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![]() つねにすでに ( 19981003 ) 読み終わってから2週間になるが、ようやく感想を書く気になった。講談社・現代思想の冒険者たち28『デリダ〜脱構築〜』。筆者は高橋哲也。このページでもたびたび名前が登場する東京大学の助教授である。 今まで会った人物で高橋先生以上に尊敬できる人間はいない。社会人になってから職場に尊敬に値する人物が見つからなかったことは、以前からこのページで繰り返し書いてきたとおりだ。 同シリーズの『ラカン』に寄り道していたので手にとるのが遅れてしまったが、難解なジャック・デリダの思想がこんなにスッキリわかっていいの?というほどわかった気になってしまうのが恐ろしい。おそらくデリダの通奏低音的なモチーフに依拠しつつ、飽くまで「形而上学的」に解説されているからだろう。 最大の収穫は今まで全く知らなかった「政治化」以降のデリダについての紹介だ。学生時代に高橋先生の「暴力と形而上学」のゼミに出席して、デリダの初期の思想にい触れた経験はあるが、その後のデリダはフォローできないまま大学を卒業してしまった。 『批評空間』1998II−18の「トランスクリティークと(しての)脱構築」では、この本はやたらと評判が悪いけれど、日曜哲学者でデリダの訳書に当たっているヒマがない人なら読むべき書物である。 僕がデリダのモチーフの中でいちばん気に入っているのは「汚染=混交(contamination)」である。たとえば「純粋な正義」は存在しない。正義は正義である限りにおいてつねにすでに暴力に汚染されている。 そこでこの「形而上学的」な議論を日常生活の水準に勝手に引きずり下ろしてしまおう。日常の生活で、純粋に正しいことなんてありえないのに、それがあるかのような言説をふりまきつづけることは、かえって正しくないことをおびき寄せる結果におちいる。 とくに組織には「正しいこと」しか言わない人がいる。言っていることは反論の余地なしだが、始末が悪いのは言っている当人が他方で「正しくないこと」を平気でやっている点だ。 正しいことの純粋な現前を信じるあまり、正しくないことをみすみすおびきよせるという最悪のパターンにハマっている(だから尊敬に値する人物がいないのだが)。40年以上人生経験を積んでいるのに、自分が純粋な正義を体現していると素朴に思えるのはなぜなのか、理解に苦しむ。 逆説的な言い方になるが、自分は正義ではないという自覚があって初めて、人は正義に向かって生きることができる。 自分の純粋さ、自我が一枚岩であることを素朴に信じている人は付き合いにくい。組織にこのタイプの人たちが多いのは仕方ないし、そういう場所を選んだ僕の責任でもある。 ただ正直に弱音を吐かせてもらえば、そういう人たちと仕事の上で付き合わなければならないのは僕にとって不幸だ。会社で人間関係が広がれば広がるほど、いかに自分が孤独であるかを思い知らされる。 僕が救いはこのホームページだ。このページの読者には冷笑的・自虐的でいながらも理想を求めることのできる「汚染=混交」の人が多い。だからこうしてエッセーを書いている僕は幸福である。 そう、これを読んでくれているあなたのことです! 無断転載禁止
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