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![]() 神をも畏れぬ神 ( 20030407 ) 読者の方から、神について書いてほしいというメールを頂いたので、このエッセーの主題は「神」である。いま神を語ると目下進行中のイラク戦争に触れざるをえないが、アラーの神を正当化の手段とする独裁政権と、キリスト教と一見無関係な括弧つき民主主義との戦いは、ここで書こうとする神に直接関係しないので、戦争については言及しないことにする。 僕の実家は某新興宗教を信仰しているが、学生時代までの僕は無神論者だった。僕と同じ1970年代生まれの世代に信心深い人などそもそもいないと思うが、その無神論に理論的な背骨を与えてくれたのは、実存主義との出会いだった。 サルトルは神様などいてもいなくてもどちらでもいいという無関心派の無神論であって、共産主義者のように宗教を否定するものではない。神が実在するかどうかは結局のところ論証も反証も不可能で、議論しても意味がないことなのだ。そんなことにかまわず生活すればよいというのが、無関心派の無神論だと僕は受けとめている。 ところが学生時代のある事件をきっかけに、僕の神についての考え方に変化が起こる。「ある事件」の内容は残念ながらここに書くわけにはいかないので、どうしても知りたい方には直接お話でもするしかないが、学生時代のある期間、キリスト教に対して強烈な共感を抱いていたのは否定できない事実だ。 キリスト教に共感を抱いたのは、大学で西洋哲学を専攻していたため、たまたま聖書やキリスト教思想に多くふれる機会があったからにすぎない。もしもアラビア語専攻だったり、国文学専攻だったりしたら、イスラム教や仏教、神道に共感を抱いていたかもしれない。 僕が神として思い描いたのは特定の宗教の神ではない。僕にとっての神は特定の教義とは無関係の存在である。ではいったいどんな存在なのか、その定義を簡潔に述べれば、畏れの具現化である。 ふつうの神経を持った人間なら、人間の力のおよばない領域に触れたとき、人間の不完全さを痛感させられたり無力感を抱くことが一度ならずあるはずだ。何ごとも気合や頑張りで切り抜けられると信じているナイーブな人々は放っておくとして、一人ひとりの人間にできることは限られているし、組織されたとしても人間の知恵そのものに限界がある。完全であること、全能であることの定義がどうあれ、自分自身や人間一般が不完全であり、有限であることを認めない人はいないだろう。たとえそれを認めたくない人でも、死の瞬間には自分の存在が有限であることを否が応でも認めざるを得ない。 不完全であること、有限であること自体を、人間自身がどうにかすることはできない。その無力さは端的に畏れにつながる。畏れとは自分がいかに卑小な存在であるかという自覚のことだ。 ここで少し不思議なのは、畏れを抱く瞬間、自身を見つめる自らの視点は神に近づいているということだ。まるではるか上空からちっぽけな自分を見下ろすように自己の存在の卑小さを認めるとき、その視点はあたかも神の視点である。神の視点というのが言いすぎであれば、あらゆる可能性の中に自分を位置付ける視点である。 自分はこうもありえた、ああもありえたと、あらゆる可能性があったにもかかわらず、現在の自分は非常に限定された存在になってしまっている。そしてその可能性は一秒ごと、人間が時々刻々となんらかの判断と選択をおこないながら生きていくほどに狭まってゆき、ますます限定された存在になっていく。ところがそうするほどに世界に対する認識はかえって深まり、可能性の認識の地平は広がっていく。 自分を見下ろす視点が上空へと上ってゆき、あえて言えば神に近づいていくにもかかわらず、自分自身の存在はますます限定されていく。この矛盾が自己の有限性や不完全さを認識せざるを得ない状況に追い込み、畏れの感情を強めるのではないだろうか。 畏れは具体的な対象を持たない。持つべきではないと言った方がいいかもしれない。畏れの対象として例えば具体的な他者を置いてしまうと、自分の無力感を責任転嫁することになるかもしれないからだ。自分がこんなつまらない人間になったのは誰々のせいだ、などといった具合に。自己を刻々と限定して行くのは他ならぬ自分自身であるにもかかわらず。 このように書いてくると畏れは、人間の卑小さを自覚させる否定的なばかりの認識のようだが、実際には人間の過剰な行動を規制する合理性の源泉でもありうると考える。有限性の境界は自分自身が決めるより他ないのだが、その境界が有限であると知ってれば、たとえば化学物質によるテロごときで世界が変えられるわけがないという程度の合理性は持つことができる。 僕の考えでは、神の認識とは人間の有限性の認識であり、それは合理的判断を権利づけるものである。自分ながらとんでもない時代錯誤の言明と一見思われるが、自分自身では体現できない無限や全能といった存在の認識がまったくないところで、自己の有限性や不完全性を認識することができるだろうか。できないとすれば、なんらかの形で無限や全能を仮定していることになる。僕にとってはその無限や全能の仮定、無限や全能に対する畏怖が、神の認識と呼びうる唯一のものである、というだけのことだ。 おそらく議論を逆に組み立てるともっとわかりやすくなると思う。神の認識が人間自身の全能観につながるような宗教は、僕にとってはニセの宗教である。その神を信じれば死をも恐れない存在になれるとか、その神を信じれば人間を超えた能力を発揮できるとか、その神のためになら命を投げ出せるとか、そんなことを主張する宗教があったとすれば、その宗教が奉じている神は僕からするとニセの神様ということになる。 「本物の神様」ならば、人間が自ら有限性の境界を飛び越えて死の領域に達しようとするようなことを妨げるだろうし、人間の能力には限りがあることを認識させてくれるはずだ。自分の信じる神こそ唯一の神であると主張する人間に対して、「本物の神様」ならばその偏狭さにあきれるだろう。たかが人間の有限な認識によって、何が唯一の神であるかなど分かるはずがない。そんな声が届く人々にこそ、神がともにあるのだと僕は考える。 したがって神の認識によって判断が停止することは、原理的にありえない。神の認識はどこまで行っても人間の認識が部分的であり、有限であることを裏付けるばかりなのだから、逆にどこまでいっても自分自身の判断が正しいかどうかの検証を止められなくなる。その検証作業を止めるということは、その時点が全体であり完全であると自ら認めることになってしまうが、それはつまり、その時点で自分が神そのものになったのだという不敬な主張をしていることになる。 本当に神を畏れる人間は、いかなる時点においても自分が神そのものになったと主張することはない。つまり自分自身に対する検証作業を永久に止めないだろう。それが死によって止まるまでは、自分の考えていることは本当に正しいのだろうかと問い続けるだろう。世の中に宗教というものがあるとすれば、僕にとってはそうした不断の問いかけ以外には考えられない。 無断転載禁止
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