恋愛に不器用な人間ほど恋愛について多弁になると言われるが、僕もその一人であることを断っておいてから、今日は恋愛の政治学についてのお話。このホームページをすでにお読みの方は、僕がふつうのサラリーマンに比べてかなりストイック(禁欲的)な生活を送っていることがお分かりかと思う。タバコ・酒・賭け事・マージャン・車・おねーちゃんのいるクラブ・風俗・スポーツ新聞・マンガ雑誌はすべて、僕の生活に存在しない。
しかし、だからといって僕が恋愛を忌避すべきもの、軽蔑すべきものだと考えていると勘違いしてもらっては困る。もちろん恋愛が人生の全てだ!と言いきれるほどの恋愛至上主義者ではないが、恋愛を否定的に考えることは僕にとって罪である。それは単に僕がロマンチストだからではなく、ちゃんとした論理的背景がある。
まず「恋愛の日本近代史」のようなものを考えてみよう。恋愛の日本近代史を考える手がかりは、見合い結婚と恋愛結婚の差異である。古代・中世の日本は通い婚に見られるように、貴族の間でさえ自由恋愛がふつうだったし、結婚制度の強い束縛はなかった。
しかし武士の社会になり、封建制度が強化されるにしたがって、自由恋愛は影を潜め、男女の関係は飽くまで家を存続させるためのお飾りになってしまう。強い家父長制の下で結婚とは家と家の関係であり、結婚する当事者どうしの個人的感情は二次的な問題でしかなかった。(だから僕は時代劇や時代小説が大キライなのだ。時代劇に登場する恋愛物語は現代の脚色でしかない。農村や漁村では事情がかなり違っていたらしいが)
明治時代になって西洋をお手本にした近代化が進むとともに、女性の側から家父長制に縛られない、個人と個人の自由な結びつきによる恋愛の復権が唱えられた。みなさんもご存知の与謝野晶子などがその例だ。長い封建制下での徹底的な女性差別を経験した日本の女性にとって、恋愛と個人の自由は不可分のものだったのである。自由恋愛の復権が、大正デモクラシー下での婦人参政権運動など、女性の市民的自由の運動と並行していたことからもわかる。
(ちなみに恋愛と言ったとき異性愛だけでなく同性愛も含むが、異性の自由恋愛さえまだ困難だった時代に、同性愛であることを自己肯定して生きぬいた吉屋信子のような存在も忘れてはならない。ちなみに僕は彼女の『花物語』の復刻版を持っている)
このように日本の近代史では、恋愛と家父長制は完全に対立している。たとえ現代にあっても恋愛を否定的に考えることは往々にして「亭主関白」など家父長制の名残りと手を結びやすい。もちろん現代の日本が家父長制ではないとすればの話しだが(これはもちろん皮肉。現代の日本もれっきとした家父長制であり、今でも結婚が家と家との結婚である場合は多い)
しかし恋愛と女性の解放が完全にパラレルかと言うと、そうでもない。女性が市民的自由を獲得するために「女も男並みに」という考えがベースだった時代には、恋愛はなによりも封建制度からの解放だった。しかし恋愛そのものが男女の役割分担や、男らしさ・女らしさについての先入観を植え付ける装置として働いているのではないか?という疑問が生まれてくる。
この時代のフェミニズムは「女も男並みに」という主張が、実は男性的なものの優位という先入観を含んでいるという指摘から始まっている。現代日本の身近な例で言えば、バリバリのキャリアウーマンと腰かけOLの「対立」だ(この対立の構図自体、実は男性が作った雇用制度によるものなのだが)。男並みになることと、女性としての自分を肯定すること。この二つを両立させるのは古くて新しい問題のようだ。
その中で恋愛も、別のかたちで男らしさ・女らしさを固定化する装置になり得ることが批判され始めた。封建制度が社会的な女性差別だとすれば、恋愛は「心理学的」な女性差別になり得る。封建制度は外部からの圧力なので、それが差別であることは分かりやすいが、恋愛はハリウッド映画のラブロマンスのように、非常に巧妙なカモフラージュがほどこされているので女性差別に一役買っていることが見えにくい。
恋愛批判がここまでラディカルになると、フェミニズムにも「分離派」のような流れが出てくる。つまりレズビアンでなければフェミニストじゃないという、かなり過激なフェミニズムだ。ただここまで来ると、いったい何のためのフェミニズムか、ということになる。レズビアンだけのユートピアを作ってそこに逃げ込むことがフェミニズムなら、そもそもフェミニズムなど必要なかった、てなことにもなりかねない。ユートピアから排除された現実は依然として醜い女性差別の世界のままだからだ。
というわけで今は、個人的な体験から出発するフェミニズムが生まれてきているそうだ。あまりに教条的になりすぎたフェミニズムからの揺りもどしということかもしれない。しかし具体的な生活や人間関係から始めるというスタンスは、誰もがフェミニズムについて考える必要があるということを示している。他人事ではないというわけだ。
さて、かなり脱線してしまったが、現代のフェミニズムにおける恋愛は、おそらく他者との関係の中で自分の男性性・女性性をどう肯定するのか、それを考えるための絶好のチャンスということになるだろう。
最後に、恋愛に対する否定的な見方は、別の側面から女性差別につながる可能性がある。よく硬派な(=「右翼的」な)モノの考え方で恋愛を否定する男性がいる。精神と身体の二元論を前提として、純粋な精神は高尚、身体(肉欲)は堕落と考える、ある種の禁欲主義だ。しかし実際にはこうした硬派な禁欲主義は、女性を人格のない性器に切り詰めてしまうかなり過激な女性差別と隣り合わせだ。第二次大戦中の日本が封建時代以上に女性差別的な社会だったことを考えればすぐ分かる。
いずれにしても恋愛(異性愛・同性愛含む)に対する否定的な見方には、あまり良いところがない。むしろ封建制度や心身二元論という古い時代の考え方へのバックラッシュという欠点のほうが大きい。以上が、僕は恋愛至上主義者ではないが、少なくとも恋愛に否定的な見方には絶対に賛成できない理由である。