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遠い銃声
( 19990327 )

Japanese/English

ご承知のように昨日(1999/03/26)から明日にかけての3日間、ランズマン監督の1994年のドキュメンタリー映画『ツァハール』(イスラエル国防軍)がNHK衛星で放送されている。5時間という大作だ。

現代思想3月号のデリダ特集で、高橋哲哉が鵜飼哲、増田一夫(僕の卒論の副査をして頂いた先生です。あの時はほとんど相談もせず一人で書き上げて済みませんでした(^^;)との鼎談の中で、今度この映画が衛星放送で放送されることになり、自分が紹介役を引き受けたと予告されていたので、昨日チャンネルを合わせて観はじめた。

同監督の『ショアー』が1995年に日本で上映されたとき見逃していることもあって今回はと思っていたのだが、淡々と続くインタビュー映像に正直言って集中することが出来なかった。そもそも自分の名前(マサダ)が、ユダヤ人が集団自決した要塞の名前だということと、ホロコーストの大まかな事実関係以外に何の予備知識もない上に、この『ツァハール』が一体どういう問題意識で撮られているのかも分からないのだから。

そういうわけで今日の放送では同作品の第二部の末尾と、番組最後の高橋先生の解説だけを見ることにした。サイードによればパレスチナ人は、迫害されつづけてきた犠牲者としてのユダヤ人が、自ら暴力を奪還することで生み出した「犠牲者の犠牲者」であるとのこと。パレスチナ問題のデリケートさはこの点にある。

犠牲者の犠牲者といえば、僕ら日本人もある意味で「犠牲者の犠牲者」を生み出す当事者となっている。第二次大戦で原爆の犠牲者となった日本人は、事前に、そして事後にも他のアジア人を犠牲にしつづけている。

たまたま今日の昼間、テレビ朝日系列の名古屋テレビ制作のドキュメンタリー番組が放送されていた。そのタイトルは『私が私であること』。在日の女子中学生を追ったものだ。名古屋にも戦前・戦中にかけて多くの韓国・朝鮮人が強制連行されて、ダム建設などの苛酷な労働に駆り出されたということで、現在でも大阪・東京・神戸についで在日の人口が多い都市ということだ。

名古屋駅前のシネマスコーレで映画を観たりすると、たまにチラシの中に混じっていたりするので知ってはいたが、名古屋にも伝統芸能である農楽のサークルがあって、在日だけでなく日本人との交流もあるということが番組で紹介されていた。ドキュメンタリーの主役の女子中学生の父親は、名古屋で在日の問題を考えるグループのリーダを務めているという。

その父親は日本人女性と結婚しているので、当の女子中学生はハーフなのだが、日本に帰化しているわけではなく、戸籍上は外国人である。したがって途中、父親とともに名古屋の外国人登録所へ出かけて、登録証への署名を拒否するシーンが出てくる。つい先日(3月9日)、外国人登録法改正案が閣議決定され、ようやく指紋押捺制度が全廃された。しかし指紋の代わりに署名で本人を確認することになったので、今度は署名拒否がアイデンティティーを求めた抵抗の一つの手段になる。改正後も登録証の携帯が義務付けられていることには変わりないからだ。

非常に印象的だったのは、学校の文化祭で韓国文化を取り上げた展示をしようという話し合いの席で、日ごろは在日の活動に積極的な彼女がそれに反対するという場面だ。どうして在日ということにそこまでこだわる必要があるの?そう冷静に反論を展開していた彼女が、ついに個人的な体験を語り始める。

学校でクラスの友達と喧嘩になったとき、友達が言ったひとことが彼女の心に突き刺さっていたのだ。「ほんとは日本人が嫌いなんでしょ。そんなに嫌いだったらどうして日本にいるのよ。どうして韓国に帰らないの」。単に私が私であることを自己肯定したいだけなのに、それが厭日ととられてしまうことへの怒り。僕ら日本人にとって自己肯定があまりに当たり前すぎて空気のようなものになってしまっていることの裏返しである。

在日二世・三世は「日帝」時代から生きている世代に比べて、自分の「血」に対する自意識はそれほど強くないという。この番組でも在日の年長の世代と中高生が議論するシーンがいくつかあったが、年長世代が在日としてのアイデンティティーを強く喚起しようとするのに対して、若い世代はあまりこだわりがない。ところがそういう若い世代にさえ、彼らがれっきとした「外国人」であることを意識させてしまうのは、日本人の一言なのである。日本人は自分たちが抑圧する側、犠牲者を生み出す側の立場であることにあまりにも鈍感だ。

今週の日本経済新聞には(他紙にもおそらく同じものが掲載されているのだろうが)「ニッポンをほめよう」という大きな広告が掲載されていた。初回は吉田茂、第二回は爆笑問題。この無神経さである。あたかもニッポンに住んでいるのが日本人だけであるかのような、ニッポンは日本人だけのものだ!と言いたげな、この無神経さ。

このドキュメンタリーの主役である女子中学生は名古屋韓国学校でハングルを学び始める。日本語は彼女にとって「他者の言語」なのである。日本語を「他者の言語」として生きている在日が存在し、日本の中にも韓国・朝鮮の文化やヒスパニック系の文化が存在している。そもそも日本語を何の疑問もなく話している僕らにとっても、日本語は100%自分で勝手に作り出したものではなく、誰かが作り上げたものを受け入れているに過ぎない。

ヨルダン川西岸の銃声は遠く聞こえるが、僕らにとって他者の声はより身近に聞こえている。


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