声優は永遠のマイナータレントである。決してメジャーになることがないからこそ、声優ファンは安心してお気に入りの声優を応援することができる。「めぐ姉(林原めぐみ)」「マリ姉(国府田マリ子)」「まみ姉(小森まなみ)(注1)」「兄貴(緒方恵美)(注2)」など、お気に入りの声優を自分の近親者のように呼ぶのも、声優さんはいつまでも自分の手の届く存在だという安心感の表現である。
(注1)小森まなみは厳密には声優ではなく自称「トークジョッキー」でラジオを主な活躍の場にしている。
(注2)緒方恵美は女性であるが、新世紀エヴァンゲリオンの碇シンジなど少年が当たり役のため。
重要なのは「いつまでも」マイナーであって欲しいという、声優ファンの根源的な願望である。声優たちは、ビッグになりたいという野心と、永遠のマイナーでなければファンに見放されるというダブルバインドに、つねに置かれている。ただ、結果としてアフレコや映画の吹き替え、舞台など、マスメディアに「顔出し」する機会の少ない声優たちは、永遠のマイナーとして根強いファンの期待にこたえることになっているようだ(それが良いことか悪いことかは別にして)。
先日、別項で紹介した緒方恵美の『銀河に吠えろ』というラジオ番組を聞いていたところ、次のようなリスナーからのハガキが紹介されていた。僕は声優になりたいと思っているが、最近、声優さんのなかには、映画に出たり、歌手として売れたりしている人がいる。声優は声優の仕事に徹するべきだと思う、という内容だ。
映画に出る声優とは、おそらく98年3月公開予定の『LOOKING FOR』に主演する国府田マリ子のことであり、歌手として売れているというのは、林原めぐみの『Reflection』がオリコン10位以内にランクインされたことを指しているのだろう。
緒方恵美は彼女らしく、声優の世界は実力主義なのだから、活躍のチャンスを広げるのは当然だ。それはあなたの単なる嫉妬ではないのか?とリスナーに熱く語りかけていたが、これは一種のご愛敬として、僕は、ハガキのリスナーの真意はそうではないと思った。
このリスナーは、単にお気に入りの声優さんが「永遠のマイナー」であってほしいと望んでいるだけなのだ。自分も声優になるのだから、先輩の声優に売れてもらうのは困るという嫉妬とは全く違う。おそらくこのリスナーは、声優さんどうしが家族のように仲良く暮らしている世界を思い描いている(実際のところは緒方恵美の言うように、純然たる競争社会なのだろうが)。
自分が声優になりたいと思っている声優ファンでさえ、声優たちの生活している世界をひとつのマイナーなユートピアとして美化している。逆に言えば、声優の世界がマイナーなユートピアであるからこそ、声優ファンは声優ファンなのだ。緒方恵美はもうちょっとその辺りの声優ファンの「心の機微」に寛容であってもいいと思うが...。
いずれにせよ、声優ファンにとって、声優は「永遠のマイナー」である限りにおいて声優である。たとえ声優雑誌の売れ行きがよく、いわゆる「アニラジ」(アニメ関係のラジオ番組のこと)の聴取率が上昇し続けても、声優は「永遠のマイナー」であり、そうでなければならない運命なのだ。
たとえば、谷山浩子という歌手がいる。彼女特有の叙情性はひとつのミクロコスモスとして完結しており、根強いファンを擁しながらもマイナーであり続けてきた。TVへの露出といえば胃腸薬のCMソングくらいで、決して本人が登場することもない。そのような谷山浩子のファンであるということは、特殊な選択である。
その谷山浩子の熱烈なファンだった少女が、チャンスに恵まれて声優になり、憧れの谷山浩子にアルバムをプロデュースしてもらう。岩男潤子のケースは、まさに声優の王道とでも言うべきものだ。女性声優にとって、谷山浩子のように(多少グロテスクではあっても)「永遠の少女」であることは、永遠のマイナーであることのひとつの翻訳なのだ。
内気で人見知りのはげしい少女時代という神話も、女性の声優にありがちな要素だ。小学生の頃、男子の人気の的だった活発で勝ち気でよく目立つ女の子の陰に、近眼で眼鏡をかけた薄幸そうな少女がいる。成績はほどほどに良くて、家庭はほどほどに裕福である。
彼女が彼女である理由は「ストイック」であることだ。人気があって目立つ他の少女たちは、プラトニックな季節をほどなく通り過ぎてしまうに違いない。しかし、彼女は自分の部屋でひとり好きな人を思いながら、いつまでもアップライトのピアノを弾いている。
小宇宙に自足するストイックな心が、声優的なもののひとつの典型である。膨張する宇宙ではなく、内部に収縮していく宇宙が、声優的なものを支配する磁場である。
駅前の小さなレコード屋で小森まなみの『Tiny Angel』という新譜が1枚だけ残っているのを見つけた。小森まなみ自身が、真っ白なボブのかつらをかぶって「Tiny Angel」のコスプレをしている、露出オーバーで紗のかかったジャケット写真は、正直言ってかなりエキセントリックだ。
ところが、ちょっと目を離したスキにその1枚がなくなっている。中学生とおぼしき大柄な少年が隠すように抱えながらレジに向かっていた。その少年のポケットからはポケベルの銀色のクリップが顔をのぞかせている。
小森まなみは、声優ではないながらも、声優的な「永遠のマイナー」性をみごとに体現している。つまり、デビュー以来10年以上たちながら、メジャーになることもないし、かといって完全に消えてしまうこともない。別項でも触れたように東海地区では、毎週金曜日から日曜日まで3日間連続で彼女の声をAMラジオから聞くことができる。
おそらくあの少年も、彼女の最近のヒット曲(と言っても林原めぐみの「Reflection」のようなヒットには決してならないだろうヒット曲)「Love for You」に励まされながら生活してゆく。
一般に声優たちの声は、ファンを励まし、ファンの心を癒し、元気付け、声優たち自身も自分がファンにとってそういう役割を果たしていることに自覚的であるが、いったい声優ファンはそれほどまでに傷ついているのか?疲れているのか?
たぶん声優ファンだけが特別に傷ついたり、疲れているわけではない。同じ世代の少年少女たちは同じように疲れているのだろうが、声優ファンたちは疲れている自分を表明するのに正直なのだ(正直すぎる面もあるが)。他の少年少女たちは、疲れている自分を表に出すのは見苦しいことだと考え、声優ファンを軽蔑する。
いわゆる声優ラジオが深夜の時間帯にかぎられ、しかもAMラジオが圧倒的に多いのは、FMがおしゃれな洋楽・邦楽文化を代表しているのに対して、深夜AMが「永遠のマイナー」たるサブカルチャーの担い手にふさわしいからだろう。
社会人になっても深夜AMの声優たちのやさしい声になぐさめを求めるストイックな若者に、ただあきれてものも言えなくなる。それでいいのだろうか。僕らはなぜこれほどまでに疲れているのか?何が僕らをこれほどまでに疲れさせたのか?