学生時代、僕は一時期、東京の日野市に住んでいた。JR中央線で新宿から西へ40分以上、駅からは緑の多い多摩川べりを見わたすことができ、東京とは思えないのどかな町だった。
大学から帰る電車のなかで見かけた光景で、今も忘れられないことがある。吉祥寺で井の頭線から中央線に乗り換えた電車で、度の強い眼鏡をかけたおかっぱの女の子が窓際に立っている。
背中には大きなランドセル。中身がぎっしり詰まっているようで、電車がゆれるたびに足元をふらつかせている。両手にはやはり荷物がいっぱいに入った手さげ袋。窓の景色を追っている瞳は、ちょっと困ったような表情だけれども、なんでもないふうをよそおっている。
「あなた、ここに座る?」
すぐそばの席のおばさんが見るに見かねて声をかけると、女の子は小さな声で、いいです、いいです、と首を横にふる。
すると、となりに立っていたおばさんも助太刀を出して、座ったら?重そうだし、と勧める。それでも、いいです、いいです、とますます恐縮したようにうつむきながら繰り返す。
とうとう二人のおばさんはあきらめてしまい、女の子は足元をふらつかせながら立ったまま、なにごともなかったように窓の外をみつめていた。
それを見ていた僕は、涙がこみ上げるのを感じていた。
こんなことを思い出したのは、11月23日放送の『中学生日記』を見ていたときだ。「私を見て」というタイトルで、モノクロのカットバックを背景に主人公の少女の独白から始まるという、いつもながら凝った演出だが、ストーリーは、クラスで一人目立たない女の子にまつわるエピソードだ。
『中学生日記』はNHK名古屋の制作で、毎回、クラスの一人ひとりの生徒が抱える問題をめぐって物語られるという構成になっている。教育現場を題材にしたNHK教育TVのドラマということで、倫理的教訓のお話を想像する人もいるかと思うが、実際には教師の側の人間的な苦悩もからめた、きわめて「実存的な」ドラマになっている。
で、「私を見て」のストーリーをかんたんに。クラスの目立たない女生徒が、担任の教師(男)は目立つ生徒たちばかり注目して、自分のことなどどうでもいいんじゃないかと疑う。同級生が髪を切った日、担任がそのことに気づいたのを見て、自分も髪を切って登校するが、やはり担任は気づきもしない。
進路調査のアンケートに、自分の実力では合格できそうにない高校名を書くが、担任は面談の席で、君なら大丈夫かもしれない、と告げる。彼女はその発言の無責任さに、先生は私のことなんかどうでもいいんでしょ!と教室から走り去ってしまう。
その女生徒はマニアックな映画ファンという設定で、このドラマの中でも名古屋駅前のシネマスコーレでバスター・キートンを観るシーンがある。英語の成績もよく、おそらく字幕翻訳者になりたいんだろうという伏線だ。
担任の教師は風邪で早退した学校の帰りに、たまたま映画館に入っていく彼女をみかける。そこではじめて映画好きという彼女の個性をつかみ、和解するという筋だ。
理解されないと思っているのは、自分が理解されようとしていないせいかもしれない。でも、そのきっかけを自然につかめた『中学生日記』の女生徒は幸運だし、あの電車の女の子はもっと幸福だ。
このTVを見た前の日、バンドの麻薬所持で火だるまになっているドリアン助川の『正義のラジオ』を聴いていると、ある女子高生の悩み相談に耳がとまった。同級生はみんなルーズソックスもはかず、クラブ活動に打ち込むまじめな子ばかりで、学校帰りにプリクラやったりカラオケ行ったりする友達がいなくて、つまんない、という相談だ。
ドリアンはこの女子高生が、絵を描くのが好きだということを聞き出し、そこから友達の輪が広がっていくんじゃないかとアドバイスした。
大学生の頃の僕は、ほんとうの孤独とは何か?と考えて、次のような結論に達した。私はなんて孤独なんだろう、というのはほんとうの孤独ではなく、孤独なのは私だけだというのがほんとうの孤独だ。
理解されないことそのものは孤独ではなく、理解されないのは私だけだというのが本当の孤独だ。しかし、理解されるために、理解されやすい自分を演じなければならないとすれば、それは絶望的な孤独だ。なぜなら、周囲の人間は、理解されないのは理解されない当人のせいだ、と決めつけるからだ。
自分が理解されようとしていないのは、たしかにそうかもしれない。だが、そのために理解されやすい自分を偽装しなければならないとしたら、そこにはもう絶望しかないのではないか。
僕があの日、電車の中で見かけた光景に涙をうるませたのは、たぶんそういう理由だったんだと思う。