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ブンガクとの接近遭遇
( 20011210 )

Japanese/English

そのとき僕は自分の目に映る光景を疑った。「歩くブンガク」との出会いがこれほど卑俗な場所で起こってよいのだろうか。高校時代、恋人に無理やり連れて行かれたヴィスコンティの『地獄に墜ちた勇者ども』が僕の映画についての考え方を百八十度変え、薬師丸ひろ子主演角川映画作品を一本も欠かさず観ていた単なるミーハー少年を、ついにはゴダールの鑑賞者にしてしまったように、社会人になってから初めて読んだ「歩くブンガク」氏の著作は平井和正の小説『幻魔大戦』に夢中になっていた小学生をカート・ヴォネガットを愛読する会社員にした。

大学でフランス語を専攻しながらボードレールさえ読んだことがなかったのは、「歩くブンガク」氏の著作を読むまでの僕にとってブンガクが居住まいを正して取り組まなければならないもの、たとえ退屈であってもそれを退屈と感じるのは作品のせいではなくこちらの教養が不足しているためであると恥じ入らなければならないものだったからだ。

高校時代から読み始めた現代哲学書なら錯綜した論理の道筋をたどっていきさえすれば退屈せずに読めるが、ブンガクは簡潔な命題に要約すれば哲学書の1ページにも満たない内容を何百項にわざわざ引き伸ばして書いてある。ブンガクという行為にただ効率の悪さしか見出せなかった僕は、確かにまだブンガクにおける「表現」の問題に気付いていなかった。

映画における「表現」の問題にすでに気付いていながらブンガクにおいて同じ問題に気付かずにいたのは、同時代を生きるブンガクの可能性にまだ出会っていなかっただけのことだった。映画が20世紀のものであるのに対して僕にとってのブンガクの典型は小説であり、したがって19世紀のものだった。19世紀の小説を退屈としか感じられなければブンガク受容者失格だと決めつけていたのだ。

そんなブンガク失格の僕にブンガクの現代だけでなくポストモダンなどという名前までついた「未来」の存在を教えてくれたのが、今まさに僕の目の前で桶川駅西口のマクドナルドに入ろうとしている「歩くブンガク」氏だった。

つい30分前までブンガクは手の届かないところにあった。コンサート向けの音響効果を考えてすり鉢状に作られた築5年目の真新しいホール、その舞台中央に身の丈ほどもある大仰な生け花と恥ずかしいくらい典型的な演壇。そこに「歩くブンガク」氏の姿はあった。

開演前の館長の挨拶で「先生」と紹介されたのを恐縮しながらも、土曜の昼の公演で競馬の結果をテレビで見られない恨み言などのツカミは完璧。不況の話から良心的社会科学書・純文学書の取次である鈴木書店倒産の話題を経て、最新作の執筆の動機は現代社会のブンガク受容を考えることだったという具合に自作の解説に切れ目なくつなげる巧みな話術。まさに一人ツッコミ芸人の面目躍如たる...

いや、僕が出かけたのは「なんばグランド花月」ではない。演壇の上で展開されたのはあざやかな現代ブンガク批評だった。日本でブンガクが読まれなくなったのはあらゆる人が「読む」ことよりも「書く」ことに忙しくなったためだ。かつてブンガクは多様な個性をもつ少数の表現者たちが自らの才能を跳躍させて多数の読者へ何かを伝達する行為だったが、現代ではあらゆる人々が「書き手」となり、携帯電話で、インターネットの掲示板で、手帳に書きとめる日記で弛緩した日常を書き垂らすことに忙しく、他者の書いたものを読む暇などなくなってしまった。自己完結型の「書く」行為がブンガクを絶滅の危機に陥れている...。

訥々とした語り口から滑らかにつむぎだされる現代文明批判は会場を半分も埋めていない満員の聴衆の心を捕らえては離した。演台の高みから平易な言葉で語りかける「歩くブンガク」氏の、大学生のような貧相な姿には後光が差しているように感じられた。やはり僕にとってブンガクをブンガクたらしめているのはこの遠くて近いこの距離の往還であり、饒舌な沈黙そのものなのだ!

