織り込まれる。法律には抵触しない側面での失敗が、会社の所有者である株主に損害を与えているのだから、これが富士通の「悪い」行いでなくて何だろうか。しかもその失敗が隠蔽によって葬り去られる可能性を封じたのであれば、本書には倫理的な意味がある。
本書の読者は、筆者の個人的な悪意や憎悪を問題にする前に、本書の存在そのものが、資本の「倫理」においてどのような位置にあるのかを、まず考えるべきではないだろうか。