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ふたりっ子の宿命

双生児かく語りき

1998/10/16

学生時代はたまに観ていたNHKの朝の連ドラ。就職してからまったく観なくなったが、一昨年の『ふたりっ子』に登場した三倉茉奈(まな)ちゃん、佳奈ちゃんには、ふつうの人とは違った関心を抱いてしまう。

別にロリコンじゃないよ。まなちゃん・かなちゃんと僕には、「大阪生まれの二卵性双生児」という共通点があるのだ。

しかも血液型まで同じO型。ふたりともかなりマイペースだがしっかりしていて、いかにも仲が良さそうな双子。まるで小さい頃の自分自身を見ているような気分になる。

そういうわけで今回のエッセーは、読者からリクエストのあった「双子」をテーマにしてみたい。

双子として育った人間は、年の離れたふつうの兄弟とは違った自己形成を経験するのか?残念ながら両方を経験したことがないので正確なところはわからないが、おそらく大きく異なると思う(以下、議論を同性の兄弟に限定する)。

先日NHKの『クローズアップ現代』で、上の子の子育てに悩む母親という特集があった。上の子は下の子が産まれると母親が離れるのをおそれて赤ちゃんがえりする。それを疎ましく感じる母親は上の子に苛立ちをつのらせ、辛く当たってしまうというのだ。

こういうときこそ父親が上の子の相手でもしてやればいいのに、とテレビを観ながら思ったが、双子にはこういう心配はないと思われるかもしれない。

実際には双子であっても一方を兄(姉)、他方を弟(妹)とみなして育てることが多いのではないか。少なくとも僕はそうだった。幸いなことに双子の兄弟関係に物理的な時間差はなく、概念上の区別しかないので、上記のような「上の子・下の子」の問題は先鋭化しない。

ただ、僕は「兄」として責任感を持つように育てられたせいで、より保守的な生き方になり、「弟」はより自由に生きていることは否めない。

たとえ物理的な時間差はなくても、育て方によって双子に概念上の上下関係を作ることは可能なのだ。完全に平等に育てるのと、あえて上下関係をつけるのとどちらがいいのか。それは誰にも分からないだろう。

また、双子は本人の望むと望まないとにかかわらず衆目を集める。僕の場合、幼稚園から大学まで二人で同じ学校に通っていたので、つねにイヤでも目立っていた。そのせいで、イヤでも自意識過剰気味になる。

イヤでも注目されるから、イヤでも努力するというのは、双子ならではのプラスの効果だが、いつも注目されているという自意識過剰はマイナスの効果である。

イヤでも目立つ生活を長い間送っていると、自分から目立たなければという危機感がなくなり、いざ一人になったときにうまく自己主張ができなくなる。

しかも年の違う兄弟の間のコミュニケーションには、生活環境が違うことから来るすれ違いや対立の要素が入り込みやすいが、双子で、しかも通っている学校まで同じとなると、多くを語らずともツーカーになってしまう。

そうすると、他人とのコミュニケーションにおいて、どうしても言葉が足りなくなりがちになる。言わなくても分かるだろうと思って、実は分かっていなかったという意思疎通の「失敗」を経験する。

さらに、年を経て社会に出ると、双子といっても違う職業につくし、違う土地に生活する。生活環境や社会的地位、経済的レベルに違いがでてくる。

こうなると双子であるという事実が悲劇になる可能性もある。一方は社会的に成功を収め、他方はみじめな生活を送るかもしれない。他人がそれを気にしなくても、当人は歴然たる差異に屈折した思いを抱えるだろう。

双子には「すべてが同じ」という幻想がつきまとう。僕もよく言われたものだ。「弟さんとよく似てるの?考えてることもいっしょ?」

その幻想が現実であるうちは双子は幸福な一対をなしている。まなちゃん・かなちゃんもまだ中学生で、二人でいっしょに芸能活動をしているからまったく問題ない。

でも、たとえば20年後。昔なつかしい芸能人をふりかえるテレビ番組で、一人は中堅女優として華々しく活躍し、もう一人が場末のバーでホステスをやっていたとしたら、人生の残酷さを誰にむかって嘆けばいいだろうか?

そして僕も双子の一人として、そういう危惧を抱かないでもない。人生を切り開くのは自分だけれども、双子であるというのはどうにもならない宿命なのだ。



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