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企業文化のローカル性
( 20000204 )

Japanese/English

転職してみると会社の文化の違いがいかに日常業務に影響しているか、そして一つの会社に勤務し続けてその文化になじんでしまっている社員がいかにその文化を相対化できないかということがよくわかる。

最近、とある顧客に対する情報システム構築提案をどう組み立てるかという会議があった。今僕が所属している会社は大企業のわりにフラットな組織で、各部門が管理すべき経営指標が厳密に決められているわけではない。経営指標に文句をつけたければいくらでも細かいレベルにまで文句をつけられるし、細かいレベルのデータを引き出すだけのインフラも整備されている。

一方、その顧客はおそらく整然と階層化されたいかにも大企業らしい大企業で、本社の経理部が管理すべき経理指標のメッシュの粗さ、その下にある各事業部の経理部が管理すべき指標の細かさ、さらにその下にある工場が管理すべき細かさという具合に組織階層別に管理できる範囲が制限されているに違いなかった。

その顧客の本社経理はどうやら現行のホストコンピュータから出力されている経営管理資料にとくに問題意識を抱いていない。しかしその資料はウチの社員の目にはいかにも粗すぎて使い物にならないようにうつる。そこでウチの社員は顧客の本社経理部に問題意識を持たせるべくトップセールス的な手法で説得することを考えてしまうのだが、これは問題をはき違えている。

顧客の本社経理部はそもそも自分が持っている資料以上に細かい管理指標に口をはさむ権限を与えられていないだけなのだ。異常値が見つかった場合どうするか。下位の事業部に原因を調査しろと投げるだけだ。下位の事業部は独自に管理会計用のシステムやデータを持っていて異常値を見つけ出す。そしてその異常値について今度は各工場にその原因調査を依頼する。そのようにして組織階層を下っていき、最下層の組織で原因がわかれば今度は逆のルートをたどって報告が上っていく。

このような階層型組織を持った企業の本社経理部に対して彼らが持っている以上に細かいメッシュのデータに対する問題意識を持てと言ってもムダだ。問題意識を持つことができる前提として、まず細かいデータに直接文句を言える権限が本社経理部に与えられていなければならない。そもそも権限を持っていない人たちに権限にないことをせよ!といくら言っても彼らがピンと来ないのはむしろサラリーマンとして当然である。

そういう前提条件を見逃したまま本社経理部を説得しようという戦略は初めから失敗する可能性が高いとわかっている。本当に説得するなら顧客の企業文化そのものを変革する気で臨む必要があるが、たかが会計パッケージを一つ買わせるためにそこまでの労力を割くのはバカらしい。コストに見合う収益にならない。こういうタイプの顧客には例えば各事業部にある管理会計機能のみをリプレースしてしまうとか、子会社の経理システムで実績を作ってしまうとか、細かいところから始める商売の仕方の方が効率がいい。

結局そこまで割り切った商売ができないのは、僕の今所属している会社の生え抜き社員が自社文化の「正しさ」に誇りを持ちすぎているためではないかと思われる。もちろん自社文化に誇りを持ちすぎているから(悪い言葉でいえば見事に「洗脳」されているから)こそ社員として高いモラールを維持できるのだが。

ただしそれは僕のような中途採用の社員からすれば一種の「見えざる障壁」になっている。その会社しか知らずに、なおかつその会社に長年勤めつづけることができている社員は当然その会社の文化に誇りを持っているのだろうが、自分が「洗脳」されているという事実に関してあまりに無頓着なのも部外者からすると困ったものだ。僕という人間が企業文化にあっさり「洗脳」されるだけのナイーブさを持っていないだけになさらそうだ。

生え抜き社員が本当に自社文化の独自性・ローカル性を意識していれば相対化の視点ももっと強くなっているはずだが、そうなっていないのは例の「グローバリゼーション」が原因と思われる。つまり自社文化をローカルなものとみなす代わりに「グローバル」なものとみなしているのだ。今の時代「グローバル」の一言で全てが正当化されてしまう。「グローバル」なものは無条件に正義と考えられてしまう。「グローバル」というのは地域性から自由であるという意味でニュートラルなもの、偏向していないものであり、したがって「正しい」というわけだ。

しかし「グローバル」を盾に正義を標榜する企業文化が、実際にはその正しさの根拠を「日本的でない」という否定性だけに置いているのだとすれば大いに問題がある。なぜならまさに「日本的」な企業が存在するからこそ彼らは「グローバル」を標榜できているということになるからだ。ここにも「奴隷と主人の弁証法」が現れている。

グローバルだと評価されている日本企業が単に日本的なるものの否定だけを根拠にしていないか。もしそうだとすれば日本的なるものが本当に無意味な時代になってしまったとき彼らは途方に暮れるだろう。

しかしもちろん日本的なるものが無意味になってしまう時代は永久に来ない。オーストリアの極右政権のように「グローバル化」への危惧はローカル性の先鋭化を必ずともなう。彼らが安心して「グローバル」なる理念を口にできるのは、ある意味「日本的なるもの」が決して滅びないことを彼らが知っているからだ。主人が不死であることを知っているからだ。

結局のところ日本国内のあちこちで標榜されている「グローバル化」は日本的なるものの先鋭化と共犯関係にある。グローバル化に乗って市場の洗礼を歓迎する企業は投資家の短期的な思惑に左右され、日本的なるものを死守する企業は長期的な凋落傾向に手をこまねいている。そのどちらが「正しい」か誰が決めることができるというのだろうか?


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