昨日のNHKスペシャルはなかなか面白かった。タイトルは『ある課長の自殺』。この不況の時期なので、不動産投資に手を出した課長が責任をとって自殺でもしたのかと思いながら見ていたら、どうやらそうでもないらしい。
純粋な技術者肌で、コツコツ実績を積み上げてきた社員が、課長に昇格。コストの厳しいプロジェクトの受注に向けて、きまじめな技術者らしく研究開発、下請け業者との価格折衝などに打ち込み、ようやく受注にこぎつける。しかし会社は彼の管理者としての能力に限界があると判断し、課長から技術者へ降格。それから間もなく、彼は自殺する。
番組は関係者の匿名インタビューや自殺した課長の遺書など、事実を伝えることに徹していた。このあたりは、さすがNHKといったところ。民放だったら「不況自殺」とかおどろおどろしいタイトルで、とってつけたような結論になるだろう(とくにテレ朝)。
この課長の自殺は、いろんな読み方があると思う。
「優秀な技術者、かならずしも優秀な管理者にあらず」という紋切り型で片づけることもできる。じっさい番組中で、部長のインタビューとして、「なんでもひとりで抱え込む性格が災いした」という発言もあった。
サラリーマンというもの、ひとりで抱え込むのではダメ。どこまで上司に相談して、どの程度自分で判断するか、そのバランスが大切、というもっともらしいご意見である。さすが部長!
それにこの部長は、彼が自殺した理由が分からないと言う。今の職場が合わないなら、他へ移るよう上司に相談することもできるだろうし、転職も選択肢に入るだろう。他にいくらでもやり方があるのに、なぜ死を選んだのかまったく分からない、というのだ。
実践的に考えれば、彼は課長の重責で明らかにウツ病になっていた。残業つづきで時には徹夜もあり、プロジェクトが暗礁に乗り上げている最中に突然、引越ししたりしている(ちなみに彼は独身だったようだ)。
周囲の目にも疲れは明らかで、ウツ病患者に向かって「他にいくらでもやり方があるのに」というのは上司である部長としては無神経もいいところだ。疲れ切って正常な思考が働かなくなるのが「病気」なのだから。
つまり、この会社は社員のメンタルヘルスに有効な対策を打てなかったという意味で非難されるべきである。
ただ、どこの会社でも同じようなもんだ、ということは僕も承知している。会社がメンタルヘルスのケアと言っても、それは単なるリップサービスである。会社にそんなことをやる金やヒマがあるわけがない。会社にとって社員は所詮、代替可能な消耗品である。
もう一つの問題は、会社組織には「明らかに不可能なこと」をチェックする機能がないということだ。社員の立場から言えば、いくら困難な仕事を任されても「できません」とは死んでも言えない、ということである。困難なプロジェクトを抱えて、結果的に彼は死んでしまったのだが。
その他の問題として、出世することが本当に幸せなことか?という根本的な命題がある。サラリーマンたるもの、出世を目指さなければ生きている意味がない、みたいな言い方をする人は多いが、本当にそうだろうか?一技術者としてこつこつ仕事をし続ける人がいてもいいし、収入ばかりが増えて生活がすさんでしまうのでは本末転倒だ。
この点については、今、日本企業の管理職ポストが不足気味なので自然に解消されるだろう。また、会社の上役にそそがれる世間一般の目も、だんだんと冷たくなってきているので、それもけっこうなことだ。
で、最後に、実はこれが本当にこのエッセーに書きたかったことなのだが、自殺した彼は「不幸」だっただろうか?
彼が死ぬ場所に選んだのは、高校時代、彼の技術者としての人生を決めた化学の教師と修学旅行でおとずれた山陸の海岸だったという。
自殺の直前、新しい課長を迎えた会議では、彼が受注にこぎつけたプロジェクトの問題点が再検討された。すべて彼がひとりで抱え込んでいた問題点である。その席で彼は、肩の荷が下りたようなすっきりした明るい表情をしていた。彼は決意をすでに固めていたのだ。
会社経営にいきづまり借金で首が回らなくなった経営者といった、追いつめられた死ではない。この点だけが彼の遺族にとっても救いになっているに違いない。
季節は自殺が多くなるという新緑のまぶしい頃。目の覚めるような緑を電車の車窓から眺めながら、想い出の土地にむかう彼は、至福の表情をたたえていたのではないかと思う。30年前、山陰線の貨物列車に飛び込んだ高野悦子がそうであったように。
以上。自殺者の話になると妙に感傷的で同情的になってしまう〜。