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![]() ありがたき故事成語 ( 19981112 ) 僕のページは一応1970年以降に生まれた人たちをターゲットにしているつもりだが、年上の方々からもけっこう感想メールをいただく。その中に、僕へのアドバイスという意味でありがたい故事成語を5つもいただいたメールがあった。 学んで思わざれば即ち暗し。思いて学ばざれば即ち危うし。「論語」 言うは易く、行うは難し。「塩鉄論」 書を以て御する者は馬の情を尽くさず。「戦国策」 思いて動かざれば、即ち無志。「私」 存亡禍福は皆己のみ。「説苑」 このメールにはOJTなどについて僕よりも辛辣で的確な指摘があり、とても参考になった。これはウソではない。しかしこの故事成語だけは正直言ってあらずもがなだった。なぜなら、僕は中国古典の故事成語は大、大、大キライなのだ。 中国古典を口にするようになったらいよいよ「オヤジ」だ、という意味で生理的にキライだという理由もあるが、その辺をちゃんと論理的にあとづけてみよう。 よく言われることに、故事成語やことわざのたぐいは、相反する内容のものがペアでかならず見つかるということがある。「旅の恥はかきすて」「立つ鳥あとをにごさず」など。 故事成語やことわざはいわば経験則だから、相反する内容のものが存在するのは当然である。そして中国古典の故事成語が千年以上の年月を経てなおも、メールに引用してしまうような人々を生み出しているのは、真理を言い当てているからであるが、同じ事物について、肯定と同時に否定をしているのだから当然といえば当然だ。ある場合には、AはBであると言い、別の場合にはAはBでないと言っていれば、ほとんど常に「真理を言い当てる」ことになってしまう。 つきつめて言えば、故事成語やことわざは、次の2つの構造に分類できる。論理的な構造を明確にするためにあえて英語で書かせてもらうと... A is not always B (または A is not completely B) Sometimes you must not do A. つまり、「AはかならずしもBではない」「Aは完全にBと同一ではない」ということ。そして「ときにAをしてはならない場合がある」ということ。いずれにせよ、経験則である故事成語は、部分否定や部分的な肯定で、特定の場合にのみ妥当することをたくさん言うだけ言って、全体として「当たり」の確率を上げるという性質のものである。 このような性質をもった故事成語は、だれをも納得させる力をもっているが、実質何も言っていないのに等しい。「臨機応変」という4文字熟語がひとつあれば、用は足りそうである。 だから結局のところ故事成語は行動原理にはならないのである。ある場合にはAをしなさい。でも、ある場合にはしちゃいけませんよ、なんてことは言われなくても分かっている。問題は、ではあなたの基本的なスタンスとして、Aをするのですかしないのですか!ということなのだ。 臨機応変で対応をかえて時勢をうまく乗り切るテクニックは、サラリーマンとして生きている一日の数時間の間なら利用する価値もあるだろう。しかし、僕個人はそんなものを自分の「哲学」にしたくはない。 僕が必要だと感じる命題を、やはり英語で対置してみよう。 A is B. / A is not C. You must not do A. 僕が今問われていると思うのは、その場その場をうまく切り抜ける経験則よりも、AはBである、と言いきって、それが妥当する場合と破綻する場合をきっちり切り分けていく厳密さである。だからこのページに「think or die」という題名をつけているのだ。 では最後に冒頭の故事成語についてのコメント。 「学んで思わざれば即ち暗し。思いて学ばざれば即ち危うし」。さっきInfoseekでこのことわざを検索したら、どっかの掲示板に「学びて思わざればすなわちバカだな」と書いてあった。 「言うは易く、行うは難し」。正確に「言う」ことは行動することよりも難しい。その難しさを分かっていない人間が多すぎる。やるだけやってちゃんと説明できない人間が多すぎる。それがこのページを開いている目的である。 「書を以て御する者は馬の情を尽くさず」。御者がつねに馬の感情を思いやってやらないというのは、御者の馬に対する優位を前提している。つまり、人間がえらいんだから、その分、馬を気遣ってやろう、というわけだ。 頭のいい人間は頭の悪い人間を理解できるが、反対は不可能だ、というのは完全に間違った考え方である。上に立つ人間は下にいる人間を理解できるが、反対は期待すべきでない、というのも間違っている。実際には単に相互不理解があるだけで、両者の歩み寄りこそが必要である。つまり、御者が馬の情を理解しようと努力するだけでなく、馬も御者の書物を理解しようと努力すべきである。馬もちゃんと理解する力をもった存在だと認めてやるべきだ。 「思いて動かざれば、即ち無志」。動いて何かが変わるというのも30年前の考えかたのような気が...。これもこのページで再三にわたって言ってきたことだ。人間は行動することによっても行動しないことによっても、本人の望むと望まないとにかかわらず周囲に影響を与えている。「行動しよう!」という人は、往々にして自分が周囲におよぼしている強力な影響力や権力に無頓着である。これも別のページで一度書いた。 また、自分がAと思って行動すれば、他人にもAと伝わると信じるのは素朴すぎる。まったく反対のBと取られるかもしれない。ならば、Aと考えたことをあえて行動に移さずに、言葉でそのまま伝えることも立派な「行動」のはずである。思想と行動(の影響)のパラレルな関係を信じるほど、僕は素朴ではない。 「存亡禍福は皆己のみ」。辞書を調べても載っていないのでコメントのしようがない。「身から出たサビ」という意味なら、これも自己の意思が自己を形成するという素朴すぎる主体主義で論外。「自分のことばかり考えるな」という意味なら、それに反対する故事成語はいくらでもみつかるので、何も言っていないに等しい。 僕が読者に提案したいのは、故事成語をたくさん覚えるよりも、自分の行動原理や「哲学」をできるだけシンプルに切りつめていこう、ということだ。シンプルでなければ行動原理になるはずがない。僕の場合は、思想も、行動も、と欲張らず、とにかくちゃんと考えることを行動原理にしている。 その場その場でかしこく振舞うのは現実的な対応としてはよいが、その振舞いが自分の考え方に沿ったものなのか、意に反することなのかを自分の中でしっかりあとづけながら生きるべきだ。 それをやらずに、ヘタにバランスのいい人間になってしまえば(出世はするかもしれないが)、あなたがあなたである理由はどこかに消えてしまうだろう。そして、ひどく退屈な人間になってしまうに違いない。あなたの言うようなことは、どこへ行っても聞けるのだから。 以上、すくなくともホームページでは、僕の好き嫌いはハッキリしすぎるほどハッキリしている。とにかく僕は中国古典(とその影響を受けた人々)が大、大、大、大、大、大、大、大、大、大、大、大キライなんだぁ〜〜〜!ということだけが伝われば、このエッセーはそれで十分。 無断転載禁止
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