homeup mail to
sub title

「妥協」の陰画
( 20030223 )

Japanese/English

先日「異文化コミュニケーション」という題名の研修に参加したのだが、そこで、交渉(negotiation)における米国人と日本人の態度の違いが話題になった。

米国人は交渉における妥協(compromise)を積極的に評価する。米国人は各人の意見は異なるという前提を持っているので、自分の意見がそのまま通るとは始めから考えていない。したがって妥協の結果、自分の意見が反映されることは良いことである。

しかし日本人は一般的に妥協を望ましくないことだと考える。実際に研修の参加者はすべて日本人だったが、程度の差こそあれ全員が妥協は悪いことだと答えた。

米国人の講師は日本での生活が長く、日本語も堪能だったが、参加者の反応を不思議がった。日本人は一般的に「和」を尊ぶのだから、妥協によって一致点を見いだせたことを良いと考えるはずではないか、というのだ。

「なぜ妥協を悪いことだと考えるのか」と聞かれて、参加者はおしなべて「自分の希望を部分的にあきらめなければならないのが不快だから」と答えた。日本人も自己主張を持っており、妥協は自己主張の抑制を強いるという意味になる。

しかし自己主張が強いのはむしろ米国人の典型的な性質と考えられており、日本人が妥協を否定的に評価するのは、自己主張を曲げざるを得ないからだというのでは、講師の米国人は納得しない。僕も納得できなかった。

米国人講師の言うように「日本人が和を尊ぶ」という命題を前提として立てるなら、妥協によって和が成立するのは望ましいはずだ。にもかかわらず僕ら日本人は「妥協」という言葉をほとんどの場合、否定的な意味で使う。

そこで僕はその場で、日本人は「妥協」を強いられるような状況そのものを嫌っているのではないかと発言したところ、米国人の講師は非常に納得したようだった。

「妥協」が必要になる状況というのは、言うまでもなく意見が対立している状況である。日本人はそもそも意見が対立するような状況が起こったことを否定的に評価するのである。そのため、その帰結である妥協についても否定的に評価する。意見の対立がなければ妥協も起こらなかったはずだからだ。

研修の他の参加者は「なぜ日本人は妥協を否定的に評価するのか」と問われて、妥協という事態の内部に答えを見いだそうとした。妥協とはつまり、自分の意見を部分的に取り下げることだから、これが否定的な評価の理由だと結論づけたわけだ。

しかし妥協が自分の意見を部分的に取り下げることを意味するのは、日本人にも米国人にも共通である。したがって「日本人が和を尊ぶという前提と、日本人が妥協を否定的に評価するという事実は、矛盾している」ということの説明にならない。「妥協」の内部にこの矛盾の説明見いだせない。

そこで僕は「妥協」の外部に「日本人が和を尊ぶ」という前提と矛盾する事態があるはずだと考えた。そこで見つけたのが、妥協を引き起こす状況である。妥協が必要になるのは意見の対立があるからである。「日本人が和を尊ぶ」とすれば、たしかに意見の対立は日本人にとって好ましくない。したがってその帰結である妥協も好ましくないということになる。

逆に、米国人が妥協を積極的に評価するのは、意見の対立を当然のことだと考えるためである。意見の対立という状況について中立だからこそ、妥協によって一致点が見いだされることを積極的に評価する。

そろそろ読者は、僕がこのエッセーで何を言いたいのか分かってきたころだろうと思う。

僕は「妥協」についての米国人と日本人の態度の違いを書きたいわけではない。この研修に参加した日本人が最後まで僕の意見を理解できなかったのに、どうして米国人が即座に僕の意見を理解できたのかを問題にしたいのだ。

この話にはまだ続きがある。僕が自分の意見を述べ終わった後も、日本人どうしの議論はまだ続いた。そしてその議論の内容は結局、「妥協は自分を曲げなきゃいけないから嫌なのだ」という域を出ることはなかった。日本人はとうとう僕の意見を理解できなかったのだ。

仮に僕の意見を理解していれば、「妥協」という言葉の意味そのものに「日本人は和を尊ぶ」という前提との矛盾をさがす方法そのものが成立しないので、「妥協」の外部へと議論が展開するはずだからだ。

ちかごろ巷の書店では「ロジカル・シンキング」といった書物が会社員に大人気のようだ。このWebサイト「think or die」は7年も前からすでに、サラリーマンにとって論理的思考が死活問題であると主張しつづけているが、ようやく世の中も目を覚ましつつあるのだろうか。

なぁんてのは冗談だが、今はやりのロジカル・シンキングなるものは、本当に論理的思考に触れているのだろうか。そこで言われているのは、思考を整理するためのさまざまな道具だけなのではないか。

そうだとすればブームになる理由はわかる。品質管理活動に慣れ親しんだ日本人会社員にとって、考えをまとめるための道具というのは極めてなじみ深いものに違いない。

しかしいくら道具をたくさん仕入れても、論理的思考を身につけたことにはまったくならない。いくら精巧なハンマーを手にしても、くぎを打つのが上手くなるわけではないのと同じだ。

たとえば最近僕が知ったロジカル・シンキングの道具の一つに「MECE(ミーシー)」というものがある。Mutually Exclusive, Collectively Exhaustiveの略で、ある問題を考えるときにダブリなく、かつ、モレなく、すべての場合を考えるようにしましょうという心得のようなものだ。

こんなものソフトウェア・エンジニアリングの世界ではイロハのイで、条件分岐を書くときにすべての場合をダブリなく、モレなく処理するようにしましょうというのは、問題解決の際にはごく当たり前の行動規範である。

しかし、このMECEで本当に重要なのは、心得を行動規範として守るか守らないかということではない。問題の内部に相互に排他的な命題を見つけだすこと、あるいは、網羅性を検証する基準を見つけだすことなのだ。

いくら自分でMECEだMECEだと言っていても、その人が問題から取り出した複数の命題が相互に排他的でなかったり、網羅的でなかったりすれば、MECEという方法論自体が無意味になる。MECEという道具が有効であるためには、まず切り出された命題が相互排他的、網羅的である必要がある。

MECEという道具は、相互排他性と網羅性が重要だということは教えてくれるが、では任意の問題から相互排他的な命題を網羅的に取り出すにはどうすればよいか、ということについては何も教えてくれない。

命題が相互に排他的であるかどうかは、形式論理学の手続きに従って検証するより他ないのだが、日本人の場合この形式論理学をすっとばして道具立てばかり勉強するので、論理的思考といいながら道具の名前を覚えることに終始している。そうして論理的思考を身につけたと勘違いし、満足してしまっている。

もちろん形式論理学も一つの道具にすぎないが、この点こそ日本人の弱点である。逆、裏、対偶、そして意味論的に階層をなす諸命題など、形式論理学の基本的な思考の枠組みこそ、MECEのような派生的な方法論の基礎なのである。形式論理学は無味乾燥だが、この基礎部分の思考訓練ができないまま道具立てばかり豪華にしても、論理的思考を身につけたことにはならない。

西洋人と議論をすると、あまりに論理的に割り切りすぎて心情的に不愉快になることがあっても、案外後味が悪くないのに対し、日本人と議論をすると泥仕合になるのは、おそらくこの形式論理学の基礎があるかどうかにかかわっているのだろう。

昨今のロジカル・シンキング流行の落とし穴は、学んだ気にさせる道具立ての豪華さにありそうだ。


無断転載禁止

サラリーマンを考える 日本的なるものを考える 日常生活を考える
「おじさん」を考える 映像/音楽/書物 情報システムを考える
愛と苦悩の日記 筆者のYouTubeチャンネル

homeup mail to