脳の中のセロトニンという物質が不足することでおこる病気の一つに、「パニック障害」というものがあることは、このサイトの読者ならすでにご存知だろう。「障害」と言うと大変な病気のようだが、英語では「obstacle」や「handicap」ではなく、単なる「disorder」なので、本当は「変調」ぐらいの軽い訳の方がふさわしい。
パニック障害に比べれば花粉症なんかの方がよっぽど日常生活に外形的な支障をきたす。シーズンが始まる数ヶ月前から薬を飲みはじめる必要があったり、脱感作療法だといって花粉エキスを何週間もつづけて毎日飲んだり、鼻の粘膜をレーザーで焼く人もあるというから、そうとうつらいんだろう。幸い僕はまだ花粉症にならずにすんでいる。
それに比べれば寛解期のパニック障害など、セロトニンの水準をたもつ薬を一日一錠ほど飲んでいさえすれば、外形上の不都合はまったくない。パニック障害のパニック発作は、「パニック」というくらいだから、突然その場で暴れだすんじゃないかと、とんでもない勘違いをする人もいるかもしれないが、実際にはパニックは心の中で静かに、波のように寄せて、数分すると音もなく去っていく。
ここで「外形上の」という言葉を二度使ったのは、パニック発作は外から見るとまったく分からない(よく見ると額にうっすら冷や汗でもかいているかもしれないけれど)ということを強調するためだ。
PTSD患者のフラッシュバックは外から見てもかなり激しい発作になるらしいが(そういえば阪神大震災のフラッシュバックに悩まされる青年が、夜中に突然飛び起きて暴れだすというシーンのテレビドラマがあった)、フラッシュバックというものが、かつて実際に起こった出来事の再現であるのに対して、パニック発作は、実際には決して起こらない出来事への不安に過ぎないからだ。さらに言えば、同様に脳内物質の異常によっておこる統合失調症(むかし精神分裂病と呼ばれていた病気)では、原因となる過去の出来事が何もないのに、存在しないものが「実際に聞こえる」「実際に感じられる」ということになってくるのだが。
パニック障害の患者(患者という言葉も少し重過ぎる気がするが)は、人によって違うけれども、狭い場所に閉じ込められたり、人ごみの中に放り込まれたりといった特定の状況におかれると、息苦しくなったりして、このまま死んでしまうのではないかという不安に襲われるわけだが、人間はそう簡単に死んでしまうものではない。だからその場で死ぬなどということは、実際には決して起こらない出来事なのだ。実際に起こったことに対する恐怖ではなく、実際には起こりえないことに対する不安なので、パニック発作は心の中で静かに波のように寄せて、また音もなく去っていく。その間も五感や思考はまったく正常に働いているので、外見上は何も起こらない。
しかし、内面で完結する不安であるからこそ、僕はパニック障害についてちょっと病理学を語りたくなってしまう。つまり、パニック障害の人たちは、特定の状況に置かれるとサイレントに不安発作を起こすので、その状況を恐れていることには違いない。
たとえばあるパニック障害の人は、身動きのとれない満員電車や、美容院を恐れている。どちらも「他人のせいで自由に動けなくなる」からだ。満員電車で車両の奥の方に押し込まれてしまうと、そう簡単には外に出られなくなる。美容院に入っていったん椅子に座ってしまうと、カット、シャンプー、セットが終わるまで基本的に美容院から出られなくなる(髪の毛がボサボサのまま店を突然飛び出しでもしたら、それこそ本物の狂人扱いされてしまう)。
ところで、こういう人は本当に満員電車や美容院といった、具体的な状況を恐れているのだろうか。むしろ「他人のせいで自由に動けなくなる」という抽象的な条件を恐れていると言った方が当たっているのではないだろうか。そうだとすると、病理学的にこの人のパニック障害を解決するには、この抽象的な条件全般をその人の生活から取りのぞけばいいことになる。
しかし、「他人のせいで自由に動けない」という抽象的な条件を、現代人の生活から取りのぞくことは事実上不可能だ。満員電車の例で考えてみよう。はじめは電車に乗るだけでも不安発作におそわれた人が、少しずつ症状が良くなって、少しくらい混雑した電車になら乗れるようになったとする。最後には満員電車でも乗れるようになるだろう。
