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観覧車の死神
( 19980407 )

Japanese/English

まだ30にもならないのに、死や孤独のことを考えなければならないのは、きっと何かの罰に違いないと思いながら生活しているのだが...。

先日、久しぶりに名古屋のウォーターフロントへ一人で散歩に出かけた。名古屋へ来てやっと2度目。しかも水族館には入ったことがない。3月になって初めての春の陽気に誘われてというかっこうで、しかし一人で歩いているのはもちろん僕くらいなものだ。

たぶんJR貨物のコンテナヤードだった跡地が、小さな遊園地になっている。以前来たときには、水族館の前を過ぎて入り江にかかった短い橋を歩いてわたり、海岸沿いの公園を散歩するくらいだったが、その遊園地のにぎわいになんとなく引かれて入ってみる。

もう一つの理由は、それなりの大きさの観覧車が回っていたこと。ゴンドラが頂上まで登れば、そこそこの眺めになる高さだから並ぶのも覚悟と思ってのりばに行ってみると、ガラガラで乗るのも気が引けるほど。600円のチケットを買って頭の中で、なぜ一人で乗るかの言い訳を、必要もないのにあれこれと考えながら案内されたゴンドラに乗った。

大学を卒業する間近のころ、研究室の友人たちと横浜に遊びに行ったことがあった。なぜ横浜かと言えば、単に横浜に住んでいる人が多かったからというだけ。でも、東京には横浜、大阪には神戸と、少し都心と趣きを変えて遊べる港町があり、名古屋にはない。それだけでも幸せだと感じるべきだったのかもしれない。

吐くほど飲まなければ遊んだ気にならない堕落した大学生たちとは違って、僕のいた研究室の仲間はおだやかな楽しみに満足できるだけの、豊かな想像力をもっていたと思う。夜遅くといっても、まだ9時頃、遅くまで営業している横浜みなとみらい21の大きな観覧車に、とくに仲の良かった女友達と乗ってみた。

それから後、会社員になってからも出張やなんかで、あの観覧車の近くを通ることがあるけれど、黒くゆれる夜の海と、観覧車のはるか足元に輝く遊園地の乗り物たちを、あれほど切ない気持ちで見つめることはもうないだろう。

その想い出に重ねるつもりで僕は、ふたまわりも小さくて、安っぽくて、しかも真昼の観覧車に600円のチケットで乗りこんだわけだ。1周15分の間だけでも、あの頃にもどれたらという甘い期待はすぐに裏切られた。

ゴンドラは壁とドアの半分以上に窓が切り取られ、乗り込んでみるとほとんどガラス張りのように思えた。その高さが5mくらいになったとき、僕は明らかな異変に気づいた。その異変は突然、何の予告もなく僕を襲ったのだ。

今年になって初めての春のような陽気に誘い出されて、明らかに失敗しつつあるプロジェクトのことなど忘れて日曜日を楽しもうと思っていたはずだった。まだ2度しか来たことのない港の近くは、毎週出かける繁華街とは違った開放的な雰囲気でリラックスさせてくれるはずだ。

そんな予感を想い出にひたることで、もっと完全なものにしようと観覧車に乗ったはずが、僕はゴンドラの中で味わったこともないような恐怖に襲われていた。味わったこともないというのは嘘で、より正確に言えば、8年前に一度味わったような恐怖の再来に襲われていた。一人で観覧車に乗ったのは、完全な失敗だったと気づいたときには、もうゴンドラはいちばん高い頂上へ向かって、動いているのか動いていないのか見分けのつかないような速度で登っていた。

僕は高所恐怖症ぎみだが、飛行機や電車の高架、東京タワーや通天閣の展望台を恐ろしいと思ったことはない。観覧車のゴンドラも、あの横浜の観覧車だって恐いと感じたことはなかった。

ところが、自分の腰ほどの高さから一面に見わたされる名古屋港のパノラマに、僕は全身に冷や汗をかきはじめていた。その恐怖は、高所恐怖症なんかで説明できる性質のものではない。

ガラスごしに、遠く足元の遊園地のにぎわいが、ラウドスピーカーから流れるヒット曲の割れた音に混じって聞こえてくる。地上を行き来する人々の姿は小さく、より遠くの景色の中にはもちろん人の姿など見えない。透明なガラスにさえぎられた小さな箱の中で、すべてが僕の手の届かないところへ、どんどん退いていく。

まるで僕が生まれたときから、それらすべてのものが僕とは無縁であったかのように、すべてのものが足元に小さくなって消えていく。むしろそれらは僕と無縁だったというより、僕が存在しなくてもその小さな世界は今までも、今も、これからもうごめいているのだというように、僕の存在だけが、厚めのガラスにさえぎられた小さなゴンドラの中で、蒸発していく。

それほどのものでしかないのだ。この春の陽気を楽しんで、喜びの感情で満たしてやろうと思っていた存在は、600円のゴンドラでもといたエーテルの蒸気にまぎれて消えてしまいそうになる。

ゴンドラが頂上に着いて、左右の見晴らしが完全にきくようになったとき、僕はほぼ完全な孤独の中に置かれている自分を見出していた。

恋愛や結婚で孤独から救われると考えるのは勝手だが、それでも死の瞬間にはだれも君の孤独を救ってはくれない。そして救いようのない孤独を感じるには、ほんとうは死の瞬間を待つまでもないのだ。

それに背を向けて、まるで自分がそれ自体で充実した存在であるかのように信じていると、限りなく死に近い孤独は不意打ちをしかけてくる。

大江健三郎の「燃え上がる緑の木」とは逆に、右回りで「天国めぐり」をして、そのまま地上に帰りついた僕は、予想もしなかった死の孤独の不意打ちからの帰還に、はじめて地球を離れた宇宙飛行士が見たかもしれない死神の顔を、垣間見た気がしていた。

もっとも、ゴンドラから降り立った僕には、平凡すぎる日曜日の風景しかなかったわけだけれども。


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