パニック障害(panic disorder)という病気があるが、病気の定義や治癒の定義は時代や地域とともに変化する。病気という事実が起こる場所の認識論的条件、つまりは文化的な条件によって変化するということだ。昔は病気でなかったものが今は病気と認識されていたり、その逆もありうる。病気の状態がどこまで変化すれば治癒と見なされるのかも一定ではない。
一つ言えるのは現代は健康であるという状態の定義がより厳密に狭められているということだ。裏を返せば病気であると認識される状態の範囲が広がっているということだが、それは健康を気遣うあまり病気になってしまうという冗談が冗談として通用しないほどの「健康ブーム」を巻き起こしている一方で、昔は想像もできなかったほどの生活の質(Quality of Life)の向上が実現されている。テレビの健康番組の多さはほとんど病的といえる水準にあると感じる。現代のような健康偏執狂的とも言える時代は、ある人にとって幸福だが、別の人にとって不幸と言えよう。
病気の定義がそもそも不定であるなら、思い切って主観的な定義にかえると議論がすっきりする。本人が病気と認識すれば病気だし、そうでなければ病気ではないという定義だ。例えば1日2箱以上タバコを吸わなければふつうの生活が送れない人は病気だろうか。本人がニコチン中毒と認識する限りにおいてそれは病気だし、本人が平気なら病気ではないとせざるを得ない。
この方法が便利なのは病気の一次的な認識は結局本人によるしかないという、実生活上の事実と一致している点である。一般的な企業で実施されている定期健康診断も受診を拒否することができるのであってみれば、受診する人たちは病気を見つける意思を持っている点で病気の潜在的な発見者である。他方、いくら他人から「お酒をやめなさい」と言われてもやめない人は、アルコール中毒であることを病気として認識できない点で病気ではないと言える(そのうち何らかの発作で不可抗力的に病院へ搬送されるかもしれないが)。
しかし医師などの専門家を除いて、一般の人々があらゆる病気の兆候を事前に知るわけではない。専門家であれば明らかに病気と認識する症状でも、知識不足のためにそう認識できない場合はたくさんあるだろう。だからこそ医学的な啓蒙に意味があるのだが、健康至上主義がかえって医学的な啓蒙を阻害する面もある。
健康=正常であることが無条件に良いとされ、病気であることが必要以上に責められる場合、人々は無理にでも健康に振舞おうとする。特に病気が生活上の重大な障害となる場合はそうだ。一国の元首なら専任の医師団が至れり尽せりの健康管理をしてくれるだろうが、一介のサラリーマンに医師団など望むべくもなく、どうしても「偽装健康」へと傾く。その結果、重大な病気の発見を遅らせることがままあるようだ。
なかでも特に問題なのは体の病気ではなく、目に見える症状の出にくい心の病気である。自分さえ我慢すれば、自分さえ頑張れば何とかなるという自己犠牲の精神論が、会社員の精神病を悪循環におとしいれるのはよく聞く話だ。必要以上に責任感の強い会社員に対しては、メンタルヘルスの維持も自己責任であるという、ある意味逆説的な啓蒙活動が必要なのかもしれない。
話が随分遠回りしたが、20年以上も認識されることのなかった病気がついに「発見」されるということがあった。それがパニック障害なのだ。小学校高学年のある夜、自室の窓から眼下の夜景を眺めていたその人は突然の息苦しさに襲われた。激しい動悸がしばらく続いたあと、何事もなかったかのようにおさまったのだが、子供心に今にも自分は死ぬのではないかと恐ろしがったという。
そうした「発作」が何度か続いたため小児科にかかったのだが、診断は自律神経の失調ではないかということだけ。当人はそう簡単に納得できなかった。なにしろ不治の病でも抱えているかもしれないという不安感を払拭できなかったというのだ(このような神経質さがすでに名もなき病の症状だったらしいのだが)。そこで都心の大病院へうつり数日にわたってあらゆる精密検査を受けた。
出てきた結果はやはり異常ナシである。最新の医療に健康を保証されたわけだから、その人は引き下がらざるを得なかった。ちょうど第二次性徴を迎えていたので男性ホルモンのせいかもしれないという説もあった。そもそも自律神経があまり上等に出来ていないのだろうというあたりで当人は納得し、その後は発作も起こらなかったため、久しく忘れ去っていた。
それが二十歳の年に「再発」したというのだ。大学の近くをブラブラと散歩している最中にいきなり胸苦しくなり、どうにもまともに呼吸さえできない状態になった。近くの開業医にたまらず駆け込んだのだが、初めてある程度納得のいく病名がついた。「過換気症候群」である。
酸素を吸いすぎて呼吸中枢が混乱し、酸素不足と勘違いしてさらに酸素を吸い込もうとする悪循環のようなものが起こるらしい。手近にビニール袋などがあればしばらくそれで口をふさいで呼吸をしてみるという現実的な対応方法を医者に教えてもらい、それ以降「過換気症候群」の発作には遭わずにすんだらしい。
しかしまた忘れたころに名もなき病は「再発」する。社会人になって数年、映画館の中でのことだ。苦手な流血のシーンが登場したことをきっかけに、その人は全身脱力と冷や汗で耐え切れず劇場を出た。
そしてついに決定打がやってくる。それは昨年初夏のこと、帰宅途中の電車で何のまえぶれもなく脱力感と全身冷や汗におおわれ、たまらず電車を降りた。そこから先はとても満員電車に乗る気になれず、自宅までタクシーで帰ったというのだ。これが一度ならず、数日後もまた起こった。
やっぱり何かがおかしいと認識できたのが幸いした。近くの総合病院の内科にかかったところ、運よく担当医が心療内科の医師でもあり、「パニック障害」という立派な病名がついたのだ。念のためということで24時間心電図をとる検査も受けたが、軽微な不整脈が数回見つかっただけで異常はなかった。
こうして彼の20年来の謎についに決着がついたのだ。20年前、小学生当時の医学では自律神経失調症とか、単なる運動不足とか、第二次性徴による不可避の現象とかで片付けられていたものが、はっきり「パニック障害」という病名を与えられたのである。しかも保険の利く治療薬「パキシル」(商品名)まで出ている。
彼が「パニック障害」で医者にかかった時期はちょうどパキシルの保険適用の処方量が2週間から4週間へ緩和された時期で、この薬自体が国内の病院で処方されるようになって間もないとのことだった。「再発」がもう少し早ければ相変わらず自律神経失調症で片付けられていたかもしれないと思えば、まさに幸運としか言いようがない。
彼の「パニック障害」はパキシルを服用しつづけることで確実に快方に向かった。治療の初期はパキシル1錠/日とソラナックス2錠/日を併用したが、依存性のあるソラナックスは今では症状が我慢できなくなったときの頓服だけにしているとのこと。もう1年早く病名と治療法が分かっていれば、より明るく楽しい東京生活が送れたのではないかと思うと、病気を早期に認識することの重要性をかみしめるとは彼の談。
実はうちの職場にもウツ病らしき人がいるのだが、残念ながらスポーツマンである本人は体が丈夫なだけにまったく自覚がなく、単に疲れがたまっているだけだと思っている様子。心療内科にかかって適切な処置を受ければもっと楽しい毎日が送れるのに、妙な自尊心がそれを妨げてしまっている。
思うに、壮年の自尊心は概してろくな結果を産まない。