自分だけで意思決定して行動する生活を送っている間は発見できなかったことを今さらながら発見した。これが「生活」というものおもしろさだとすれば、やはりひとりで生きるのはつまらないことに違いない。
毎年夏、埼玉県の南越谷駅前で行われる「南越谷阿波踊り」を見た。読者の中には、阿波踊りがこのページで取り上げるにふさわしいテーマか?と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。だが、踊るということは人間にとって本質的な行為である。言語が「概念の形式化」であり音楽が「時間の形式化」であるなら、舞踏は「空間の形式化」に他ならないからだ。
そして阿波踊りにも形式化のためのコード(規則)が存在する。まずお囃子が二拍子のはねるリズム(タッタタッタ...)によって基本的な形式化をおこなっている。正調は「付点4分音符+8分音符」の組み合わせだが、今回流し踊り(通りを歩きながら踊ることで舞台上で踊る「舞台踊り」と区別してこう呼ばれる)を見た限りでは例外的なリズムもあるようだ。二拍子ではなく四拍子のサイクルになっているもの、また、「付点四4分音符+16分音符+16分音符」という具合に16ビートのように聞こえるものもあった(ヤンマーディーゼルの「かかし連」)。(注:阿波踊りの1グループは「連」と呼ばれている。流し踊りでは複数の連が順番に沿道の観客の前を踊りながら通過する。Yahoo!Japanのカテゴリー「連」を参照のこと)
はねるリズムといえばHIP&HOPを連想するが、阿波踊りとHIP&HOPとの差異は「前ノリ」か「後ノリ」かである。一般的にHIP&HOPは後ノリなので引きずられるようなgroove感を生み出すが、阿波踊りは前へ前へつっこむspeed感が魅力になっている。前ノリのspeed感という点では最近流行の「パラパラ」(=ユーロビート)に通じる。阿波踊りとパラパラ、どちらが難しいかと言えば阿波踊りだろう。阿波踊りははねるリズムが「ため」を要求するので腰を使わなければ踊れないが、ユーロビートは上半身だけで踊れるからだ。
またお囃子は一定の速度ではなく、しだいに速くなってまたもとの速さにもどるという具合に変化する。お囃子の速度は踊りの高揚感とパラレルになっているようである。なおお囃子のリズムは鉦(かね)がリードして、他の楽器はそれに追従するルールになっている。お囃子が始まるときの鉦のテンポでお囃子の基本的な速度は決まってしまう。
次に踊りそのものの形式化のコードだが、大別して踊り手たちのフォーメーションと、個々の踊り手の振りつけの2つのレベルに分割できる。踊り手たちのフォーメーションは「女踊り」の群舞にもっともよく現れている。基本的には格子状に整列しているが、一人ひとりの間隔が広がったり狭まったりして密度が変化するほか、踊り手たちの進行方向が一斉に右前方から左前方へとジグザグの動きになるなどする。これら統一された動きが際だつのは、基本的に踊り手たちがまったく同じ振りを踊っているためであることは言うまでもない。
一方個々の踊り手のレベルでの形式化のバリエーションは「男踊り」において顕著だ。バリエーションの詳細についてはこちらのページ「阿波踊り」をご覧頂きたい。正統的な「娯茶平」から、提灯を持って踊り狂う「阿呆連」など、いくつかのパターンがあるようだ。実際に南越谷阿波踊りでもこれらのパターンが観察できた。
しかし個々の踊り手レベルでの形式化は一定のパターンにおさまらない広がりを見せていた。南越谷阿波踊りでも踊り手の個性がしっかりと刻み込まれた形式化を堪能することができる。
二つ例をあげよう。一人は女性ながら男踊りをしている踊り手で、茶色く脱色したショートカットに鉢巻きもないという、ずいぶん今様な容姿で踊っているが、八重歯をにっこりと出し、満面の笑みをたたえたままゆっくり沿道の観客に向かって踊り寄ってくる。その手の動きは途中で決めを一切つくらず宙をなめらかに動いているのに、それでも阿波踊りのはねるリズムをちゃんと表現しながら美しい曲線を描いている。その曲線と仮面のように動じない満面の笑みが、これ以外の組み合わせはないと思わせるほど共鳴しあっているのだ。
もう一つは先述の「かかし連」のちびっこ踊りのすぐ後ろ、太鼓腹のお兄さんが男踊りながらわざと手先の細かい動きで小さく小さく宙に形を描きながら、顔の表情はひょっとこのようにすっとぼけた百面相で踊っているというもの。まるで上質の落語を見ているような笑いを誘っていた。
その他にも個性的な踊り手が次々と登場し、沿道に座ったまま眺めていても決して飽きるということがない。この事実には驚かされた。阿波踊りは様式化が進んでいる分だけ逆に踊り手の個性を表現しやすいという面があるのだろう。様式化が退屈さを生み出すのではなく、思いがけず豊かなバリエーションを産み出していることに驚いた。阿波踊りも盆踊りも同じだというレベルの認識しかお持ちでない方は一度自分の目で確かめてみられると良い。
個々の踊り手レベルの様式化についてもっと細部に注目すれば、足の動き一つとってもいくつかのパターンがあることに気づく。阿波踊りのステップはつま先を外側に向けながら踏まれるが、足首を交差させるようにして前へ歩んでいくステップと、足首を交差させずにつま先で一度地面を蹴るようにブレークを入れてから足を下ろすステップの2種類があるようだった。おそらく他にもいくつかステップのパターンがあるに違いない。
甲高い鉦のビートにのって軽やかなステップで踊る踊り手を見ていると、こちらも踊りたくてうずうずしてくる。「同じ阿呆なら...」とはよく言ったものだ。しかし人が舞踏へといざなわれるのは、そこに形式化というある種の「不自由さ」があるからだ。一定のコードであらかじめ組織化された空間をいかに巧みにすりぬけるか。
コードを引き受けることによって初めて人は自由を手に入れる。たとえば言語においては文法にしたがうことではじめて表現する自由を手に入れる。その言語による表現の喜びと同じように、舞踏の一義的な喜びも形式化を引き受けることから始まるのだ。
最後に。今さらながら「阿波踊り」の様式美に気づくチャンスを与えてくれた僕の大事な人に感謝したい。