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![]() 書かれなかったエッセー ( 19990430 ) 先週20日以来書くと予告していたエッセーは結局書かないことに決めたが、その代わりにその内容について思うことを書いてみたい。これは書かれなかったエッセーについてのエッセーである。 先日、会社の英会話の授業でgender discrimination(性差別)の話になった。仮に雇用機会にかぎらず、いろんな分野で男女の平等を実現するための法律を作るとしたら、女性だけを保護する法律にするか、男性も女性も保護する法律にするか、という議論になった。 (ひとこと断っておくと、これは単なる英会話の授業のネタにすぎないのであって、授業が終わればキレイさっぱり忘れ去って春の青空でも眺めていればいいわけだ。こんな下らないことをいつまでも考えているヤツは僕ぐらいである) そして英会話の教師はいくつかの「男性差別」の例をあげた。バーレストランの価格差別(もちろん男性の方が高い)。ついこの間まで女性しか応募できなかった「スチュワーデス」という職業など。 こうした例を「男性差別」と考えている時点で、この教師は性差別について本質的な誤解をしている。男女別の価格設定は、単に女性の平均所得が男性よりもはるかに低いという現状を追認しているにすぎない立派な「女性差別」である。男性が「スチュワーデス」になれないのは、女性が管理職になれないことの裏返しでしかない。これも立派な「女性差別」である。 でも僕がこのように書くと、「そりゃあんた考えすぎだよ」と言いたくなる人がほとんどだろう。仮に運よくあなたが僕の意見に同調してくれるとして、性差別をなくすために必要なのは、男女を完全に同じように扱うことなのか?と問うてみればどうだろうか。 女性しか育児休暇を取れないのは性差別であり、性差別をなくすには男性にも同じ日数の育児休暇を与えるべきである、という意見はどうか?女性だけに生理休暇というものが与えられているのは性差別であり、男性にもやむを得ない事情のときだけ取得できる休暇をプラスすべきだ、という意見はどうか? こういう議論には根本的な間違いがある。性差別をなくすということは、女性が男性になることではない。現在の男性のあり方こそが人類の理想形であって、今まで遅れていた女性が男性に追いつくことが「男女平等」であるという考えは、別の形での「女性蔑視」なのだ。 しかし、バリバリ働く男っぽい生き方が無条件に「良いこと」で、すべての女性がそういう生き方をすることこそ「男女平等」だと思いこんでいる人が多いような気がする。世の中の価値観を「バリバリ働く男」の価値観一色でぬりつぶすことこそ「男女平等」だという勘違いだ。 僕が考える究極の男女平等とは、ひとことで言うと「多様な生き方を認めること」だ。バリバリ働く男性がいてもいいし、がんばりたくない男性がいてもいい。がんばりたくない女性がいてもいいし、バリバリ働く女性がいてもいい。 こんなことを書くと「君のような考え方は、現状の男女差別を容認する危険性がある!」と反論したくなる人がいるだろう。しかし多様性を維持することほど大変なことはない。いろんな生き方ができる世の中を実現するには、今の世の中をそのままほうっておけば良さそうな感じがするが、とんでもない。 今の世の中は、ほとんどの男性にとってはバリバリ働く道しかないし、ほとんどの女性にとっては「がんばらない道」しかない(Japan Times誌の1999/04/23の記事によれば1997年現在日本企業で全管理職に占める女性の割合はたった9.3%、米国は44.3%、ドイツは26.6%である)。 こういう日本を男女平等の世の中にしようと思うと、二つのことをやらなきゃいけない。まず女性が「バリバリ働ける」ような環境を整備すること。そして「がんばらない男性」を許容する社会にすることだ。もちろん前者を先にやる必要がある。 日本は先日の改正雇用機会均等法で、ようやく女性がバリバリ働ける環境を作ろうとしているところだ。それに、女性がバリバリ働くということは、女性に子供をもつことをあきらめさせることであってはならない。バリバリ働くといっても、サイボーグになるわけじゃないんだから、男女の解剖学的な性差を配慮した法律でなければならない。 (英会話の授業で、男である僕が「生理休暇は大事だ」と言ったら女性の受講者に大笑いされたが、何がおかしかったのか。「生理は女性に対する呪いだ」という時代に逆戻りすべきだということか。キャリア志向の女性は子宮を取ってしまえということか) 女性がバリバリ働く環境さえ不充分なのだから、その次の一歩、つまり多くの男性が法外な残業や過労死の危機から救われ、「がんばらない男」として許容される日はまだまだ遠い先の話なのだ。 このように、多様な生き方をゆるす社会を作ることは、男性的な生き方一色の社会を作るよりもよっぽど大変なことなのだ。大変なことだけれども、日常生活でおかしいと思ったことについて「おかしい!」と声を上げていけば必ず実現できることだ。 改正雇用機会均等法だって、その背後には歴代の女性活動家の地道な活動の歴史があるんだし、そうするしか世の中を変えていく方法はない。 さて、やっとのことでこのエッセーの本題にもどってきた。何かを変えるためには、おかしいことに対して「おかしい!」と言う、こういう当たり前のことができなきゃ全然前に進まない。今までもそうやっていたから、仕方ないから、とあきらめていたのでは、何も前に進まない。 そう言う意味で、僕が今まで長年続いてきた会社のとある慣習(実際には4年ごとしかない行事)について「おかしい!」と声を上げる権利はあるはずである。僕にそれを言う権利さえなく、そこまで自分の魂を売らなければサラリーマンとして生きていけないとするなら、今週の米『TIME』誌で日本の19歳の若者の発言として引用されている次の言葉にならうより他ないだろう。 「この世で最悪のことがあるとすれば、それはサラリーマンになることだ」 無断転載禁止
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