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![]() 脱構築宣言 ( 19990109 ) 正月休み久しぶりに帰省して、親に「職場に話のできる先輩できたか?」とたずねられたとき、「いいや」と短く答えるしかなかった。 社会人になってもう5年になる。たしかに僕は友人を選ぶし、それほど友人を必要ともしない。だがふり返ってみれば小学校から大学までとりとめのないことも含めて話のできる友人がいなかったということは一度もなかった。それに友人を選ぶ母数は社会人になってからがいちばん多いはずだ。 僕はそのときどき生活している環境に常に違和感を抱いてきた。片足はその環境に足を踏み入れながらも、もう片足は境界線の外側へ踏み外している。境界の内側と外側を行きつ戻りつして、「僕は××中学の生徒だ」「僕は××大学の学生だ」というアイデンティティーがつねに微妙にズレるような仕方で生活してきている。 今までの生活環境はそうしたズレや、自己同一性との戯れ、はぐらかしのようなものを許容する環境だったと考えている。僕は確かに僕でしかないのだが、同時に僕は僕でない存在でもある。そういう人格のゆらぎを楽しめる人間の存在する環境だった。そういう人間となら、今自分の置かれている環境について自嘲気味に、しかし完全に軽蔑するというのでもなく、あるときは雑誌の記事に出てくるようなことばづかいを借りて、別のときにはテレビにバラエティー番組のことばづかいを借りて、わざと自分が自分でないような瞬間を作り出すことを楽しみながら話すことができる。 しかし会社員生活で何が窮屈だといって、経歴と職歴で僕の人格を同定してしまおうという人々ばかりだということだ。たとえば僕が入社以来3年間、経理部に在籍したとなれば、どういうわけか僕は株式投資や利殖に興味のある人間ということになってしまう。僕が一流大学卒だとなれば、まじめでお堅い人間だということになる。このホームページで世間に対して批判的なことを書けば、ひどい場合には「左翼」、良い場合でも社会的な問題意識のある政治家志願の青年ということになる。 それも無理はない。このページで何度も書いているように、サラリーマン社会は「わかりやすさ」を至上の原理として動いている。事実、分かりやすい人たちばかりだ。誰もが自分の人格を固定化することに必死であるように見える。典型的なのが「私は××な人間だから」と自ら自分の性格を聞きもしないのに断定する人々。そうして自分で形作った枠の中に自分自身をきっちりとはめ込んでいくことにみな余念がないように見える。そうしてみな分かりやすい人間になることにいそしんでいる。 分かりやすさはたまに見せる愛敬やギャグのレベルで十分だと僕は考えている。実際の人間はもっと微妙で繊細にできているものだと信じたい。「私は××だ」と言った次の瞬間には、もう完全にはそうでなくなっているような存在に違いない。そういう様々な自分自身を忠実に語るために、様々なことばづかいがあるんだし、様々な態度やしぐさがあるはずなのだ。 そうしたことばづかいやしぐさの多様性があればこそ、それを意図的にワンパターンにはめてみるという遊びの余裕も出てくる。しかしサラリーマン社会はその紋切り型を紋切り型として同定し、飽きることなく反復することで存在しようとする。同じような飲み会で、何度同じ顔を合わせても、同じ話を繰り返し、お互いが前回と同じ人格、同じ生活を続けていることを同じことばづかいや同じしぐさで確認し合う。 そうして自己同一性の確認に血道を上げている環境の中に入って、5年目。僕はますます言葉を失いつつある。これは比喩でもあり、文字どおりの意味でもある。サラリーマン社会では何をしゃべってもその言葉が額面どおりに受け取られ、僕という意味内容を表現する記号だと受け取られてしまう。僕という意味内容がいったん固定してしまうと、余程インパクトのある仕方でそれを覆さない限り、そういう人間だということになってしまう。 そのことに最近の僕は疲れ始めている。だからサラリーマン社会では仕事に必要な最小限の言葉、ニュートラルな言葉だけを選んで話すようにしている。言葉の持つ意味のズレや、解釈される文脈の多様性に過敏なだけに、一言を発するときにあらゆる可能性を考慮に入れるけれども、職場では何を言っても一通りにしか解釈されないのだ。解釈の多様性はこちらが提示するまで発生しない。サラリーマン社会で行き来する言葉は、ただ正直に解釈されるためだけに存在しているので、根本的に死んでいる。 逆に言えば、すべてはすでに意味内容が決定されているため、言葉など必要ないのだ。会社員生活で言葉が使われている理由は、つまらないミスやとりこぼしを防ぐということだけである。だから僕個人は職場で発話の必要性をまったく感じない。とりこぼしを防ぐためだけの言葉なら、すべて文字にして残せば最も理想的ではないか。 そんな中でどうして友達などできるだろうか。つまりはそういうことだ。 日々、死んだ言葉に包囲されて、時には飲み会などで自分でも死んだ言葉を口にして、その死にっぷりを自嘲的に楽しんだりする。そういう僕にとって生きた言葉を読ませてくれる書物が生きがいになっている。最近amazon.comで取り寄せた英訳『グラマトロジーについて』から、デリダが脱構築についてかなり教条的に書いている部分を引用してみよう。 [訳]脱構築の運動は構造物を外側から破壊するのではない。そうした運動は不可能だし、効果的ではない。目標を正確に定めるには、構造物の内部に住まなければならない。それも、ある仕方で構造物の内部に住まなければならない。ある仕方でと言ったのは、人はすでにその内部に住んでいるからだ。そのことに気づいていなければなおさらそうだ。そうすると必然的に内側から働きかけることになる。構造を覆すための戦略的・経済的な資源をすべて古い構造から借りる。構造のまま、つまりその構造の要素をバラバラにできないまま借りてくるのだ。そうして脱構築の企ては、ある仕方でつねに自分自身の仕事のえじきになる。(僕のへたくそな訳ですみませんねぇ) こういう引用をすると、サラリーマンの中には僕が『共産党宣言』の類書でも読んでいるのではないかと誤解する人が必ずいるだろう。そういう教養の足りない人には勝手に誤解させておけ。 僕はサラリーマン社会の内部に住まっているが、それは目標を正確に見定めるためである。そしてその構造物を覆すには、すべてをその構造物そのものから借りてこなければならない。ここでは「えじき」という言葉の二重の意味に注意しよう。ここで脱構築の行為は食うものであると同時に、食われるものでもある。つまり、サラリーマン社会を脱構築することで、僕のサラリーマン生活はむしばまれてしまうが、同時に僕自身がサラリーマン社会の中で生きていくための糧にもなるのだ。 デリダの脱構築になぜ僕がこれほど引かれるか、お分かりいただけるだろう。というより今の僕にはこれしかないのだ、と言ってもいい。今ようやくパートIを読み終えようとしている『グラマトロジーについて』。これからますます面白くなる。 The movements of deconstruction do not destroy structures from the outside. They are not possible and effective, nor can they take accurate aim, except by inhabiting those structures. Inhabiting them in a certain way, because one always inhabits, and all the more when one does not suspect it. Operating necessarily from the inside, borrowing all the strategic and economic resources of subversion from the old structure, borrowing them structurally, that is to say without being able to isolate their elements and atoms, the enterprise of deconstruction always in a certain way falls prey to its own work.(イタリックは原文どおり) 無断転載禁止
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