この4月から、日本経済新聞1面で「新しい会社」という新しい連載が始まった。その4月16日分で、変わろうとしている会社と、変わらない会社を対比させたおもしろい記事がある。変わろうとしているのは日立、変わらない会社の代表は三菱。財閥系企業にも批判の刃を鈍らせない日経新聞だからこそ、一流の経済新聞たりえている。まだお読みでない方はぜひご一読いただきたい。
このページでも、なぜ日本の会社は変われないのかという問題について、個人的な経験や書物の紹介なども含めて何度か取り上げているが、今回はアメリカのあるコンサルティング会社のサイトで見つけた興味深い記事をご紹介する。
その記事は「会社を滅ぼす3つの盲従」という非常に攻撃的な題名がついている。直訳では「盲目」となるが、意味をとって盲従とする。その3つとは、「会社への盲従」「文化への盲従」「上司への盲従」である。
まず「会社への盲従」。日本語の語彙では「盲目的な愛社精神」とでも言い換えられると思う。筆者はこの盲目的な愛社精神について、「市場の利益よりもグループ企業の利益を優先する閉鎖的なビジネスの方法」と定義している。これも日本的に言いかえると「公正な競争より系列の利益に固執する商習慣」となるだろう。
ただ僕は系列やグループ企業という大きな枠組み以前に、日本企業の盲目的な愛社精神が問題にされるべきだと思う。自分の所属する会社に対するある程度の愛着は必要だろうが、それは飽くまで個人的な感情にとどめるべきであって、業務に反映させてはならない。
社員による自社製品の組織的な購入で、自社の業績が改善するなどという迷信はいい加減に捨ててもよさそうなものだが、日本の会社には、会社の金でやたらと自社製品を買いそろえる体質が残っている。社内で資金を還流させるだけの自社製品買いは、利益を食いつぶすだけであることは僕にでもわかる算数だ。1円でも安い他社製品を購入する方が、合理的な行動である。
グループ企業との不公正なビジネスについてさえ批判的な、この米国のコンサルタントは、自社の業績を少しでも改善しようと、自社製品を自社の金で買い集めるこのような慣行を見て、なんと言うだろうか?おそらくイスラム原理主義者の集団と大差を認めないのではないかと思う。なぜなら「会社への盲従」に、合理的な判断ははたらいていないからだ。
つぎに「文化への盲従」。これは「社風への盲従」ということになるだろう。「うちの会社は居心地がよい」「働きやすい」「社員にやさしい」といったことを自慢のタネにするサラリーマンがいるが、これはよく考えれば自慢でも何でもない。むしろ、その会社の欠点でさえあるのではないか。
長年その会社に勤務している社員が「居心地がよい」と感じるということは、その会社がここ数十年の間、まったく変化していないことを意味している。逆に、冒頭の日経新聞で紹介されている日立製作所のように、時代の変化に対応すべく変革をとげつつある会社は、居心地がいいはずがないだろう。
居心地がいいということは、かならずしもいいことではないのだ。このコンサルタントは、「ほとんどの社員が、ある特定のカルチャーに同一化してしまっている状態は、企業にとって死後硬直のようなものだ」と書いている。カルチャーとは「社風」のことだ。つまり、社員のほとんどが同じような思考様式・行動様式に落ち着いてしまっている企業は、それだけで変化に対する柔軟性を失っているというのだ。
少し思い出してみて欲しい。昨年末自主廃業に追い込まれた証券会社の事後取材で、社員の多くは会社への愛着とあわせて、悪い会社ではなかった、経営陣の一部の責任だと語っていた。しかし、時代の変化の波はかならず企業の入り江を洗う。彼らがそれを感じなかったのは、異常なほど均質化されてしまった社風で耳をふさがれていたからではないか?
居心地のよいオフィスで、まったりと流れていく時間。それは嵐の前の静けさでなくてなんだろう。
最後に「上司への盲従」。これは「ボスの指示がなければ何もできない社員しか存在しなくなること。あるいは、ボスの指示は無条件に正しいという前提のあるカルチャー」であると定義されている。
定義の前半は社員の無能力であるから、個人的な努力か、採用のレベルでどうにかするしかない。それに対して、後半の「ボスの指示は無条件に正しいという前提のある社風」は、これも企業の制度疲労に言及したものである。このコンサルタントはこのように、部下の反論の余地を許さない社風を、「小さな共産主義」とさえ呼んでいる。
確かに「小さな共産主義」のような社風は致命的である。たとえ社内に改革の芽があったとしても、それを「事前に」つみとってしまう圧力として働くからだ。部下は無条件に上司の指示にしたがい、明らかに非合理な決定についても異議をさしはさめない。
このような体制を固めるための最短距離は、「情報操作」であると彼は言っている。つまり、重要な経営課題を管理職が独占し、部下に漏らさない、まさに戦時中の日本のような全体主義的な情報操作・プロパガンダによって、問題の存在そのものを隠蔽する。
仮にあの証券会社の社員がもっと早く深刻な問題を知らされていれば、全社的な対策によって自主廃業を免れたかもしれない。実際にそうならなかったのは、重要事項は管理職の独占事項だというカルチャーが、根深く巣食っていたからだろう。このコンサルタントは言っている。「上司が部下よりすぐれているのは、もっている情報の量が多いからではなく、その情報をもとにしたより良い判断によってである」。
日本の会社の管理職は、このことを理解しているだろうか?彼らにとって、重要な情報を独占すること自体が「既得権益」であり、それを部下に流すことは自分の地位を危うくする行為である。なぜ部下に情報を流したがらないのか?それは、自分の判断能力に自身がないことの裏返しである。
そうして簿外債務を隠しつづけた会社はあのような終末を迎えた。あの会社ほどの規模なら、簿外債務の問題を自主廃業に追い込まれるまでに解決するためのアイデアを持っている社員が「一人も存在しない」なんてことがあるだろうか?結局、経営陣は彼らにとっての「上司」、つまり、大蔵省に「盲従」してしまい、部下たちを省みることはなかった。コンサルタントは書いている。「ナチズムやスターリニズムが、今、生き延びているだろうか?」答えは、否、である。
やや過激ではあるが、このコンサルタントの企業風土に関する分析は、要を得ていると言わざるを得ない。最後に彼は、こうした「3つの盲従」を解消するのはひじょうに簡単であるとして、その対策を述べている。その対策とは「真の民主主義」である。さらにこれを言い換えて、「みんなで情報を共有し、なにより合理的に考えることだ」書いている。
彼は「こうしたごく当たり前のことができない会社」こそが、危険な会社であると結んでいる。そうなのだ、ごくごく当たり前のことが、なぜできなくなってしまったのか?その点を、「3つの盲従」を手がかりに考え直す必要があるだろう。
ちなみに、このコンサルタントの「会社を滅ぼす3つの盲従」には、さらにペシミスティックな副題がつけられている。'Fools lead each other by the nose'。16世紀ネーデルランドの風刺画家ブリューゲルの絵画に着想を得た副題である。意味については、お手元の英和辞典のnoseの項で調べていただきたい。
自分の会社が、'Fools lead each other by the nose'のような状態になっていないか、ふり返ってみたい。手を打つのに遅すぎるということはないはずだから。