僕は小学生のころから「男らしさ」というものに居心地の悪さを感じていた。「男の子はしっかりしなきゃ」「男のくせに泣いちゃだめ」など、世の中には「男らしさ」「女らしさ」という規範が厳として存在する。僕の恋愛の対象は女の子だし、自分が男であることがイヤなわけでもない。でも、僕の「男らしさ」と周囲の「男らしさ」は微妙にズレていた。そんなわずかなズレでさえうるさく言われるのだから、「男らしさ」「女らしさ」の規範はひじょぉーに厳しいものなのだ。
そんな僕が高校一年生のときに出会ったボーヴォワールの『第二の性』という本は、僕の考えていた「男らしさ」がズレているどころか、かなり正しいことを証明してくれた。問題は「男らしさ」や「女らしさ」ではなく、「自分らしさ」なのだ。
大学に上がってから、本格的にフェミニズムの本を読み始めたり、女性学の国際会議に出席したりするなかで、事がそれほど単純ではないと分かってきた。
僕の「自分らしさ」の中には、すでに女性差別的な観点がかなり混じっているのだ。10年以上大きな疑問もなく男として育てられてきた僕の中には、女性蔑視の考えが根深く残っている!「男らしさ」への違和感を軸にフェミニズムの研究を深めていた僕にとって、この発見は大きなショックだった。
またフェミニズムは、僕と異性の関係を良くするどころか、かえってギクシャクさせた。男である僕が彼女たちよりもラディカルなフェミニストだったからだ。
自分にはフェミニズムの研究を続ける資格などないのではないか、そんな疑いが日々強くなり、ボーヴォワールに初めて出会った頃の感動はいつしか過去のものになっていった。
そして僕はごくフツーのサラリーマンになっている。学生時代の僕から見れば、周囲の人々は女性も含めてかなり手ごわい性差別主義者だ。女房を働きに出すなんて男の恥だと感じている男性がまだいるし、女性の幸福は結婚であると信じて疑わない女性もいる。ウーマン・ヘイティングの典型のような人々がそろっている。
しかし、今の僕から見れば、みんなごくごくフツーの人だ。それぞれの人がそれぞれの幸福を願ってつつましく生活している。
いったい僕にとってのフェミニズムとは何だったのか?
どうやら僕はフェミニズムを、ある種の「裁き」と勘違いしていたようだ。つまり、人間は、性差別主義者かフェミニストかのどちらかに分類され、フェミニストになるためにはある一定の要件を満たしていなければならない。そんな風に考えてしまっていたようなのだ。
しかし実際には女性のフェミニズム活動家の中にも、みずからの心に巣食っている伝統的な「男らしさ」「女らしさ」の概念に苦しんでいる人がいる。男性の前では知らぬ間に「女らしい女」を演じてしまう人もいる。
もしもフェミニズムが、ベティー・フリーダンやボーヴォワールや上野千鶴子のような、バリバリの活動家・研究者だけのものなら、単なるエリート主義になってしまう。フェミニズムとは、もっと開かれたもののはずなのだ。
つまり、家庭をかえりみない夫にぼんやりした不満を抱きながら育児に明け暮れている母親が、洗濯物をたたみながらふと自分の生き方を考え直してみたくなったとき、あるいは、馬車馬のように働かされる毎日にイヤ気がさしている男性サラリーマンが、帰りの満員電車に揺られながらふと自分の生活を振り返ったとき、そんなとき、あと一歩だけ、一歩だけふみだせば、少しは違った人生が開けるかもしれない、という「もう一つの選択肢」(オールタナティブ)を考えるきっかけになるのが、フェミニズムなのではないか。
結婚して家庭に入るだけが女の人生じゃない。出世して社長になるだけが男の人生じゃない。もっともっといろいろなかたちの幸福があっていいはずなのに、今の世の中はあまりに選択肢が少なすぎる。
でも、今までと違った生き方を実現させようとすると、既得権益を奪われるのがイヤで抵抗する人がどうしても出てきてしまう。だから、どうしても何人かで力を合わせて運動をやらなきゃいけない場面も出てくる。
そのために、いがみ合いや人間関係のギクシャクが多少できたとしても、その結果、僕らの次の世代により多くの選択肢が残るんだったらそれでいいじゃないか。自分個人の幸福のことばかり考えずに、少しは次の世代に暮らしやすい社会を残す努力をしよう。
フェミニズムというのは、そんなスタンスのものなのかもしれないと思っている。
もちろん、そうやってフェミニズムを考えていくためには、何よりもまず先人たちが残した言葉をちゃんと読んでみるべきだろう。
中には読んでいて恥ずかしくなるほど元気が良すぎるものもあるかもしれない。寒々とした気持になるほど厳しい批判もあるかもしれない。でも、その背後にある、彼女たちの思いを正確に汲みとることが必要なのだ。
きっと彼女たちは、自分だけが幸せになればいいという考えではなく、ひとりでも多くの女性が(そして男性が)より多くの選択肢のなかから自分の人生を選び取っていけるような、そんな社会にしようという強い使命感を持っていたに違いない。
そうやって先人たちは、社会を少しずつ、少しずつ良くしてきのだから、僕らの世代もやっぱり、少しは社会を良くしようと努力しなければウソだろう。そのひとつに、フェミニズムという問題がある。
社会に出て働きたいという女性がいたら、ちゃんと男性と同じ給料がもらえるような雇用制度を、子育てに生きがいを見出す女性がいたら、豊かな人間性を育てるための教育制度を、子供と真剣に向き合いたい男性がいたら、男にも育児休暇を、父親不在の家庭がこれ以上の悲劇を生まないためにも、人間的な勤務時間を、などなど。
次の世代のためにわずかでも暮らしやすい社会を残そうという気持がなければウソだろう。そのためのフェミニズムなのではないか。
最近はそんなふうに思っている。