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![]() 誰のための予算か? ( 19980327 ) 僕もふつうの日本人としての素質を持っているので、一度ある会社に入って勤めが長くなってしまうと、まるでその会社の社風が世界の常識であるかのように思いこむ過ちを犯すおそれは十分にある。 井の中の蛙にならないためには、常に自分の日常を一歩引いて冷静に見つめる努力が必要だし、このページにアクセスしてくれた人からのメールで、いろいろな意見を知ることは、その重要な手段になっている。 一歩引いて自分の置かれている環境を見つめるための、最も重要な方法論は、「疑うこと」であることは言うまでもない。最終的には「そのとおりだ」と納得するにしても、まずは疑ってみなければ何も始まらない。 最近僕が強く疑いはじめたのは、「内部牽制」という企業風土だ。 企業でふつう「内部牽制」ということが言われるのは、社内でのさまざまな不正行為を予防するために、部門どうしのチェック機能を働かせようということからである。さまざまな部門がお互いを監視し合うことで、水増し発注や帳簿操作などなどを未然に防ぐ。 最近世間を騒がせている、総会屋への利益供与や証券スキャンダルなども、日本の企業にまともな内部牽制のしくみがあればなかったはずの事件である。 たしかにこのような内部牽制のしくみは必要である。しかし、内部牽制はあくまで、法律上の不正行為を防止する倫理的な意味をもっているだけであって、それ以上の意味をもたない。企業として利益を考えるときは、部門間の「牽制」は無意味であると僕は思う。 倫理上の内部牽制というチェック機構は、部門間・社員間の利益の衝突を前提としている。言葉は悪いが、冷戦時代の仮想敵国と同じで、他部門は自部門だけの利益を追求する結果、不正行為を起こす可能性がある、という前提だ。 この内部牽制が、しっくりきすぎてしまう社風というのは、実は不正防止の堅牢な要塞というより、各部門が自部門の利益しか考えないムラ社会の体質がもともとあることの証拠ではないかという気がするのだ。 各部門が自部門の利害のみに関心を持つという哲学は、企業の収入面(売上高)を見た場合にのみ成立する。ちょっと考えてみればこれは当然のことだ。収入は拡大することで企業の収益に貢献するから、各部門は自部門の収入の拡大のみを考えていれば、それは企業全体としての収入の拡大に帰結する。 しかし、支出面で各部門の自立した利害を強調するのは危険である。単なる予算の奪い合いに終始するからだ。ひどい場合には、どの部門も後に引かない結果として、企業全体としての費用をふくらませることになる。 自分の事業部が好成績をあげているからといって、それだけの費用を要求するのは、このようなムラ社会的な社風の弊害である。ましてや、間接部門どうしが、自部門の都合だけを考えて予算の取り合いをするのは、ナンセンスである。 ところが、予算の奪い合いを、部門の自律性と取り違え、良き内部牽制の文化だと思い込んでしまっている社風がある。「各部門が自部門の都合だけを考えて、1円でも多く予算をふんだくるのは、結果として全体の利益になる」などということを、当然だと考えてしまう社風がある。 長い年月、そんな社風に染まって仕事をしてきた人々は、おそらくそれこそ望ましい「部門間競争」のあり方だと思い込んでしまっているが、冷静に考えてみればとんてもない勘違いだということはすぐに分かるはずだ。 そろそろ入社式の季節だが、新入社員の訓示でよく言われることに、「一社員としてではなく、自分が社長のつもりで、会社全体のことを考えながら仕事をしてください」ということがある。 本当に企業全体としての利益を考えて仕事をしているなら、自部門の立案したプロジェクトに固執し、経営者が企業全体のことを考えて提案した予算の削減要求を、「そんなアホな」と真に受けないという態度など出てこないはずだ。 僕は、自分が経理部門の業務を経験したせいかもしれないが、どうしても自部門だけでなく、企業全体としての適正な予算配分という観点で考えてしまう。そんな観点からすると、自部門のプロジェクトを所与のものと考え、予算カットの要求に被害者意識しか持てないような部門の責任者は、たんなるエゴイストにしか見えない。 この不況の折、本当に企業の一翼を担う者としての責任感を持っているなら、むしろ、あっさりとプロジェクトをあきらめる英断こそが、部門の責任者に求められているのだ。 まるで、1円でも多く予算をふんだくることが使命であるかのように考える部門責任者のたくさんいる会社の社風は、ちょっとおかしい。勘違いされた「内部牽制」のはばかる会社は、それこそ真剣に社風改革に取り組む必要があるだろう。 あえてプロジェクトを中止する英断。これこそが、この厳しい状況の中で、部門の責任者に求められていることだと、僕は思う。 無断転載禁止
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