MITの教授であるポール・クルーグマンの『良い経済学・悪い経済学』(日本経済新聞社)という本を読んで、このホームページの別項で述べた「ストーリー」の弊害が正しいと確信した。
経営幹部が、経営指標の説明資料に「わかりやすさ」を要求し、そこに明確な「ストーリー」を求めるのは、ひじょうに危険である。それが僕の主張であるが、この本で、著者のクルーグマンは、世間に流布する「わかりやすい」ニセ経済理論を、理路整然と批判している。
(ちなみに、クルーグマンが批判の対象としている書物のリストが同書の40ページに註として載っているが、ダイヤモンド社の本が3冊も入っているのには大笑いした。経済学の本を買うときには出版社を選びましょう。売れる本が正しい本とは限りません)。
正しい判断に必要なのは、厳密な理論であって「わかりやすさ」ではない。このごく当たり前のことを謙虚に述べたこの本にかこつけて、今回は「経験主義」の弊害を述べてみたい。もちろん「ストーリー」批判についても、議論を深めようと努力してみた。
社会人として働くなかで「経験主義」の弊害とでもいうべきものを痛切に感じることがある。ここでいう「経験主義」とは、「自分自身の個人的な経験を基準にして、ものごとを判断する」くらいの意味だ。
たしかに経験というものには一定の価値はあるが、それはあくまで経験を裏付ける理論があってこそである(なんか、私立大学入試問題集・現代国語・問三みたいになってきたなぁ)。
裏付けとなる理論がなければ、いくら有意義な経験を積んだところで、その経験は当人にとってその場限りの特殊な経験でしかない。さまざまな経験から、ほかの状況にも応用できるような普遍的な本質を引き出すためには、理論的知識と抽象化の能力が必要不可欠である。
理論的知識や抽象化の能力を欠いた人間は、「他の人間は自分と同じような経験はしていない」という自分の経験の特殊性を、経験そのものの価値と取り違える傾向がある。
一人の人間の経験が、他の人間と違うのはむしろ当然で、同じ時間に、同じ環境で、同じ出来事に出くわす方がむしろ不自然である。それは単に、まったく同じ出来事が同時に起こる確率はゼロに近いというだけのことで、その経験そのものが希少価値を持っているということとは無関係である。
渋谷駅前の交差点で1円玉を拾ったことのある人間は、日本に数人しかいないだろうが、南極を徒歩で横断した経験のある人間も、日本に数人しかいないだろう。しかし、だからといってこの二つの経験に等しい希少価値があると考えるのはバカげている。
社会に出て働いている限り、イヤでも「実務経験」というものを積むことになる。だれでも2、3度の転勤は経験するし、転職を経験することもあるだろう。いくら経歴が波乱にとんでいたところで、それがそのまま経験そのものの価値につながるわけではない。
ところが、経験を重ねれば重ねるほど、つまりベテランのサラリーマンになればなるほど、自分の経験の特殊性そのものに価値があるかのように勘違いしている人々が多い。重要なのは、その人の経験が外見上変化に富んでいるという事実ではなく、その経験からどれだけ普遍的な価値を引き出したか、ということだ。
たとえば、勤続10年のサラリーマンが、「大阪支店では...でしたし、北海道支店では...でしたよ。ですから...」と会議の席でしゃべったとする。
確かに、大阪支店から北海道支店という組み合わせの経歴を持つ人間は、会社の中で彼しか存在しないかもしれない。しかし、大阪支店や北海道支店の実状は、赴任すれば誰にでも観察できることだ。
本当になすべきことは、自分の経験にくっ付いている事実としての特殊性をはぎ取って、普遍性のある情報を抽象することのはずである。たとえば、自分が大阪支店に赴任したときの、日本の経済状況や会社の業績、大阪という土地柄、そのときの自分の職務権限、そうした周囲の状況が、自分の経験におよぼしている影響をよく振り返ってみて、自分の経験を他の環境に置き換えたとき、いったいどこまで有効性があるだろうか?と考えてみることが必要だ。
そのように自分の経験の特殊性を自覚しないままだど、どんな場合にでも自分のケースをあてはめようとする間違いを犯す。
たとえば、新しい管理会計手法の導入を検討する会議で、ある課長が「わたしは、静岡支社と本社にいたことがありますが、どちらもホストコンピュータからの出力リストで、担当者にチェックさせていたようですよ」と発言する。
