旅行をすることで受ける感動とは、おそらく日常生活と異なる体験から得られるものだろう。海外旅行の場合は飛行機から降り立った途端に非日常体験からそれなりの感動を受けられる。国内でも日常では目にすることのできない珍しい動物を見たり、風景を見たりすることがそれにあたる。
僕は視覚と聴覚の発達にくらべて味覚が未発達なので、旅先の美味に感動をうけることは少ない。まずい料理とうまい料理の判別はできるが、うまり料理とものすごくうまい料理の区別ができないのだ。したがっていきおい旅の感慨は見るもの、聞くものに偏ってしまうことになる。
国内旅行で聴覚から感動をうけることはまずない。どこへ行ってもBGM公害で、高度経済成長期の観光地開発スタイルから一歩も進化のない観光地では時代錯誤なイージーリスニングが聞き苦しいこともたびたび。誰が旅先で最新のヒットチャートを聞きたいだろうか。むしろ一切のBGMをなくして、自然の音だけが聞こえるようにするのが観光地として本来的な姿だと考える。
つまり国内旅行で最後に残るお楽しみは視覚ということになる。都市郊外は金太郎飴式の開発の結果どこも同じような風景だが、さすがに農村や漁村、人家のほとんどない山中まで足を伸ばせば非日常的な風景が広がっている。
特に自動車の運転免許をもっていない僕にとって、自動車で自然の中を移動する車窓の風景はそれだけで価値のあるものだ。つねに考えるのは、こんなところに車なしで放り出されたら、民家にたどり着くのと死ぬのとどちらが早いだろうか、ということだ。真夏ならいざしらず、こう寒くなってくると山中で遭難でもすれば大した標高でなくても生命の危険と隣り合わせだろう。
自動車は人の足でたやすくたどり着けない場所へ踏み込む道具だから、自動車でなければ行けない場所とは丸腰の人間にとって極めて危険な場所ということになる。窓から差しこむ冬の日差しを痛く感じながらのんびり助手席のドライブを楽しんでいる自分と死の悲惨が自動車のドア一枚で接している。
また山道で崖下が遠く切り立っているカーブに差しかかるときもスリルを覚える。たとえば運転者がちょっとしたことでハンドル操作を誤まるだけで数十メートルの空中遊泳からそのままあの世行き。日常生活では味わえない恐怖の予感である。
そういった内面的な感動とは別に、純粋にフォルムとしての風景に目を奪われることもある。伊豆スカイラインという道路は遠目には禿山と見まがう高さのそろった低木がおおう高原地帯をぬって走るが、ところどころ深く谷が切れて東伊豆の太平洋や大島が遥かに見わたされる。
不思議なことは自動車道から低木の林に分け入るように人間がやっとすれ違えるほどの狭い道が切り開かれていることだ。巡回道という看板が道の入口に立っているが、聞けばこの一帯は国立公園とのこと、不法滞在者を巡視するための通路なのか。なだらかな山肌に道筋をたどっていくとどこまでも散歩できそうだが、誰も気づかぬまま取り残されれば富士の樹海同様、絶好の死に場所になりそうだ。そうか、自殺志願者の巡視でもあったのだ。
そして下田海中水族館ではスタッフの姿に目をひかれた。芸をするイルカやアザラシはどこでも見られるのだが、海の動物たちとスタッフの関係はここでしか目にすることができない。朝早くついた水族館では新人の女性が先輩に教えられながらイルカの餌付けをしている。そのうち観光客の人だかりがしたためか、ジャンプの調教も始めた。
スタッフはみな若い人ばかりだが地元の人だろうか。あるいは海の動物とふれあえる仕事を求めて別の土地から出てきた人だろうか。体力的に若くなければつとまらないのだろうが、半数が若い女性という点が気にかかった。この水族館は椿山荘や京都国際ホテルなどを経営する藤田観光の施設らしく、ここで仕事がなくなっても他でできることはありそうだ。
夢を仕事にすることは確かに素晴らしいが夢ばかり見ていられなくなったときの担保も必要。あくまで動物たちのペースに合わせてショーをおこなうスタッフの動物たちへの気配りの背後には、そうした安心感があるのだろうか。ここでもやはり映画を観るときのように一人の観客として水族館を楽しむのではなく、スタッフの一人ひとりがどのようにして一日を動物たちと過ごし、この水族館をどう運営していこうとしているのだろうかと考えをめぐらせていた。
しかし実際目にするものは期待以上ということがあまりない。旅の感動が口を突いて出てこないのはそのせいかもしれない。それならいっそ活字を追いながら想像力にまかせて理想どおりの風景を思い描く方が感動は深い。旅よりも読書の方が刺激的なのだ。