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「微温的」であることの奇跡
( 20020915 )

Japanese/English

前回のエッセーで僕のごく個人的な考え方として、社内のユーザ部門の方が利用者部門との決定的な対立も辞さずに理想的な情報システムを追求することができる、と書いた。同時に他方では、利用者部門の理解を得るための啓蒙活動を地道におこなうことができるという利点もある。

使う側と作る側が対立するばかりでは、理想的なシステムの追求などできない。利用者部門との信頼関係があってこそその追求は可能になる。ある意味で利用者部門がシステムのあるべき姿に理解を示さないのは、協力を得るための啓蒙活動を怠っている作る側の責任だと言える。

たとえば社内の情報システム部門に在籍する情報技術者が、利用者部門の意識の低さにいらだちをつのらせ、まるでシステム構築がはかどらないのは利用者部門の責任だとでも言いたげに不毛な対立を続けるとすれば、その技術者は自分の責任の半分しか果たしていないと言えるだろう。

利用者部門の意識を引き上げるのもまた、情報システム部門の責任の一部であり、社内にいる情報技術者だからこそできる仕事といえるのではないか。

社外のベンダーの立場では、利用者企業の社内で啓蒙活動もふくめて情報システムについてどのような施策が行なうべきか、正式なコンサルティングの依頼なしに口を出すことは難しい。しかし社員の立場であれば利用者教育や人事制度もふくめて、経営戦略と情報システムの統合化された施策を立案・実行することができる。それが社内情報システム部門の存在意義だ。

そういうわけで僕は情報システムを商売としているベンダー企業から、ふたたび情報システムを使う立場のユーザ企業に転職した。もちろん配属先は社内の情報システム部門である。また、それまで経験した2社がいずれも製造業であるのに対して、はじめて非製造業の企業で働くことになった。

この3番目の会社については語るべきことが多くあるので項を改めることとして、ここでは1社めと2社めの企業文化の違いについて書いてみたい。

僕の情報技術者の立場としては、1社めでは社内の情報システム部門、2社目では社外向けにシステムを売る部門と、正反対だったのだが、両社はいずれも全社の売上高に占める割合に大きな差があるとはいえコンピュータの製造や情報システムによる問題解決を事業として営む企業だった。したがって同業種の企業ということになるのだが、それだけに両社の企業文化の差異は僕にとって際だっていた。

便宜上、1社めをA社、2社めをB社と呼ぶことにするが、その差異をひとことで表現すれば「組織のA社と個性のB社」ということになるだろう。A社について「組織の」という形容詞は実は紋切り型になっているのだが、簡潔にして要を得ている。

もう少しパラフレーズすれば、目立つ社員とそうでない社員のばらつきの程度が違うということになる。A社の社員を眺めわたして日常的に感心させられたことは、採用時の人物評価による選別が非常に成功しているなぁ、ということだ。

A社には突出した個性をもつ社員が非常に少ない。一見、突出した個性の社員がいるように見えても、それはその人の個性ではなく、社内での地位がそうさせている場合がほとんどである。もちろん僕自身、突出した個性を持たない人物であり、その選別を通過したということなのだが。

一方、B社は目立つ社員とそうでない社員のばらつきが激しい。確率的に目立つ社員の人数がA社よりも多いということになる。A社は社長もふくめてスターのいない均質的な組織、B社はスターが点在するばらつきの大きい組織だが、全社員の平均をとったときにどちらが高い平均点になるかは微妙なところだ。

アングロサクソン型のグローバリゼーションを何の根拠もなく崇拝する最近の風潮からすれば、A社は日本的組織だからダメ、B社の方がアングロサクソン型の組織に近いから良い、という判断に一見なりそうだが、B社の社員のばらつきはかならずしもアングロサクソン型の自己主張によるものではない。

むしろ織田信長がたくさんいる、という風に理解すべきではないかと思う。このページの読者ならすでにご承知のように、僕は戦国武将や三国志をもののたとえにすることが大嫌いだ。しかしここではあえて織田信長という形容を使いたい。それはB社が組織のアングロサクソン化に失敗していることを強調したいためである。

そもそも日本国内で教育を受けてきた人材が、企業人になって突然合理的な思弁にもとづくアングロサクソン型の自己主張をできるようになるはずがない。日本人の自己主張はつねに自分の背景にある組織の利益にもとづく純粋に政治的なものである。

したがってB社にいる自己主張の強い社員は、一見同社の組織がアングロサクソン型であることを体現しているようだが、実は伝統的な組織間の利害対立の先頭に立っているだけというケースが多い。つまりB社内に自己主張の強い社員が多いということは、部門間の利害対立がつねに強いということの裏返しにすぎない。

また、目立つ社員のばらつきが大きいということは、採用する人材の潜在能力にばらつきが大きいということを意味する。突出した個性の少ないA社はその逆に、一定の潜在能力をもつ社員を確保しつづけることができているということだ。

A社のような比較的均質な組織は「日本的である」として最近無根拠に評判が悪いが、経営者から見たときB社のような組織よりもはるかに統制をとりやすいことは間違いない。もちろん環境変化に対応するには、経営者の強力なリーダシップがなければ惰性で同じ方向に進み続けてしまうという弊害もあるが。

A社のような組織に属する社員が、自分の会社のことを自虐的に「微温的だ」と表現するのは、表現としては正確だが自己矛盾であることを知っておく必要がある。それなりの能力をもった人間が集まっているからこそ、組織ははじめて「微温的」でありうるのだ。

たとえば知名度に欠けるベンチャー企業で、とにかく規模の拡大に合わせて人手が集まればよいという方針で社員を次々に採用する場合、入口のところで十分な選別ができないために社員の能力のばらつきが大きくなり、統制を欠いた不安定な組織になってしまう。そういう組織は決して「微温的」ではないが、はたして良い組織と言えるだろうか。

B社は中途採用者を大量に迎えながら、経営者が中途採用者をも納得させるだけのカリスマ性をもっているわけでもない。結果としてA社のような「日本的」組織に比べて人材の出入りが激しくなり、決して「微温的」とは言えない組織ができあがる。ただし新陳代謝の激しさは必ずしも良い効果ばかりを産み出さない。

A社のような組織に働く人々はむしろ、社員の能力のばらつきが一定の範囲内におさまっていることの「奇跡」に驚くべきなのだ。それは個々の社員の士気も一定水準に保たれていることを示している。

ばらつきの小ささは経営者にとって統制のとりやすい組織であることの指標であり、ばらつきが大きくなること、つまりスター社員が誕生することが必ずしも企業としての業績向上につながらないことを知るべきである。

A社のようではない組織も経験した僕としては、確信をもってそう言うことができる。企業が「微温的」でありうるためには、どれだけ多くの前提条件が必要だろうか。その前提条件を積み重ねることさえできない企業は「微温的」でありうる企業をうらやましく思うはずである。


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