一口に交通事故と言っても、その事故にまきこまれた誰かが法律に違反している場合、それは「事故」ではない。立派な「犯罪」だ。ある調査によれば、交通事故の9割が飲酒運転や業務上過失などの法律違反を含んでいる。つまり、交通事故のほとんどは、交通「事故」ではなく、交通「犯罪」なのだ。
ところがこの日本という国は、交通犯罪に異常なほど寛容な国である。その事実を告発したのが、つい先日岩波新書で出た『交通死』という書物だ。
この本の著者は、最愛の19歳の娘を交通犯罪によって殺された経済学者である。書物の大半が、交通犯罪の賠償金算定基準の誤りを論証する精緻な議論にあてられているが、著者自身もまえがきではっきり書いているように、娘を殺された父親が飽くまで「主観的」に記した書物である。
僕もこの本を読んで初めて知ったことだが、交通犯罪の加害者の量刑は、他の犯罪に比べて異常なほど軽いらしい。
たとえば刑法の詐欺・犯罪に対する量刑は「10年以下の懲役」であるが、交通犯罪に適用される業務上過失致死は「5年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金」である。
単純に量刑の基準からみて、交通犯罪で殺されたヒトの命は、盗んだモノより軽いことになる。
さらに悪いことに、日本の司法当局は交通犯罪に対してますます寛容になりつつあるのだ。筆者のケースでも、加害者の信号無視によるものと判決で認められたにもかかわらず、加害者は懲役2年・執行猶予3年、つまり殺人を犯しているにもかかわらず刑務所に入らずに済んでいる(くわしくはぜひ同書を参照いただきたい)。
日本のドライバーは、完全に「殺し得」なのである。
年間1万人以上の人間が交通犯罪で殺され、しかも年々微増傾向にあるのに、司法当局は犯罪抑止のために刑罰を重くするのではなく、かえって軽くしている。
このような大量殺人が野放しにされているのはなぜか?
ひとつは、道路が国家にとって最重要のインフラであること。交通事故は許容範囲のリスクということなのだろう。
経済至上主義のさまざまなひずみ、たとえば水俣病などの公害についてはかなり反省がなされてきているが、交通犯罪だけは二十一世紀を迎えようとしているいまだに、まともに反省もされず、毎日30人が殺される殺人が全体の利益のために黙殺されている。
もう一つは、自動車産業が日本の高度経済成長を支えてきたことである。経済発展の陰で犠牲になった人名は数知れないだろうが、いまだに年間1万人が殺されるのはいったい何のためなのか?それだけの犠牲を払ってまだ必要な「成長」があるのか?
三つめの理由は、だれもが加害者になるかもしれない、という気持ちからくるものである。この書物の最初に引用されている統計によれば、25歳以上50歳未満の男性の95.4%が普通免許を取得しているという。
ひょっとすると自分も加害者になるかもしれない。その恐れが交通犯罪に対する量刑の軽さを支える世論を形成している。成人の大半がドライバーであるという「数の理論」が、毎年一万人という大量殺人を許し、多くの殺人者を執行猶予にしている。
そう言えば学生の頃、二輪免許を取りに自動車学校に通っていたとき、交通刑務所のビデオを見せられた。「つぐないの日々」とかそんなタイトルだった。そのビデオの後に教官が言ったことを覚えている。「四輪の人は事故やっても自分は死なない。死ぬのは君ら(二輪)の方だから、君らはこのビデオのようなことは、まずないだろうが...」
よく考えてみれば、ABS、剛性ボディー、エアバッグなど、自動車各社が技術力を競う安全装備はすべてドライバーを守るためのものだ。
たとえ罪を犯しても自分の命だけは助かる。はねられた方が死ぬのは仕方ない。交通犯罪の量刑は軽い。誠意をもって対応すれば執行猶予も付く。「殺し得」なのだ。
自動車は毎年モデルチェンジを繰り返し、ニューモデルをめぐって様々な美しいイメージ、魅力的なメッセージがまき散らされる。やっぱ男は車持ってなくちゃ。TVコマーシャルの自動車は車一台見あたらない広々した道路を疾走する。高性能エンジンが次々に開発される。そうして殺人マシンが巧妙に美化されていく。
冷静に考えると、これは異常なことではないか?
交通犯罪の加害者がたった1年間の免許停止の後、ふたたび車を乗り回すのを尻目に、被害者の遺族は規定通りの賠償金で泣き寝入りしなければならない現実。
にもかかわらず僕が今住んでいる名古屋では、最近、道路の速度規制が緩和された。全国的に交通事故死が微増しており、ただでさえ単位人口あたりの交通事故死件数が大都市として比較的多い愛知県である。
いったい名古屋の行政府はなにを考えているのか。不可解なのは行政府だけではない。このニュースを伝える名古屋ローカル局のアナウンサーも、一様に「よい知らせ」として報道していたのが印象的だった。何がそんなにうれしいのか理解に苦しむ。自家用車に依存するあまり公共交通機関の未発達な名古屋は、人々の意識の上でもまぎれもなく「いなか」である。
いずれにせよ、年間1万人が殺される交通犯罪の取り締まりがこれほどいい加減なのは、殺人を許容しているに等しい。「ねずみとり」に文句を言ったり、取締情報の通であることを得意がるドライバーは、ある意味で大量殺人に加担している自覚が必要じゃないか。
その自覚を持った上で、殺人を巧妙に避けるスリルを味わっているのなら、そのドライバーの「プロの殺し屋」としてのプライドには敬服といったところか。プロの殺し屋は自分の手を汚さずに人を殺めるらしいから...。