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脱構築 for Dummies-1
( 19981230 )

Japanese/English

以前このページのある読者の方から、ぜひ『Deconstruction for Dummies』を書いて欲しいというリクエストがあった。この『〜 for Dummies』というのはアメリカのIDGブックスという出版社が出している有名な入門書シリーズで、たとえば『JAVA for Dummies』『Investing for Dummies』などがある。今回はこのタイトルをこっそりお借りして、『脱構築 for Dummies』のパート1と行きたい。

まずそもそも「脱構築」が何かさっぱり分からないという方のために、「脱構築」という言葉の説明から始めよう。

「脱構築」とはフランス語の「deconstruction」(デコンストラクション)の日本語訳である(正確なつづりでは e にフランス語特有のアクセント記号がつく)。「deconstruction」は「construction」(=「構築」)という単語の頭に、「de」という否定の意味を表わす言葉が付け加わって出来た単語だ。

「構築を脱する」という意味で「脱構築」という訳語があてられている。つまり「脱構築」とは「『構築』みたいな古クサい考え方から脱皮してやるぞ!」という意味である。

じゃあ「構築」とは何のことか?これはちょっと難しいので、まずそもそも哲学とは何か?を説明しよう。

哲学とは「ほんとうに正しいものを見つけ出す努力」と言える。もうちょっと難しく言えば「真理の探究」だ。しかし「ほんとうに正しいもの」を見つけ出すためには、最初にしなければならないことがある。それが何かお分かりだろうか?

そう。徹底的に「疑う」ことだ。今、自分が当たり前と思っていることや、これで正しいと思っていることを、残らず疑ってみること。ここから始めないことには「ほんとうに正しいこと」なんて絶対に見つからない。

そういう意味では「哲学」に向いている人と向いていない人がいる。

今の自分に満足していて、世間の常識をうけいれて楽しく生きていきたい。そういう人は「哲学」に向いていない。両親や友達の言うことはもっともだ、自分も世間と同じような人生を送りたい。こういう人も「哲学」向きではない。そういう人は僕のホームページを読んでも誤解するだけなので、他のページにジャンプしちゃった方がいい。

逆に、今の自分に満足していない、とか、新しい時代にふさわしい新しい価値観を自分で模索したい、世間の大多数が正しいと言っているからといって、それが正しいなんて限らない、などなどのタイプの人は「哲学」に向いている。

「疑う」ことができない人は、永遠に「哲学」することはできない、と考えてもらってもいい。

西ヨーロッパ、主にフランスやドイツを中心とする地域で発達した西欧哲学もやはり「疑う」ことから始まっている。デカルトという哲学者は、誰もが当たり前と思っている自分自身の存在までも疑った末に(「ほんとうにこの私は存在するのか?ひょっとしたら悪い夢を見てるだけじゃないの?」)、やっとのことで「我思うゆえに我あり」という「真理」に行き着いた。

その後に登場した哲学者は、このデカルトの「真理」をさらに疑うことで西欧哲学の歩みを一歩進めた。その後に登場した哲学書はさらにその「真理」を疑い...という具合にして、西欧哲学はとにかく徹底的に疑うことで「ほんとうに正しいもの」を見つけ出そうと努力してきた。

しかし悲しいかな、偉大な哲学者といっても、初めのうちは徹底的に疑うけれど、一度真理らしきものを見つけてしまうと、今度は自分自身の哲学を作り始める。ビルの建築にたとえれば分かりやすい。頑丈な土台を作るためには、まず地面を掘り起こさなければならない(=まず疑わなければならない)。そうやって初めて高いビルを建てることができる(=立派な哲学体系を築き上げることができる)。

しかし高いビルを建てていると、初めに疑ったはずのことが、知らず知らずのうちに暗黙の前提として入り込んでしまう。いつの間にか自分で疑ったはずのことを、正しいと認めてしまっている。西欧哲学者の立派な書物をよくよく読んでみると、実はそういう「ほころび」が見つかってくる。

そうなるとちょっとした疑問が出てくる。つまり、「すべてを疑ってみる」という最初のステップは良いとしても、その後、それぞれの哲学者たちが自分自身の哲学を、まるで高いビルを建てるみたいにして構築していくのが、ほんとうに良いことなのか?という疑問だ。

世間で立派だと思われている哲学者たちの書物には、実はそういう「ほころび」がたくさんある。「ほんとうに正しいもの」を求めるには、まずそういう「ほころび」をきっちりチェックしなきゃいけない。

つまり、現代の哲学者がなすべき仕事は、自分自身の立派な哲学を構築することじゃなくて、過去の哲学者が構築した哲学体系の「ほころび」を一つ一つチェックしていくことだ。そういう発想から出てきたのが、「脱構築」という考え方なのである。

「脱構築」というのは、世間で立派だと思われている哲学者の書物をもう一度ちゃんと読み直して、その中に隠れている「ほころび」や、つじつまの合わないところを、しらみつぶしにチェックしていくことだ。

僕らは風邪をひけば、○×不動で護摩を焚いてもらうんじゃなくて、医者に診てもらう。基本的人権というものがだれにもあることを知っている。これら、今の時代の僕らが当たり前と思っている「合理主義」や「自然法」は、実は過去の偉大な哲学者たちが、知恵をしぼって築き上げてきた高層ビルのようなものだ。

つまり僕らは西欧哲学という高層ビルの上に立って、それを当たり前だと思い込んで生活している。それほど西欧哲学は僕らの生活に深く根ざしてしまっている。それだけにそれらを「疑う」ことは難しい。

しかし「脱構築」は、頑丈に建てられた高層ビルのような立派な哲学体系だからこそ、ちゃんとチェックしなきゃいけないと言っている。僕らの生活に深く根づいてしまっているからこそ、逆にきっちり再検討しなきゃいけないと言っている。

これで「脱構築」とは何かがお分かり頂けただろうか。そういうわけで「脱構築」は、世間の多くの人が抱いている哲学のイメージとはまったく違う。世間の人は「哲学」と聞くと、偉人のお説教を聞かされるぅ〜!イヤだぁ!と思ってしまうけれど、「脱構築」はまったく逆なのだ。

どちらかというとみんなで過去のお偉い方々にイチャモンを付けよう!という感じ。「脱構築」は哲学を作り上げる(構築する)のではなくて、既存の偉そぉ〜な「哲学」に茶々を入れることなのだ。

たぶん僕が「脱構築」に引かれるのは、過去の偉大な哲学者たちが、バッサ、バッサと批判されていく様子に胸のすくような快感をおぼえるからだと思う。「脱構築」に魅力を感じる人の多くは、同じような気持ちなのではないか。

次回の「サルでも分かる脱構築2」では、一つの具体例として「書き言葉と話し言葉はどっちが先か?」という問題について考えてみたい。


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