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![]() 選挙街宣車の反政治性 ( 19990410 ) このエッセーを書いているのはちょうど地方統一選挙の季節(1999年春)。サラリーマンになるといろいろ理不尽なことがあるが、労働組合が組織票の確保のために組合員に選挙運動への協力を求めてくるのもその一つ。どうして支持政党でもない候補者のために労力を割かなければいけないのか理解に苦しむ。 「政治参加も組合運動の一環」というのが組合側の理屈だが、それなら個人が選挙権を行使すればいい。個人がそれぞれの考えに基づいて投票所へ足を運べばそれで十分なのだ。組合員の思想信条を無視して、選挙運動への協力を強いる理由は全くない。単なる屁理屈だ。自ら組合離れを招いているようなことはもうやめたほうがいい。 それでもなぜやめないのか?単に惰性で生きているだけだからだろう。今までもそうしていたから、これからもそうする。なんてポリシーのないやり方。今「ポリシー」と言ったが、このpolicyという言葉はpolitics(政治)と同じ語源だ。政治参加、政治参加と口うるさく言うなら、自分たちの言動にこそ政治的信念があるのかどうか反省してみるべきだ。 選挙運動といえば、投票日直前になると俄然騒々しくなるのが街頭宣伝車。ふだんは極端な政治団体の専売特許である街宣車も、選挙シーズンになると誰もがラウドスピーカーで「大きなスピーカーで失礼いたします」と矛盾したことを叫びながら街中に公害をまき散らす。 組合の選挙協力で街宣車の呼びかけをさせられてしまった人曰く、「今まではうるさいと思ってたけど、自分でやってみて『少しは聴いてやれよ』と思うようになった」とのこと。ちょっと待った!そんなに簡単に「改心」してしまっていいのか?今の日本の選挙運動が本当に望ましいものなのか、頭を使って考え直してみてほしい。 今、会社の英会話研修を受講しているのだが、その先生は日本での生活経験が浅いので、授業のたびに選挙の街宣車についてひとしきり文句を言う。どうして日本人はあんなうるさいものをほうっておくんだ。だれもあれをやめさせるために市民運動を起こさないのか? 街宣車を当たり前と思うような、惰性にまかせた生き方をしていてはダメなのだ。街宣車が本当に選挙運動として望ましいものなのか、ちょっと考えればそのナンセンスさが分かるはず。 だいたい街宣車で候補者の政策が伝わるのか?せいぜい名前を連呼するくらい。けっきょく選挙は政策で争われるのではなく、ただの人気投票になる。いかに名前を脳みそに焼きつけるか、そういうど〜でもいいことに人を動員する。駅前でも「○×をよろしくお願いいたします!」と、単なる名前の連呼。 街宣車というものは、街宣車しか有権者と候補者のコミュニケーション手段がなかった時代の遺物でしかない。今の時代、ラジオ、テレビ、ホームページ、電子メール、FAXなどなど、候補者がもっと効率的に自分の政策を有権者に伝えるメディアは山ほどある。ところが日本の選挙制度が時代の変化に全く対応できていないため、こうしたメディアを活用できない。その結果、選挙間近になると街宣車の「騒音公害」。 日本の政治を有効に機能させたいのなら、「これからは街宣車の言うこともちゃんと聴かなきゃ」などという「改心」よりもっと大事なことがあるだろう。それは日本の選挙制度を時代に適応させるための努力をすること。今までもそうだったからといって、現状の制度を無批判に受け入れるのは、もっとも「非政治的」な態度だ。それは一見、選挙協力のように見えるが、実は日本の選挙制度をますますダメにしているだけである。 そのための第一歩は、何よりも現状に対する拒否の態度表明だ。一人ひとりがNO!を言い始めないことには何も変わらない。上述のような古くさぁ〜い選挙活動への協力を拒否することで、組合に選挙運動の再考をうながすことこそ「政治的態度」ではないのか。 もちろんサラリーマンにここまで本質的な政治的態度を求めてもムダなことは分かっている。サラリーマンは「習慣の生き物」であり、いろんな職業の中でもいちばん「非政治的人種」で、NO!を言えないのがサラリーマンのサラリーマンたる理由みたいなものだからだ。しかしその惰性を、本業のビジネスの世界にだけは持ちこまないようにしたいものだ。 無断転載禁止
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