think or die :
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独裁者の「責任」
会社組織における「直接民主制」
2001/07/14

この奇妙な組織に捧げる言葉として何が適当かをいろいろと考えてきたが、ようやくひとつ見つかった。それは「直接民主制」だ。

読者の中には企業で会社員として働いている方もいらっしゃるだろうが、会社組織というものはふつう「代議士制」の組織形態をとっている。各部署を代表する責任者がいて、その責任者は上からの指示を自部門に伝える役割と、自部門の意見をとりまとめて社内に発信する役割を負っている。

なにも会社組織にかぎった話ではない。中学校の生徒会だって、一人ひとりの生徒が直接、生徒会の運営にたずさわるわけではなく、各クラスや各学年の代表者が代表としての責任を負って運営する。

組織の人数が一定以上になれば、一定の方向に組織を動かしていくために「直接民主制」から「代議士制」へ移行しなければいけないのは、僕らが小学生の頃から学んできたことであるはずだ。

最近、企業では「組織のフラット化」が流行だが、これとて別に「直接民主制」を目指しているものではない。長い歴史の中であまりにも組織の階層が多くなりすぎた企業が、その階層を「減らそう」という試みであり、階層そのものを「なくそう」ということではない。一定以上の規模の組織が基本的に「代議士制」でなければ運営できないというのは、自明のことである。

しかし中にはこのことが必ずしも自明ではない組織も存在する。一定以上の規模に達しているにもかかわらず、その構成員がいまだに「直接民主制」を指向している、そのような組織である。数百人以上の規模であるにもかかわらず「直接民主制」の原則で運営されている組織のことを、かっこよく「フラットな組織」とは呼べない。それは単なる「無秩序な組織」である。

なぜ組織が一定以上の規模になったとき「代議士制」に必然的に移行しなければならないのか。それは権限の範囲と責任の所在を明確にするためだ(ああ、こんなわかりきったこと今さら聞かされるまでもない!とお思いの賢明な読者はこのあたりでトップページにもどって頂きたい。このエッセーはこんなわかりきったことがわかっていない人々に捧げられているのだから)。

組織が一定以上の規模になると、構成員の一人ひとりが組織全体の運営について責任と権限をもつことが難しくなる。組織内での役割分担がはっきりしてくるためだ。したがって組織は機能別の小さな組織に分割され、構成員は分割された小さな組織の中に対してのみ責任と権限をもち、組織全体に対する責任と権限を代表者に委託する。その結果、組織は階層化する(僕はなんて当たり前のことばかり書いているのだろうか。)。

仮に、そんなことが現実にあってはならないのだが、仮に、数百人の規模であるにもかかわらず「直接民主制」になっている組織があったとしたら、いったいどんなことが起こるだろうか。一言でいえば「無責任な越権行為の嵐」である。自分に責任も権限もないことに意見したり、行動したりするということだ。

そもそも「直接民主制」というのは、唯一の指導者がすべての権限とすべての責任を負い、それ以外のすべての人たちが何の権限も責任も持たないことを意味する。独裁者と衆愚の組み合わせ、これが「直接民主制」である。(余談だが、小泉人気、石原都知事人気と、日本人の無責任体質が無関係ではないことがこれでお分かりだろう。権限を持ちたくない人々、責任をとりたくない人々は、唯一の指導者を欲しがるものだ)

「直接民主制」のもとで人々の行動は2種類に分かれるだろう。(1)好き勝手な要求を口にし、それを実現する権限が自分にはないと主張して、結果として何もしない人々。(2)好き勝手な要求を口にし、それを実現してもしなくても自分には責任がないのだから、結果として自分自身の判断で何でもやってしまう人々。

これら2種類の構成員からなる「直接民主制」組織の帰結は、端的にいえば「無秩序」である。成り行きまかせ、いきあたりばったり、わがままの言い合い、言ったら言いっぱなし、などなど、表現はどうでもいいが、とにかく無秩序である。

そのとき、独裁者が本当の意味で独裁者として機能するなら、その無秩序がある種の「秩序」に変質する。本当はそれは秩序でも何でもなく、独裁者の単なる「わがまま」でしかないのだが、それでも何のルールもないよりはましである。独裁者の意向にそわない人物が何らかの処罰を受けることで「秩序」ができあがる。組織の構成員が相変わらず権限も責任も負いたがらない衆愚であることには変わりないが、衆愚に対する方向性は少なくとも示されている。(たぶんこれが少し前の「ダイエー」や「そごう」の状況だったのかもしれない)

しかし、もしも独裁者が独裁者として機能せず、組織内部の運営にいっさい口出ししないとすればどうだろうか。つまり独裁者が「越権行為の嵐」の交通整理に乗り出さないとしたらどうだろうか。

仮にそういう独裁者の態度が、独裁者自身の善意、「民主主義的思想」や「人本主義的思想」から来ていたものだとしても、それは独裁者が自分の責任を放棄していると言えないだろうか。

つまり、組織の頂点に立つ者が、組織を階層化せず、「直接民主制」を指向するなら、組織内部の秩序化については結果として彼にしか責任がとれない。彼には独裁者として自分自身の恣意で組織を支配する選択肢しか残されていない。もっと言えば、彼には独裁者として組織内部を自分のわがままで方向づけする「義務」がある。無限の権限・責任をもつ独裁者と、権限・責任をまったく持たない衆愚の組み合わせである。

そんな独裁者然とした態度が、彼自身の思想信条にもとるというなら、「直接民主制」をやめて「代議士制」に移行すべきである。つまり組織内部での権限・責任の範囲を明確にして、組織の構成員は権限・責任を持つが、ただしそれらは有限であるというふうに秩序づけすべきである。有限の権限・責任をもつ組織の長と、同じく有限の権限・責任をもつ衆愚の組み合わせである。

最悪のケースは、組織の長が、組織内部の運営に関して権限・責任を放棄しながら、その組織が生まれた当時の自然状態、つまり「直接民主制」的な体制を放置するというものである。この場合、組織の運営について誰も権限をもてないし、責任もとれない。

唯一のカリスマによる良い意味での「独裁制」がうまく機能していた組織が、ある日突然「民主的な独裁者」を頂くようになる。これは一見、状況の改善に見えるが、実は取り返しのつかない混沌への落ち込みに他ならない。「代議士制」を選択しないなら、独裁者は組織の細部にわたって独裁者としてふるまう権限と責任をもつべきであり、逆に、独裁者であることがイヤなら、組織を階層化して「代議士制」に移行すべきである。

くりかえしになるが、もっとも始末が悪いのは「善意の独裁者」なのだ。組織の構成員に対して「自由にやりなさい。責任は私がとるから」と語りかける独裁者のことだ。なぜならその独裁者は「責任は私がとるから」と言いながら、組織の細部にわたって自分の独善を染みわたらせるという、まさに独裁者としての「責任」を放棄しているのだから。