think or die :
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人たちのための
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おせっかいの供給過剰
日本的悪しき平等主義のもう一つの病弊
2001/12/09

今日、とっても不愉快なテレビCMを見た。公共広告機構のCMだ。朝の満員電車でつり革につかまっている中年サラリーマン、正面に座っている同年輩のサラリーマンが脚を組んで貧乏ゆすり。窓際に立っているやはり同年輩のサラリーマンは携帯電話で話をしている。つり革のサラリーマンは乗車マナーを守らない彼らに顔をしかめるが、よく見ると彼らの顔が自分の顔になっている、というCM。つまりは、他人のマナーの悪さを不愉快に思っているあなた自身、周囲に不愉快な思いをさせていないかどうか反省してみましょう、という教訓である。

しかしもっとも不愉快なのはこのCMそれ自体である。公共広告機構の他のマナー広告シリーズに「自己チュー」というのがあるが、これも電車など公共の場でマナーを守りましょうと訴える内容であることには変わりない。

よく考えてみて欲しい。満員電車に乗っていて中年男性が必要以上に大股を広げて座席を占有している。たしかにそのために一人、二人座れないかもしれない。だがそれがどうしたというのか。そんなことにいちいち目くじらを立てる暇があったら、そんな下らない人間のことは無視して読書なりで自己啓発にでも努めたほうが余程生産的な通勤時間の使い方ではないか。

公共マナー広告全般に言えることは、明らかに逆効果であるということだ。もしマナー広告がなければ、僕らはそれほどマナーの悪い人間たちのことを気にする必要がないだろう。ところがマナー広告というものが倦まずマナーの悪い人間たちを攻撃し、彼らのマナーを正すのが良識ある人間の義務であるかのように喧伝しつづけるために、僕らはかえって彼らに対する苛立ちを増幅させられるのである。

電車内の馬鹿丁寧なアナウンスも同罪だ。「車内での携帯電話のご利用はご遠慮ください」と繰り返されるたびに、まるで車内で携帯電話を使っている人間を無視することがかえって一種の罪であるかのように刷り込まれる。例えば日本語のわからない外国人が車内で携帯電話を使っていたとしたら。あるいは日本のように電車やエレベータに乗り込んだとたんに示し合わせたように黙り込む奇妙な習慣のない国からやってきた外国人が、電車の中で大声で談笑していたとしたら。あなたはいちいちそれら外国人たちに対して腹を立てるだろうか。いや、「日本語が分からないから仕方ないな」「日本の習慣にまだなじんでいないから仕方ないな」とあきらめるだろう。では同じことをやっている日本人に関して、どうしてさっさとあきらめられないのか。

それはおそらく、次の二つのいずれかの理由がある。一つは「注意すれば直るはずだ」という彼らに対する余計なおせっかいである。もう一つは「マナーの良いわれわれが注意してらやなければ」という思い上がりである。

前者の理由の背後には、本来電車に乗っているすべての日本人はマナーを守ることのできる教養人であるはずだが、たまたまマナーの悪い人たちは今までそのことを注意されたことがないために、それが悪いマナーであることを知らないだけであって、一度注意されればマナーを守ることができるようになるはずだ、という理論、ひとことで言えば彼も我も同質の人間であるという予断がある。

しかしそうであろうか。小学生、中学生に対してならまだ教育的な効果があるかもしれないが、おじさん、おばさんに対していまさら注意してマナーが良くなるなどということが期待できるだろうか。彼らは今までマナーの悪さを再三にわたって注意されてきたにもかかわらず、それを無視してきた人間であると考えるほうが自然ではないか。

つまり、中年になっても電車内でのマナーごとき基本的な礼儀を身に付けていない彼らと、それらのマナーを当然のように身に付けているわれわれとは人種が違うのだ。別の言葉でいえば「階級」が違うのである。誤解のないように付け加えれば、僕の言う「階級」と職業とは何の関係もない。サラリーマンであっても粗悪な人間は粗悪な「階級」だし、肉体労働者でも紳士淑女は紳士淑女である。

日本人はどうしても「みんないっしょ」という先入観から脱っすることができないらしい。だから乗車マナーの悪い人間も注意すれば更正すると勘違いしている。実態は日本人どうしの間にもれっきとした精神的な「階級」の差異が存在するのである。子供の頃に最低限のマナーという教育さえ受けてこなかった粗悪な階級と、当然のこととしてマナーを守るよう教えられた良質な階級の2つの階級が存在するのである。

公共広告機構のマナー広告を量産している制作者たちは、そうした厳然たる精神の階級差を認めることができない「悪しき平等主義」なのである。

そうでなければ彼ら制作者たちは「悪しき啓蒙主義者」である。さきほどの二つめの理由、「マナーの良いわれわれが注意してらやなければ」という思い上がり。マナーの悪い下々の者どもはマナーの良いわれわれが啓蒙してやらねば人間並みになることができないという優越感が彼らをしてマナー広告を作らせている。

彼ら制作者たちが真の平等主義者ならば、マナーの悪い人間たちのマナーの悪さをあげつらうような偏狭なCMは作らないだろう。マナーの悪い人間たちはマナーの悪いままで受け入れてやればいいのだ。法律にでもふれない限り、それが彼らの「個性」なのだから。

僕個人の意見では精神の階級差を認めて、マナーの悪い人間たちは多めに見てやればよいと考える。彼ら粗悪な人間の質を引き上げるために何千万円もつかってテレビCMを作るなら、その同じ資金を交通遺児でも奨学金基金にでも拠出して、精神的に紳士淑女でありながら経済的な事情のために自己研鑽の機会を与えられない人々のために使うほうが、どれだけ社会のためになるか知れない。

結局のところマナー広告や電車内の口うるさいアナウンスも、日本の「悪しき平等主義」が産み出したムダ以外の何ものでもない。同じ労力を費やすなら、心豊かな人がより豊かになるために、向上心のある人がより向上するために腐心することこそ、真の良識と言えるのではないだろうか。