日経新聞9月20日朝刊科学技術面に、またもや「若者」バッシング記事を見つけた。個人的体験を金科玉条とし、他人とのコミュニケーションを欠いた現代の若者は、自己を客観化する思考が希薄だという論旨だ。
論の8割が若者批判であるわりに、内閣改造のドタバタを同じ根拠で批判してみたり、やや一貫性に欠けるが、「同質な人間の集団で、内部の事情にだけ目を奪われていると、自己の客観的な姿がわからなくなる」という論旨はまったくそのとおりである。
記事の筆者はこれを避けるためには、他人とのコミュニケーションが必要と説くが、それが必ずしも自己の客観化につながらない、というお話である。
僕は自分がサラリーマンであることに違和感を抱いているが、いちばんそれを感じるのは仕事で人に会うときだ。仕事の話をしている間は問題ないが、個人的な話題になった瞬間、大きなミゾを感じる。
サラリーマンにありがちな話題その1!は、「野球はどこのファンですか」というものである。僕は野球にはまったく興味がない。どうしてこれほど多くの人が野球に熱中するのか、謎である。
野球がいかにつまらないかについては別に論じるとして、サラリーマンなら誰しもペナントレースに一喜一憂している前提で「どこのファンですか」と聞かれたのでは返答に窮する。
野球ファンが数の上で多数派である上に、サラリーマンという職種が社会的に多数派だから、サラリーマンと見れば野球ファンだと考えてしまうのだろう。何も言わないよりましだと言うなら、話題の貧困さを省みるべきである。
サラリーマンにありがちな話題その2!は、自動車に関するものだ。
たとえば雑談中に今度の慰安旅行の話がでる。コースがたまたま僕の実家近くを通っているということで、ある人が「君ならよく知ってるでしょ。名阪に乗って、松原で降りて...」としゃべり始める。
ところで僕は車を持っていない。僕の住んでいる名古屋は、長年の自動車産業との関わりから、政策的に「歩行者差別都市」であるから仕方ないとして、少なくとも東京・大阪では車がなくても生活に不自由しない。「名阪」が高速道路であり、「松原」が阪神高速の入口であることは知っていても、道路で土地感を描写されても僕にはピンと来ないのだ。
また、同僚たちはモデルチェンジのたびに、カタログを見ながらうんちくを傾けあう。驚くべきことに名古屋女性は、二言目には「車、何乗ってる?」と尋ねてくる。男の価値は車で決まるとでも言うかのように。
いまだにアメリカ流のモータリゼーション幻想から脱皮できない名古屋のことは仕方ないとして、サラリーマンの多くが車に異様な関心を示していることは確かだ。ここでもサラリーマンは車に興味があって当然という話し方をされるので困ってしまう。
確かに一般的なサラリーマンと付き合うことがカルチャーショックであるという意味で、それは僕自身の「客観化」の助けにはなる。それに、たかが野球や車の話をいちいち指摘することに、どれほどの意味があるのかと言いたくなる人もいるだろう。
しかし、こうした些細な問題には、より大きな問題に通じる「サラリーマン的なもの」の本質が現れている。問題の見かけ上の大きさを「経済的」なものさしで計って、小さな問題を切り捨ててしまうのではなく、見かけ上の大きさをいったん括弧にくくって、そこに現れている問題の本質を見抜こうとするべきだ。
野球や車の話題に現れている問題の本質とは、サラリーマンは自己を客観化できないのではないか?ということである。
サラリーマンは人脈を重んじるが、その人脈とて大抵の場合やはりサラリーマンである。サラリーマンどうしが酒をのみながら野球や車の話でいくら盛り上がったところで、新たな観点が生まれることはないし、まして彼らが自己を客観化することなどできない。
ところがサラリーマンはサラリーマンどうしで人脈を広げることが、自分の世界を広げると勘違いしている。いくら数が多くても同質の人間ばかりが集まったのでは世界は狭いままである。世界の広さは数の問題ではなく、質の問題だ。
実際に僕はサラリーマンになってからいろんなサラリーマンと付き合っているが、大学時代の友だち付き合いのように、こちらが「ハッ」と目を開かれる体験をしたことがない。
皆が皆、野球・車・女・競馬・ハリウッド映画といった陳腐な話題をめぐって際限のないおしゃべりを続け、そうしたこと自体を疑ってみる視点に欠けている。自分の生きている環境、前提としている価値観そのものを疑うラディカルさがない、だから彼らは僕にとって退屈なのだ。
別に僕はサラリーマンであることを卑下せよなどと言っているのではない。僕自身がサラリーマンであることは、この国の経済のゆくえを制度の内部から考えるのにうってつけのポジションだと思っている。
ただ、サラリーマンという職業が持っている可能性をとらえるためには、自分がサラリーマンであるという事実を客観視する必要があると思う。
いったいなぜいつもいつも野球・車・女の話題なのか?なぜ休日まで会社の人間どうしで出かけるのか?これらは問うに値する問題である。なぜなら、サラリーマンがこれほど均質的な集団なのは客観的に見て「異常」だからである。
サラリーマンにとって、自分がサラリーマンであることは、いわば「文脈」である。文脈とはふだん意識されることのない前提条件のようなものだ。「文脈」にあっさり乗ってしまうことはたやすいし、その方が同じ「文脈」に乗っている人に評価されやすい面がある。
しかし「文脈」を無批判に受け入れることから新しいものは何も生まれない。ひょっとするとまったく別の「文脈」があるのではないか?そう自分自身に問いかけることが時代の要請である。
冒頭で紹介した日経新聞の記事は、若者が自分の経験に頼り過ぎるのを危険視するが、別の見方をすれば、企業戦士として自己喪失している父親を見てきた若者たちが「別の文脈」を模索している姿だと言えないか。
いかがわしい新興宗教や自己啓発セミナーのブームも、功利的になり過ぎた日本社会の「文脈」へのアンチテーゼであり、さまざまな選択肢を手探りしている過渡期の現象だと言えないか。
もちろん新興宗教が理想的な「文脈」とは思えないが、相変わらず野球・自動車・女をめぐって、際限ないおしゃべりを続けるサラリーマンに比べれば、まだ前向きである。
最悪なのは「自己を客観化できない若者」ではなく、客観化/非客観化の問題にさえふれることなく、相変わらず自分の「文脈」にどっぷりとつかっている人々の方なのである。そういう人々は「別の文脈」という選択肢を求めて、前提そのものを疑ってみるべきだろう。
仕事さえデキればよい、という時代はもう終っている。