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今さらフェミニズムその2

幸福とはなにか

1998/02/14

最近、このページを読んでくださったある女性とメール交換するなかで、改めてフェミニズムってなんだ?と考えさせられた。

女性が開設しているホームページをいくつかのぞくと、それぞれの考え方が垣間見られて興味深い。一方で塩野七生の「男女不平等のすすめを実践している」と公言してはばからない女性もいれば、塩野七生の「無意識な名誉白人感覚」を批判する女性もいる(僕個人は、塩野七生には組しかねるが)。

昨日たまたま目にしたTV番組では、女性の直木賞作家が胸のすくようなラジカルさで一人の人間としての自立を男性にも呼びかける一方で、同じ番組の街頭インタビューでは、「私は結婚したら家庭を守るために仕事をやめます!」と言い切るOLがいる。

僕の身近なところでは、どちらかと言えば、おそらく家庭的な幸福に人生を見出すだろう女性が大半だ。

もちろん僕は、いまさら「男は男らしく、女は女らしく」などという神話を信じている人を相手にするつもりはない。そういう方々には「think or die」の言葉を捧げるだけだ。

また、男性である僕が、塩野七生を「セクシストだ!」と糾弾する権利がないことも分かっている。フェミニズムの考え方は非常にデリケートで、あるフェミニストたちは同性に対しても容赦なく批判の矛先を向ける分離派であり、別のフェミニストたちは同性どうしの不毛な闘いをしりぞけ、fraternityに対するsororityを掲げる。

繰り返しになるが、フェミニズムのことは女性に任せておけばよい。男性が善意でフェミニズムに協力したと思っても、それが結果的に彼女たちの足かせになることもあるのだから。

(たとえば、僕は大学時代にある女性学のワークショップに参加したとき、閉会の言葉として司会者が「われわれ女性は、まだどうしても男性の目を意識してしまうところがあります」と言って、婉曲に男性の参加を今後は辞退することを表明したことがあった。女性学の研究者と廊下で立ち話したとき、恥じ入ったような表情になったことに思い当たり、僕は大変なことをしでかしたかもしれないと初めて気付いた。言うまでもなく、それがその種の会合に参加した最後の機会になった)。

それから、フェミニズムなんて無意味で、最終的に男性と女性の問題は、ひとりの男とひとりの女が向き合ったときの問題だ、と言い切るのは間違っている。

個人的な関係のなかですべてが解決するなら、とうの昔に男女の賃金格差はなくなっているはずだ(そこまで楽天的になれるのは、よほど「幸福」な人なのだろう)。この点も、60年代のフェミニストたちが「個人的なことは政治的なこと」というスローガンですでに問題化している。個人の嘆きが個人の問題ですまないところに、差別の問題の本質がある。

ところで、本当の問題は、多様性のなさにある。

男性である僕は、男性の問題にしか正当に言及できないわけだが、男性の生き方にも多様性がない。サラリーマンの自己紹介が退屈なのも、それがひとつの理由かもしれない。

たしかに男性は女性よりは自由に選べるかもしれない。しかし、塩ラーメン、コーンラーメン、わかめラーメン、チャーシューメンなどなど何でも選べますよ、というのは自由な選択ではない。ラーメンしか選べないのだから。たしかに自分が経済的な主導権を握ることは「うまい汁」だが、「うまい汁」しか選ぶことができないのは自由とは言えない。たまたま男に生まれたからといって、なぜ「一家の大黒柱」にならなければいけないのか?「女性の庇護者」たらねばならないのか?

そこに不条理を感じない男性がほとんどである限り、塩野七生は男性にも歓迎される大女流作家でありつづけ、印税が稼げない一般女性の男性との賃金格差は固定され、一部の女性の声なき無念の上に、大多数の男女のペアの幸福な生活が築かれる。

フェミニズムの問題に限らず、この世界はそういう世界である。

ある人は「自分の幸福をつかむだけでも必死なのだ!」と言うが、その通りかもしれないし、それはとんでもない欺瞞なのかもしれない。自分の幸福をつかんだ瞬間に人は盲目になるのかもしれないし、あえて盲目になることを、人は「幸福」と名づけているのかもしれない。

残念ながら、ここでは安易に結論づけることはできない。考えつづけることだけ。



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