think or die :
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私は他者である
『現代思想の冒険者たち13 ラカン』
1998/09/09

講談社の『現代思想の冒険者たち』シリーズの第13巻、ラカン(福原泰平著)を読んだ。

ほんとうは同じシリーズで、いまだに僕のいちばん尊敬する人物である高橋哲哉先生が書いた『デリダ』を読むつもりだったのだが、高校時代に『テレビジョン』を読んで以来、さっぱり理解できないせいで心に引っかかりつづけているラカンの方に思わず手がのびてしまった。

社会人になってからも、ラカンの影響を強く受けているシジェクの著作に手を出しながら、背景にあるラカンの理解が不十分なためあまり楽しめなかったりと、欲求不満の状態だったこともある。

ちらりと立ち読みして、今までに読んだラカン関係書の中ではいちばん読みやすそうだと思ったので、ほんとうは日本経済新聞社『英文会計入門』でも買わなきゃいけないお金を、こちらの方にいつぎ込んでしまったというわけだ。

著者の福原氏自身が「あとがき」に書いているように、この書物はどこまでがラカンの思想の忠実な紹介で、どこまでが著者の読みであるのかはっきりしないところがある。しかしそれはこの本の欠点ではなくて、むしろラカンの入門書にしてはとても面白く読める書物となっている最大の理由である。

今、「どこまでがラカンの思想の忠実な紹介」と書いたが、この本を読んで考えさせられたのは、いったい「ラカンの思想の忠実な紹介」など可能なのだろうか?ということだ。

僕が今まで、「ラカンはよう分からん。『エクリ』の邦訳なんて読もうものならますます混乱の泥沼にたたきこまれる」と思っていたのは、実は正しかったのではないか?つまり、ラカンの思想そのものが、正確に語ろうとするとつねにすでにズラされてしまうような種類の思想だということだ。

その理由のひとつは、ラカンの思想が、人間の自我獲得(じっさいには永遠に獲得されることはないのだが)という時系列を扱っていると同時に、彼の思想そのものが生涯をつうじて変化しつづけているという、二重の意味での時間の流れが含まれていることがある。

このようなラカンの思想を「理解」するためには、30代のラカン、40代のラカンといった具合に、それぞれの時代のラカンの思想を便宜上スチルショットとしてとらえるしかないが、そうしたとたんに、ラカンのダイナミズムが排除されてしまう。著者も指摘しているように、むしろラカン自身、その時その時の自分自身を否定することで、自らの思想を形成してきたのではなかったか。

「ラカンは××である」と言明したとたんに、それは間違いになってしまう。ラカンの思想とはこのような性格を不可避的に帯びているのである。この本を読んで、少なくとも僕がなぜ今までラカンをとりこぼし続けてきたか、その理由がわかったような気がする。

また、近代合理主義が市民社会を形成するために発明した「自我」というフィクションを、根本的に否定したところに成立している点で、ラカンはたしかに「構造主義者」であり、「構造主義者」としてのラカンは比較的理解しやすい。

自我は、気がついたときには(?)すでに他者の言語によって構成され、しかもその他者の言語も、自我そのものではなく、自我が消し去られた痕跡しか提示することができない。このような自我の理解は、レヴィ=ストロースやデリダをかじったことのある僕にとっては、おなじみのものである。ラカンは意外に近くにいた。

ただ、斜線を引かれたS、S1、S2、小文字の他者aなどが導入された図式は、やはり僕には理解できない。おそらく精神分析の臨床と深く関わっているためだろうし、エメなどラカンの初期の症例分析に当たるべきだろう。

ところで、僕はラカン研究者ではないのだから、いったいなぜ今ごろになってラカンの入門書を手にとってしまったのか、この自分自身の行為が隠蔽しようとしているものを自己分析してみなくてはならない。

先日、僕の卒論の要約をこのホームページに載せたところ、大学院で哲学を研究している知人(というよりほとんど身内同然の人)から、「私の問題意識に近い」という感想をいただいた。

その人はプロの(?)哲学者を目指して研究している人であり、僕のような「日曜ポストモダニスト」とはレベルが違うので、この感想も真に受けるわけにはいかないのだが、僕がサラリーマンになった今でも「他者」の問題を考えざるをえない状況に置かれていることは確認できた。

現代思想の研究者でもない僕が、なぜいまだに「他者」問題を考えつづけなければならないのか?それは、いつからか僕が世界に対して抱いている「違和感」や「異邦人感覚」といったものが、ふつうの企業に就職することでさらに先鋭化されたからに違いないのだ。

大学在学中は、親友たちが、文学徒もふくめて、そろってこの手の(現象学のタームで言えば)「超越論的」な問題に取り組む人たちだったため、僕の世界に対する違和感は忘れられていた面があった。

しかし、そんな超越論的な世界から、就職によって一気に日常的な利害関係に左右される世界で生活するようになって、なつかしい「違和感」が回帰してきたのだ。

断っておくが、僕は超越論的な世界が高級で、世俗的な世界が低級だということを言いたいのではない。実世界から遊離した抽象的な思考に向いている人間として、今の環境に強い違和感を感じるというだけのことだ。

会社員生活も5年目に入って、僕はようやくこの違和感を楽しめるようになってきた。別のページにも書いたように、まさに熱帯地方にフィールドワークに出かけた民俗学者のように、今の環境における自分の「他者性」や、逆に、営利企業という偉大な「他者」とのインタラクションを、ゲームとして楽しめるようになったということだ(遅い!と言われそうだが)。

もちろんそれは、僕がいまでも超越論的な次元とつながっていて、いつもメタレベルから今の自分を見下ろすことができるからだ。ただ、あまりに実世界にのめりこんで、無用なパワーポリティクスに翻弄されると、自我は欲望をはぐらかされつづけて、ますます自分がたんなる空無であることを思い知らされるばかりだ。

そんなときは、営利企業という「他者」によって提示される「出世」という欲望は、最初に失われたものの痕跡でしかないことを確認することも必要だ。その作業が僕にとっては、超越論的なレベルで「他者」問題を考えることである。

もちろんそこにも僕の真の自我を措定できるわけはなく、ふたたびサラリーマンとして「出世」を欲望しつづける僕に送り返されるわけだが、このような2つのレベルの往還で成り立っている分だけ、僕の生はより豊饒であると思いたい。

以上が、現在の僕にとっての「他者」問題の位置づけである。