不安発作の原因になっている「他人のせいで自由に動けない」という抽象的な条件を、極限にまでおし進めて考えるために、この寛解のプロセスを、逆回しにしてみるとどうなるだろうか。電車に乗るだけで不安発作におそわれた人は、おそらく乗り物一般に不安を覚えるようになるだろう。そのうち自宅の外という状況にも不安を感じるようになるかもしれない。自宅の外に出れば、そう簡単にその辺にいきなり寝そべるわけにもいかないし、座りこむこともできない。
ならば自宅に引きこもっていれば大丈夫かと言うと、自分の家というのも一定の閉鎖された空間であることには違いない。より抽象的には、これこれの家にだれだれと住んでいて、これこれの仕事をしているという状況そのものに「他人のせいで自由に動けない」という不自由さを感じ始めることだってありえないことではない。
そうなると困ったことになる。満員電車が不安発作の原因なら、満員電車から逃げればいい。広場恐怖があるなら、当面は外出を控えればいい。しかし、これこれの生活をしている状況そのものが引き金になって不安発作が起こるのだとしたら、その生活から逃げる必要がでてくる。
実際にはここまでくるともうパニック障害ではなくて、何か他の心因性の神経症にでも分類されるのだろうが、このような根源的な不安を主題化することは、僕には意味があることのように思える。現代人なら誰しも、これこれの生活をしている自分自身に、根源において不安を感じているのではないか。これこれの生活をしているのは決して自分自身の意思ではなく、後ろから押されて満員電車の奥の方に閉じ込められるようにして、否応なしにこれこれの生活に押し込まれてしまったと考えているところはないだろうか。
パニック障害を通り過ぎて、自分の生きている状況そのものに耐えられない不安を抱いてしまった人は、「夜回り先生」こと水谷修氏が公演で語った少女のエピソードのように、つまり、幼い頃父親にレイプされたフラッシュバックのため、初めてのデートで彼氏にキスされた瞬間、その場で自分の洋服を引き裂いて暴れだしてしまい、もう一生まともな恋愛ができないのだと悲観した少女のように、自殺するしかなくなる。
お気づきの方もいるように、根源的な不安をここで語っているのは、ハイデッガーへのほのめかしである。しかし今僕は『存在と時間』に書かれてあった根源的な不安が、完全に自分の意のままになる状況など現実の生活ではありえないのに、それを求めることをやめられない人間の不安であったかどうか、あまりはっきりと思い出せない。
たしかハイデガーの不安は死に対する不安だったはずだ。パニック障害から節操もなく敷衍したこの議論においては、ハイデガーの「死」を、僕らが目にする具体的な死と解釈する必要はないだろう。むしろ「死」を、人間の意のままにならない、否応なしにその中に投げ込まれてしまうような状況の代表的なもの、象徴的なものととらえるのが適切だ。
だとすれば、パニック障害はその象徴的な「死」を、もっと卑近なもの、たとえば満員電車であったり、美容院であったりといったものに、誤って引きよせ過ぎているのだと言える。実際には自分自身の死は権利上、手に届かないものだ(自分が死んでしまったら、自分が死んだことも分からなくなるという意味で)。にもかかわらずパニック発作は、満員電車や美容院の中でも死は起こりうると考えてしまう。よく考えてみれば、これはとんでもない短絡であり、到達不可能な死をいきなり手もとに引き寄せてしまう飛躍だ。
死を、不当にも、飛躍によって手元に引き寄せること。それがパニック障害の病理学であり、もしかするとそこには死を自分のものにしたいという実現不可能な欲望(否、欲望は実現不可能なものに向けられているからこそ欲望であるのだが)が隠されているのかもしれない。死を自分のものにし、死を制御できさえすれば、この世界には事実上、自分の思い通りにならないものはなくなるはずだからだ。
「他人のせいで自由に動けない」という抽象的な状況を克服するために、パニック障害は他人の代わりに死をコントロールしようと欲望して挫折する。その挫折が不安発作に違いないのだ。なぜなら、満員電車から逃げ出したいのなら、大声で「降りま〜す」と何度も叫びながら他人をかきわけることでコントロールすればいいのだし、美容院からぬけ出しだければ、店の時計を見て「あっ、いけない!もう約束の時間を過ぎてる。シャンプーはいいのでこのまま帰ります!」と嘘で他人をコントロールすればいい。死も他者も自分の思い通りにならないところを持っているが、他者には呼びかけるための顔がある。