最近このページで「今さらフェミニズム」という文章を書いてから、どうも気分的にフェミニズムなので、毒を食らわば皿までというわけではないが、小倉千加子の『セックス神話解体新書』(ちくま文庫)を読んでみた。
切れの良いフェミニズム評論で有名な、あの上野千鶴子をして「多芸!」とうならせた小倉千加子の、小気味よく説得力にあふれる文章は、読んでいて胸のすく思いがするが、もちろんその矛先は自分自身に向けられているのだとも同時に思わざるを得ないので、手放しで痛感がっているわけにもいかない。
この書物のねらいは2つあると思う。一つはまさに彼女の論旨であるが、文化的な性差は、生物学的な性差によっては正当化されない、というフェミニズムの根本的な命題である。
こう言っても、よく分からない方もいらっしゃると思われるので、本来はこの書物を直接あたってほしいのだが、僕なりに簡単にまとめてみる。
ボーヴォワールの言葉を借りれば、「女(男)は女(男)に生まれるのではない。女(男)になるのだ」ということになる。男が男らしいのは、男性ホルモンやペニスがあるからではなく、男らしく、男らしくと育てられるからだ。女が女らしいのも、同じ理由。男らしさと、女らしさは、その人の解剖学的な性別とはまったく関係ない。
まだ信じない人は、この本の第五章「性欲は本能か?」だけでも、本屋で立ち読みしてほしい。この章で小倉千加子は、いわゆる「野生児」(狼などの野生動物に育てられた子供)の観察例を引き合いにだしている。
野生児っていうくらいだから本能むき出しだろう、とふつうの人は思う。しかし、1799年にフランスで発見され、フランソワ・トリュフォーの映画の題材にもなった「アヴェロンの野生児」(男の子)や、1920年インドで発見された2人の野生児(女の子)は、ついぞマスターベーションはおろか、性的な関心を示す行動さえしなかったというのだ。
なぜか?その理由は、彼ら野生児には「自分は男(女)の子である」という自己認識が完全に欠如していたからだ。では、なぜ自己認識が欠如していたのか?野生児には言葉がないからだ。言葉がなければ「自分は男(女)の子である」という考えそのものを持つことができない。
ほとんどの人が、男が女の体を求め、女が男の体を求めるのは「動物的な本能」だと思いこんでいるが、実は人間のセクシュアリティーは、ひじょうに文化的で知的な現象なのだ、と小倉千加子は言っている。
さらに小倉氏は、身体的には男性(女性)なのに、女(男)の子として育てられた人に関する学術研究を引用している。それによれば、ある年齢まで男(女)の子として育てられた人が、後に解剖学的に女性(男性)と分かった場合、ほとんどの人が解剖学的な性転換を選んだということだ。
つまり、「ペニスがあるから男の子らしい」というのは単なる俗説で、本当は「ペニスがあろうがなかろうが、男の子らしく育てられれば男の子らしくなってしまう」のだ。
(ちなみに小倉氏は、生物学的な性差と文化的な性差の因果関係を否定するために、上記のような例を引き出し、言語の獲得と文化的な性差の獲得時期に関連性をみているが、ある意味でこれは、文化的な性差の固定化をあきらめさせる論旨にもなり、ちょっと危険かも。つまり、「じゃあ男の子らしくない男の子を育てたいと思ったら、言葉の話せない子供にするしかないのか?」という暴論の余地ができてしまう。小倉氏の論旨を正しくくめば、「今の世の中で言われているのとは別な風に『男(女)らしく』育てることもできる」ということだ。)
このように、男は生まれながらにして男らしい、という通念は、女は生まれながらにして女らしいという通念とおなじくらいバカらしい。ここまでくると、次は、じゃあ今日本で「女(男)らしい」とされているステレオタイプが、良いことか悪いことかという価値判断に議論が移る。
これについては、ここで要約する余裕もないので、本書をあたっていただくしかないが、ひとつだけ彼女が上野千鶴子を引用している個所を孫引きしておこう。
「女を守るのが男の役目だ」と思い込んでいる男たちは、愛についてこんな「不毛」な考え方しかできない小倉氏や上野氏を「不幸な女」と決めつけるだろう。
ここにこの書物のもうひとつのねらいがある。つまり、女性差別の問題を、いかにして個人的な問題から、いわば「社会的な」問題にひきずりだすか、ということだ。
フェミニズムに対するアレルギーの典型的な現われ方は、「小倉千加子や上野千鶴子という女は、不幸な恋愛体験しかないのだ」という、女と男の力学を個人対個人の水準でしか考えることができない貧弱な想像力の形である。
こうしたアレルギーを起こす人々は、自分の「男らしさ」「女らしさ」ひとつをとっても、いかに個人の力をこえた社会的歴史的な文脈に決定されているかに鈍感なのだ。
もちろん、自分の女(男)らしさが、実は社会から押し付けられたものだと悟ったところで、すでに獲得してしまった女(男)らしさから逃れられるわけでもない。僕自身、すでに他のページでも述べたように、男らしく育っていることによって、フェミニズムに決定的にコミットできない限界を持っている。
ただ、そこですべてを個人的な問題として回収してしまうか、それとも今までとは別の視点から考え直すか、そこに人生が豊かさがかかっているように思うのだが。どうでしょうか?
愛というのは「夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを夫の目的に総動員するためのイデオロギー装置」である(p.134)