卒業証明書と成績証明書の交付申請をするために、有休をとって久しぶりに大学を訪れた。キャンパスには新入生を勧誘するサークルや体育会、民青、名前を知っている劇団などの立看板が立ちならび、昔とちっとも変わらない。キャンパスに入る前に駅の反対側にある郵便局で切手を買ったが、この小さな郵便局も昔のまま。まるでタイムスリップしたような錯覚に襲われた。
しかしこちらは確実に年を食っている。教務課の長い行列に一人だけなじんだスーツ姿で並んでいると疎外感がある。列のほとんどがおそらく追試験か履修手続きの学生なのだから。
教務課で交付申請を提出した後、用事があって研究室にも顔を出した。こう書くといかにも気軽に立ち寄ったようだが、一度は駅まで帰りかけたのを勇気をふりしぼってきびすを返したのだ。研究室を訪れるときはいつもまっすぐ足を向けることが出来ない。なぜか知らないが強い劣等感と引け目を抱いてしまって二の足を踏んでしまう。
今回はちゃんと用事があって訪れるのだが、自分で自分に対して「何しに帰ってきた!」と責める気持ちを拭いきれないのだ。研究室のある建物の一階で遠目に同じ研究室の旧友だとわかる人物を見かけたが、声をかけることもできず、そのまま階段を上った。
研究室に入るといつの間に調度類がこぎれいになっている。床はフローリング模様のリノリュームが張ってあり、ソファの淡い紺色との色の対比が美しい。入って正面にはオレンジのiMacがあり、赤みがかったフローリングに映えている。
助手さんも以前訪れたときと変わっている。知っている人で、あちらも僕の名前を覚えていてくれたので少し気分は楽になった。ちょうど講義中の時間帯で研究室には見知らぬフランス人教師と助手さんだけだった。僕は用件だけ手早く告げて、ウーロン茶を一杯頂いただけでそそくさと立ち去った。
「何しに来たんだ」。じっさいに用事があって来たのだが、自分自身に対する問いかけが研究室に落ち着くことを許さない。別に誰に追い出されるわけでもないのに、自分で自分を追い出さざるをえない気分になる。
助手さんの話によると、同学年でオーケストラのフルート奏者だったあいつは、スイス留学から帰って東京の私立大学でフランス語を教えているという。相変わらずE・レヴィナスの研究を続けているとのこと。他の旧友はほとんどフランスに留学中で、うち数人がたまたま一時帰国しているらしい。さきほど階下で見かけた彼もその一人だ。
彼らは大学時代から少しずつ「なりたい自分になっていくプロセス」を体験している。一方の僕は「なりたい自分になれなかった」という後悔から、一体どれほど前進することができているだろう。その後、何か「なりたい自分」を発見できただろうか。いまだに「私は誰か?」「私は何のために生きているのか?」なんてことを考え続けているのだから、発見できているとは言い難い。
そうでなくても大学のキャンパスを歩いているだけでも、辛いことばかり思い出される。ちょっと書類に記入するため学食に入ってテーブルを借りたが、学生時代、同じテーブルに座っていた僕と、今の僕と、どちらがより孤独だろうか。
学生時代、その「孤独」に文字どおり死ぬほど苦しんでいた自分を、今の自分は懐かしく振り返ることができるだけの余裕を一見すると持っているように見えるが、それは本当だろうか?そう自問すると同じテーブルに座ったまま途方に暮れてしまいかねない。その「孤独」を忘れるために、日々あくせくと忙しく働いている(ふりをしている)のではないか。
キャンパスを後にして駅にたどりつくと、ホームで先ほどの一時帰国中の彼を見つけた。髪型から服装までまるで昔のまま。思い切って話しかけることができたのは、サラリーマンになって身につけたある種の大胆さのお陰だろう。
彼が学生時代から研究している哲学者の全集が大手出版社から公刊予定で、彼はそのうちの一巻を翻訳したのだと言う。しかしそれはあまり面白い仕事ではなかったようだ。むしろ来月に出版されるイタリア人の哲学者の翻訳をぜひ読んで欲しいと僕に勧めてくれた。その抄訳が今月末の『現代思想』誌に掲載されるらしい。
そして一時帰国の目的が、出版社と今後の仕事について打ち合わせて「種をまいて帰ることだ」とも話していた。今日もこれから出版社で打ち合わせなのだという。渋谷へ着くまでわずかの間、「なりたい自分になっていくプロセス」を体験している人の目の輝きと語気に圧倒された。
社会人になってから、勤務時間中にふっと考えることがある。「こんなところで何をやってるんだろう」。今の職場ではここ半年くらい特にそうだった。おそらくこの感覚は死ぬまで解消されることはないだろう。そもそも「これこそ僕の居場所だ」なんて感じたことなど、今までに一度もないのだから、「なりたい自分」を決める基準(criteria)になるものがまったく手元にないのだ。
じゃあ仕事のことは置いて、私生活でテコの支点になるようなものを見つければいいじゃないか、という風に質問をふらざるを得なくなるが、それとて何であるかはっきりしない。つねに違和感を抱きつつ、ではその違和感の向こうに何があるのかもはっきり見えない。
久しぶりに訪れた大学は、まったく余計なことばかり考えさせてくれる。