この課長は、自分が静岡支社や本社にいたのが、今から10年前、つまり、実質上パソコンが実務に耐えるレベルになかった時代であったことを、完全に忘れてしまっている。今、新たな管理手法を導入するなら、コストと安定性の兼ね合いで、パソコンによるシステムも十分検討の余地があるのに、この課長にとっては、ホストコンピュータのリストが、いつまでたっても金科玉条なのだ。
自分の経験の文脈を無視して、そのまま現在の状況にあてはめようとしたところに、この課長の誤りがある(喜劇と言うべきだろうか)。
このように、「経験主義」には、文脈を無視していたずらに経験を普遍化してしまう危険性が潜んでいる。
「経験主義」のもう一つの危険性は、このホームページの別項でも触れた、「物語化」の危険性である。
人はある経験をしたとき、その経験の持つ特殊性をできるだけ排除して、他の文脈にも応用できるような普遍的な本質を見出す必要がある。何度も言うように、そのためには理論的知識の裏付けが不可欠である。
しかし、理論的知識や抽象能力のない人間は、経験から本質を引き出す代わりに、「物語」を引き出す。「物語」を引き出すとは、自分の経験に一定の解釈を与えることである。
自分がああいう経験をしたのは、ああいう背景があったからだ、として、自分の経験をわかりやすい「お話し」にしてしまうのである。これはむしろ、自分の経験に固有な文脈を、固定化してしまうことになる。普遍的な本質を抽象するという正しい道の正反対を行っていることになるのである。
自分の経験を物語化することによって、経験とその文脈は固定化され、「自分史」や「英雄談」、「自慢話」といったものが出来上がる。自分のアル中ぶりを「英雄談」に仕立て上げるくらいなら罪もないが、職務経験を「自分史」にするや否や、ひどく偏狭な価値観にもとづいた、特殊な物語になってしまう。
企業の幹部が、やたらと「ストーリー」という言葉にこだわるのは、ここにも原因がある。別項で述べたとおり、「ストーリー」においては「わかりやすさ」が最優先される。「わかりやすい」とはつまり、具体的で特殊であるということだ。
具体的で特殊なものが、ある人間にとって分かりやすいのは、その人間自身の「物語」に近いものである場合に限られる。たとえばSEとしての僕が、Visual Basicでドラッグ&ドロップを処理するときの苦労を話しても、営業部長は「ああ、わかる、わかる」とは絶対に言ってくれないだろう。
営業部長が「ああ、わかる、わかる」と言って、したり顔でうなずいてくれるのは、おそらく大きな商談を勝ち取るための苦労話や、接待でお客を連れていったフィリピン・パブのお色気話などだろう。
これでは、各人が自分の経験の特殊性におぼれたままで、共通する理解を引き出すことはいつまでたってもできない。だからこそ、経験から普遍的な本質を抽象することが必要なのだ。
「わかりやすさ」という基準で経営指標についての分析の是非が判断される限り、あらゆる経営判断が、幹部の経験の特殊性の範囲内にせばめられてしまうおそれがある。これが「ストーリー」偏重の危険性である。
今まで「ストーリー」偏重の経営判断が、見かけ上の成功を収めてきているのは、おそらく「ストーリー」偏重を許容してしまう外的条件があったからだと考えるべきだろう。決して「ストーリー」が正しかったわけではない。
僕はクルーグマンのような著書が今になって登場したのは、偶然ではないと思う。通俗的な「わかりやすさ」や「ストーリー」が、とりわけアメリカの経済学の分野で蔓延しているということは、同じく日本でもそうした傾向が助長されていることになる。
ということは、日本企業の「わかりやすい」もの好きの経営者は、「競争力」の名もとに正当化される保護主義や、産業空洞化論に喜んで飛びつくだろう。
真理そのものはシンプルだが、それに至る道は困難である。
ってことは、僕らのなすべきことは、とにかく理論的基礎を固めることですね。というわけで、僕は今日から『入門・経済学』という本を読むことにしたぞぉー。この本にも、クルーグマンの本にも引かれていることば。
「経済学を学ぶ目的は、経済学者の議論にだまされないようにするためである」
そして僕のおことば。
「経済学を学ぶ目的は、経営者の物語にだまされないようにするためである」