think or die :
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白黒歌合戦?
『紅白歌合戦』のフェミニズム
1999/01/03

日本国民の「正しい」年末の過ごしかたとは、NHKの『紅白歌合戦』を観ることである(笑)。実際に観る観ないにかかわらず、僕らは当たり前のように年末の風物として『紅白歌合戦』を受け入れているが、よくよく考えてみればこんなにヒドい番組はない。

『紅白歌合戦』とは、男性軍と女性軍に別れて歌手たちが勝負を競うという設定の番組だ。だがなぜ歌手をわざわざ性別で分ける必要があるのか。たとえば『紅白歌合戦』ならぬ『白黒歌合戦』を考えてみよう。仮に米国のテレビ曲が『白黒歌合戦』を企画したらどうなるだろうか。米国で活躍する歌手を、肌の色という生物学的な条件で白人と黒人に分けて勝負を競う、そういう番組を放送しようとしたら...。

そりゃぁ放送する前から全米に物議をかもして、企画段階でボツになること間違いなしだ。ゼッタイ実現しない。『白黒歌合戦』なんて明らかに人種差別で、革新派はもちろん保守派も眉をひそめるだろう(もっとも白人と黒人に分けても音楽的にはブラック・ミュージック一色になるだろうが)。

では、同じ米国で『紅白歌合戦』という番組が放送できるだろうか。米国で活躍する歌手を、男性・女性という生物学的条件で分けて勝負を競う。おそらくこれも実現不可能だろう。『紅白歌合戦』だなんて明らかにpolitically incorrect(政治的に不適切)だからだ。

僕がここで米国の例を出したのは、「米国は人権意識が進んでいるから見習おう!」ということが言いたいからではない。僕が言いたいのは、社会的背景が違えば『紅白歌合戦』のもつ意味がまったく違ってくるということだ。

『紅白歌合戦』という番組が成立するのは、その背後に『紅白歌合戦』の成立を許す社会が存在しているからである。しかし僕らはその社会的な背景にあまりに鈍感すぎる。あなたが性別によって歌手を分類する『紅白歌合戦』に何の疑問も抱かなかったとすれば、それはある意味でとても危険なことである。

この正月休みに僕は青土社の『現代思想』1999年1月号を読んでいた。1月号の特集は「ジェンダー・スタディーズ」である。「ジェンダー・スタディーズ」とは、経済学・文学・美学などさまざまな学問領域で、いわゆるフェミニズムの観点から研究を行うことである。この号ではその最新の成果がコンパクトに紹介されている。ぜひ御一読いただきたい。

この特集で扱われているテーマは、「フェミニスト経済学」の成立の可能性から、昨年ワイドショーを騒がせたマラソン選手・有森さんの件まで、実に幅広い。このテーマの多様性は、フェミニズムが批判の対象とする物事の範囲の広さをよく示している。フェミニズムは社会のあらゆる事象にひそんでいる性差別をあばきだすのである。

なかでも面白かったのは一番最後に掲載されている「環境ホルモン」についての論考だ。今「環境ホルモン」についてさまざまな議論がなされているが、この論考はそれらの議論が持つ危険性を的確に指摘している。

「環境ホルモン」でいちばん(下世話な)興味をひくのは、男性の精液の中に含まれる精子の数が減っているという事実。オジサンが酒の席でまっさきに飛びつきそうな話題だ。

これが事実として紹介されるだけならいいのだが、現実にはこの事実が男女の役割分担を固定するために利用されてしまっている。「環境ホルモン」のせいで最近「女々しい男」が増えている、というわけのわからない議論である。

こうした議論は「環境ホルモン」に対する危機感をあおり、「やっぱり男は外で働いて、女は育児に専念すべき」という「父性の復権」の「科学的根拠」として「環境ホルモン」を持ち出す。「科学=客観的」と信じている人々はいとも簡単にこの言論操作のワナにはまって、「やっぱり男は男らしく、女は女らしくしなきゃいけない」と信じてしまう。

これが夕刊紙やテレビのバラエティー番組のレベルにとどまっているならまだ冗談で済む。しかし、あの立花隆でさえも「環境ホルモン」をテーマにした書物で、バリバリの性差別思想を書き連ねているというのだ。

たとえば環境ホルモンによる「性行動の異常」は最近の人間にも影響を及ぼしていて、「異性に関心を持てなくなる同性愛とか、セックスレスな男の増加は」それが原因だ、と立花氏は臆面もなく書いている。立花氏ははっきりと同性愛者=異常者だと主張しているのだ。

さらに同氏は「環境ホルモン」のせいで、「母性本能を失って子育てがきちんとできなくなって」いる母親が増えていると、わけのわからない論を展開している。子育てが「本能」だということ自体、根も葉もない議論だし、それを「環境ホルモン」に帰してしまうとは驚くべきおそまつさだ。

立花隆でさえこうなのだから、大新聞が「メス化する自然」への危機感をあおって、男女の厳格な役割分担への逆戻りすべきだと書くのも無理はない。

もともと「環境問題」は、国家や企業による乱開発への反論として登場した。その「環境問題」がいつの間にか国家や企業にとって都合の良い性別役割分業と結びついてしまう。これが言論の恐さだ。かつて日本の政治権力の腐敗を、ペンの力で鋭くえぐりだした立花隆でさえ、このことに気づいていないとは...(単に耄碌しただけかもしれないが)。

ここにこそフェミニズムという思想の存在意義がある。フェミニズムの思想とは、特に男性たちにとって、まんまと口車に乗せられそうなところへ鋭い批判の矢を放つ「他者」の視点なのである。もちろん僕自身、つねにすでに「男性的」な考え方に汚染されている。

『現代思想』の「ジェンダー・スタディーズ」特集で頭の中をオーバーホールしてから一年を始めるというのはどうだろうか。