思想史上デカルトのコギトは近代的主体の確立とされる。主体の観念は、世界を対象化して自己の表象に還元する主体を意味し、他者と自同者の本質的な差異を隠蔽するとして批判される一方、存在の次元で絶対他者との出会いを経験する主体をも意味するとして、その重要性が再評価されている。主体性の観念の再評価は、結果としてその創始者といわれるデカルトの形而上学の再評価につながっている。デカルトは他者の問題を看過していたわけではなく、それを考える主体と神との関係の問題として提起している。
デカルトにおいて主体と他者との関係は、第一に無限と有限の対立の形で現われており、この対立がデカルトの形而上学を最深層で規定している。無限とは、無限な存在および無限の観念として認識される神と、その無限を分有している人間の無限な意思である。一方、有限とは、人間の有限な理解・認識、その他の諸能力である。主体は無限な神を認識しうるが、その無限の認識が、認識そのものの限界を画すると同時に源泉となる。
デカルトの「省察」においては、認識と理解の二つの能力を厳密に区別して扱わなければならない。両者の本質的な差異は、神が認識可能であるが理解不可能であるという、主体と絶対他者との関係に見出される。理解は、その対象が何であるか、つまり対象の本質にかかわり、認識は対象が存在するか否かのみにかかわる。そこに本質の水準と存在の水準の本質的な差異がある。認識が神をも認識しうるという事実が、デカルトの思想に存在論の次元を与えている。われわれは、その存在論の水準の重要性に注目する必要がある。
ところで、デカルトにおける理解力は、デカルトのいわゆる「科学的意識」と同義である。一貫性を固有性とする理解力は、すでに認識された事物を対象化して、因果律を原理に閉じた体系を構築する。他者への参照を必要とせず、内的な整合性のみがその正当性を保証している。したがって誇張懐疑においては、整合性を破壊する誤りの原因として仮設された「欺く神」によって疑われる。「欺く神」の仮説は、事物の実在に関わりなく機能している理解力の内的な整合性のみを麻痺させるので、もとより理解力が対象としている事物の実在を否定することはない。
一方、認識は、懐疑の段階では主体と他者の実在のみにかかわり、懐疑が解除された後には神や事物の実在に関わる能力である。認識は、理解力が自己自身に一貫性という正当化の原理を与えているのに対して、自己自身を正当化する原理を持たないために、絶えず他者へと送り返す。つまり、他のすべての事物と主体の認識を可能にしている、無限の認識に絶えず参照されなければ、成立しない能力であり、その意味において、常に他者に開かれているといえる。また、認識の妥当性は、認識が絶えず送り返す他者が、善なる神であるという証明を待たなければならない。
そして、認識は誇張懐疑において、事物の存在そのものを疑う「悪霊」の仮説によって懐疑の対象となる。「悪霊」の仮説は事物の実在を否定することによって、認識の基礎となる主体の実在そのものを脅かす。のみならず、他者である「悪霊」と関係する唯一の手段である認識能力を脅かすことで、主体と他者との関係を疑問に付す。そこに、「悪霊」という仮説を立てている言語そのものが危機に立たされる。この点において、「悪霊」の仮説の尖鋭さが最大になるのである。
しかしデカルトは、他者と主体の関係の問題に対して、神の生得観念という解答を予め与えている。「欺く神」や「悪霊」の仮説の暫定的な性格はそこに起因している。デカルト自身による他者と主体の関係の問いかけは、「悪霊」の仮説が取り除かれた時点で終わる。
ただ、われわれは引き続いて、神という無限の観念そのものに他者と主体の関係の問題を問い続けることができるのではないか。つまり、絶対他者である理解不可能な神の観念が、なぜ主体の内部に存在しうるのかという問いである。デカルトが暗黙裡に前提としている、主体と他者との最初の出会いに向けて、問いを発していくことができるのではないか。それが、デカルトを端緒とした、哲学の現代的な課題であり、永遠に有効な「省察」の射程を正当に評価することになるのである。