ところが、である。僕は自分の目に映る光景を疑わざるをえなかった。マクドナルドに入っていくのはまさに手の届かない「歩くブンガク」氏その人だったのだ。初冬の早い日が傾きかけた桶川駅までの道をぶらぶらと歩いていた僕を通りすごし、自動ドアを入って注文カウンターへ一直線に歩いていく。

僕は氏に気づかれないようにその自動ドアのとなりにあったスーパーマーケットへ通じるドアを入り、ガラス張りのマクドナルドの内部をうかがっていた。氏はロマンスグレーの長髪を肩に大きく波打たせたまま首を前へ突き出し、天井のメニューを食い入るように見つめた後、ホットコーヒーのようなものを注文して今度は席を探し始める。幾度か逡巡した後、カウンターからもっとも遠い席に座ると、競馬新聞を取り出して読み始める。氏が講演会を午後3時25分に切り上げたのも虚しく、司会者の謝辞で講演中にこき下ろした田山花袋の遺族と文学館の関係を示唆されしどろもどろ、そうこうするうちにレース結果を知りそびれたか、携帯電話で誰かしらに結果を聞こうという算段でマクドナルドに入ったに違いないのだ。

しかしそれほどまでに競馬に熱中する氏であっても「歩くブンガク」と尊敬する僕に目撃されたが最後、そんなこともあろうかと思って自宅から持参してあった朝日文庫版『文学なんかこわくない』を左手に、先程まで講演会でメモをとっていたボールペンを右手に氏の座る席に近づいていく青年は他ならぬ僕自身、ついに「歩くブンガク」氏との第三次接近遭遇を果たそうとしていた。

それが文庫本であることを恐縮しつつ本とボールペンを差し出して「サインをお願いできますか」とひとこと、「歩くブンガク」氏は無言のまま頭をペコペコさせながらボールペンの芯をどうして出したものか悩む様子で僕はあわててペンの軸をひねって芯を出して差し上げた。氏は飽くまで無言のまま文庫本の見開き内表紙にどこかで見たことのある筆跡でサインを記入、ご丁寧にその右下に「2001.12.8」という日付まで書き添えて下さった。

おそらくこれから競馬の結果を携帯電話で尋ねようという至福の時を心ない追従者に不意討ちされて不愉快千万だったはずだが、それでも無言でサインに応じて頂いた寛大さに僕は「今月、来月発売の新刊『官能小説家』『ゴジラ』は必ず買います」と約束してマクドナルドを後にした。「歩くブンガク」氏がすぐさま競馬新聞を片手に携帯電話でダイヤルを始めたのは言うまでもない。

隣の席にすわっていた女子中学生ふたりぐみは、こぎれいな服装をした青年がなぜこの大学生のような風体の中年男性にサインを請うたのか解しかねる様子でしきりに氏の方をふりかえって噂をするようだった。彼女たちの目には僕の尊敬するブンガクそのものがどう映っただろうか。

これが僕にとってのブンガクとの出逢いの一部始終だった。埼玉県郊外のマクドナルド、ホットコーヒー、競馬新聞、携帯電話。氏は講演会を終えて車で駅前まで送り届けてもらうでもなく、しばし関係者との談笑の後、ひとりJR高崎線の桶川駅まで徒歩で向かい、鎌倉の自宅まで電車に揺られて帰るというわけだ。初めて目前にしたブンガクのあまりの普通さに僕は高橋源一郎の文学に対する真摯さを切なくなるほどに感じることができた。

講演会で氏はこの半年間に4冊を上梓して20年分の仕事をしてしまったと冗談めかしていたが、明治文学の研究が反映された作品群が次の高橋源一郎氏の創作にどのような新展開をもたらすか、僕は氏の探求を最後の最後まで見届けなければと考えた。


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