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作る人/食べる人の差異
( 19990227 )

Japanese/English

「愛と苦悩の日記」に書いた所沢ほうれん草騒動について、ある読者の方からメールをいただいた。僕の論旨は「農家もふつうのメーカーのように生産者としてちゃんとリスク管理をすべきだ」というものだが、この方のご意見は「農業問題=食糧問題だから、生産者/消費者と単純に割り切るべきでない」というものだ。

たしかに僕らは清涼飲料水なしでも生きていけるが、食糧なしでは生きていけないし、二次産業と一次産業は違う。清涼飲料水は同じ生産設備・製造過程で100%同じ製品ができるが、農業は自然条件に左右されるのでそうはいかない。

この方は、仮に日本の農家が所沢のダイオキシンのようなリスクに恒常的にさらされれば、ほとんどが農業をやめてしまうだろうと書かれている。特に所沢のような都市近郊では土地を売った方がもうかるということだ。

そして企業が存続しつづける動機付けと、農家が農業をつづける動機付けはまったく違うと書かれている。これもおっしゃる通りで、日本の農業は家内工業だからいわば無限責任を背負っているようなもんだ。

この2つの理由から「日本は農家に甘い」という僕の考え方はちょっと違うというご意見だ。

さらにこの読者の方は論を展開されていて、食糧問題は他人事じゃない、と書かれている。仮に日本に農家がなくなったら、私たち自身の死活問題なのだから、食糧問題は農家・非農家の枠を超えて日本の問題としてとらえるべきだという。

失礼を承知で率直に書かせて頂ければ、この読者の方のご意見は自民党の「食糧安保論」そのままだと感じた。

僕は農家の方々を批判したかったのではなく、「農家に甘い日本」を批判したかったのだ。ダイオキシンに対して農家の方々を無神経にさせてしまった「何か」を批判したかったのだ。

その「何か」こそまさに、この方の論拠である「食糧安保論」、つまり「食糧問題はみんなの問題」という、生産者と消費者の「差異」を取り払ってしまう発想ではないのか。

「食糧問題は他人事ではない」という発想は一見とてももっともらしいけれど、これほど責任の所在をあいまいにする(できる)発想はない。むしろ今の僕らに必要なのは、食糧の生産者と消費者の立場をあえてハッキリわけること、その差異を際立たせることだ。

そうすることで生産者である農家は作物の安全性を厳しく管理せざるを得なくなる(そもそもポストハーベスト問題などについては日本の農家は米国より厳しい管理ができていたのではなかったか?)。そして消費者としては食糧の安全性を求め、行政に対しダイオキシン排出規制を強化するように働きかけざるを得なくなる。

その結果、所沢の産廃業者は高度な処理能力をもった焼却設備を導入せざるを得なくなる。そのコストは当然、廃棄物をもちこむ企業に転嫁される。そのコストは企業の作る製品の販売価格に転嫁される。そして最終的に消費者が負担する。燃やしたときにダイオキシンを出さない製品は安くなり、出す製品は高くなる。当然安い製品が売れ、高い製品は淘汰される。

こんなプロセスの中で、農家の責任、行政の責任、産廃業者の責任、企業の責任、消費者の責任が順番に明確になっていく。これこそダイオキシン汚染に対する社会的な適応というものであり、このシステムができない限り僕らは本当の意味でダイオキシン問題に対処したことにはならないのだ。

仮に読者の方のおっしゃるように、食糧問題はみんなの問題だから、消費者も生産者の立場にたって考えましょうと言った途端、誰がどういう責任を取るのか、ダイオキシン問題のコストは誰が負担するのか、すべての問題があいまいなままになる。

たぶんそのために自民党は「食糧安保論」というものを発明した。食糧問題はみんなの問題だから、農家を手厚く保護しましょうということだ。それによって問題は解決するのではなく、おおいかくされるだけである。

(ちなみに「食糧安保論」がいかに根拠薄弱かは、「石油安保論」に現実味がないことからすぐに分かる。産油国でもない日本が石油製品に依存した生活をしているのは、貿易というものがちゃんと機能しているからだ。仮に日本の食糧自給が0%になって食糧輸入がストップしたら、日本は国際社会にとって今の北朝鮮のような「爆弾」になる。アメリカなどの農産物輸出国が、そんな政治的リスクを背負ってまで日本を兵糧攻めにするメリットってなんだろう?本当に日本に敵意を抱いたなら、兵糧攻めにするより爆弾を落とすだろう。「食糧安保論」がいかに絵空事かがわかる。)

逆説的な言い方になるが、ダイオキシンで農業をやめる農家がいるとすれば、そこまで日本の農業が魅力的でなくなってしまったのは、まさに「食糧安保論」を論拠にした日本政府の農業過保護政策のせいなのではないのか。

「食糧問題はみんなの問題」という考え方では、肝心のダイオキシン問題は宙に浮いてしまう。責任の所在があいまいになった結果、みなが犯人探しに走り、いい加減な報道をしたテレビ局がその標的になる。厚生省はテレビ局いじめに熱心で、肝心の社会システムの構築は後回し。

根も葉もない危機感をあおるだけの「食糧安保論」に惑わされず、生産者・消費者・行政それぞれの責任が明確になるような社会システムがどうすれば実現できるのかを、現実的に考える時期に来ているのではないだろうか。


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