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歯科医の血戦
( 19980328 )

Japanese/English

十年以上ぶりで歯医者に行った。

大昔に治療した虫歯の詰め物がとれて痛み出したのだ。昔のように麻酔もなしに歯を削られて、痛い思いをすることはないと聞かされてはいても、やはり待ち合席に座っていると何とも言えない緊張感がある。

ところが、落とし穴はまったく意外なところにあった。

診察室に入ると、診察台に座って少しまっていてくださいね、という指示。なにげなく正面の窓際を見ると、小さなうさぎのぬいぐるみが5つほどならんですわっている。

そのぬいぐるみの微妙な汚れ具合からして、きっと小さな子供が治療を受けるときに胸に抱かせるのだろうと察しがつく。お子ちゃまは痛みをこらえながら、小さな手でぬいぐるみをギュッとにぎりつぶすのだ。

そのときの汗や手あかが少しずつしみついて、うさぎちゃんたちは頭のところが一様に黒ずんでいる。たまには合成洗剤を含ませた歯ブラシで軽くブラッシングしてあげたほうがいい。乾かすのは陰干し。

などと下らないことを考えていると、歯科医がやってくる。症状を告げると「ちょっと削りますから麻酔を打ちますね」と言って、ありふれた注射器のイメージとは程遠い、ピストルのような形をした注射器を僕の歯茎めがけてかまえる。

麻酔そのものがこれまた痛いんだ、という思い込みがあるから、ギャング映画で口の中に銃口をねじこまれているチンピラになった気分で身構えると、痛みというよりむしろ、圧力といった感じで液体が歯茎の内部に押しこまれ、拍子ぬけする。

それより、そのピストル型の麻酔注射器、ピストルの引き金にあたるところに麻酔薬を小刻みに押し出すレバーがついているらしく、シャーペンをノックするみたいに、チュッチュッ、と何度も何度もくりかえし麻酔薬を送り出す。

その一回ごとに歯茎がだんだん感覚を失っていくのが、なぜか滑稽で、顔が勝手にニヤついてしまう。そのニヤつきの中には、もちろん、治療が終ったら2時間ほどはほっぺがしびれて感覚がないんだろうなぁ、おもろいなぁ、という予感も含まれていた。

実際にはこの予感は裏切られることになる。僕が歯医者に行かなかった10年の間にも科学技術は着実な進歩をとげ、短時間に、かつ、局所的にしか効かない麻酔薬が開発されていたのだ。歯茎が感覚を失ったのは、実に正確に治療の20分間の間だけだった。

どうやら僕は医学に対する根本的な不信感のようなものがあるらしく、小学6年生の夏、虫垂炎の手術を受けたときも、全身麻酔を覚悟していたのだが、背骨に打たれた麻酔は見事に僕の下半身だけを眠らせたのだ。手術中、看護婦さんと話しをしている間にも、自分の下腹部が切り開かれているとはどうしても信じられなかったことを思い出す。

さて、いよいよ歯を削りはじめると、麻酔がよく効いているせいで痛みはまったくない。飛び散るエナメル質が冷たく細かい粒になって、口の中に飛び散る感触は、まるで舌の上で小さな吹雪が起こったようでむしろ爽快でさえある。

歯の表面に巣食った虫歯菌がエナメル質もろとも砕け散って、新鮮な白い肌がふたたび顔を出す。そうして自分の歯が息をふきかえしていくのを約束するような、爽快なミニチュアの吹雪が、しばらく僕の口の中を吹き荒れる。

ひとしきり歯を削る作業が終ると、「ゆすいでください」と言われる。治療台のかたわらにあるのは、これは昔と寸分違わない金属製のやけに小さなコップ。もう少しサイズが大きくてもよさそうなものだが、この小ささこそ「歯医者のコップだぞ」というささやかな自己主張になっていことを見逃してはならない。

2、3度口をゆすいでもとの場所にコップをもどすと、しばらくして自動的に水が足される。これも10年前と同じ光景。ただ、昔は置く位置が悪かったりするとコップを感知してくれず、水が出てこなかったような気もする。

次には歯科助手の女性がピンク色の樹脂で、今削った歯の型を取る作業。樹脂を口の中に押し込まれたとき、僕はそのまま自分の歯で噛みしめるものとばかり思っていたが、「固まるまで楽にしててくださいね」と言ったきり、助手の女性は指を僕の口からぬこうとせず、樹脂を押さえつけたままだ。

げげっ、ひょっとしてこのまま待つのか?という予想は的中。ゴム手袋をしているとはいうものの、助手さんの人差し指は僕の口に入ったままで、樹脂をしっかりと歯に押さえつけている。

30秒くらいなら何食わぬ顔で口だけ開けて待ってられるけれど、そのうちだんだん居心地が悪くなる。女性の指を口にくわえたまま、何十秒もじっとしているということは、普段の生活ではまず起こり得ないアブノーマルなシチュエーションだ。

そのうちあごが疲れてきて、助手さんの指に触れまいとがんばっていた歯が、少しずつやわらかい指に触れ始める。ううっ。別に触りたくて触ってるんじゃないんだ。と思いながらも、人間の指って奥歯で噛みしめたら心地よい「噛みごたえ」があるかも、とヘンな想像をしたりしてひとりで気まずくなっている僕。

ピンク色の樹脂は、固まるとともにゆっくり冷えていくようだった。はじめから冷えていたものが、僕の歯茎の麻酔が切れて感覚がもどるとともにその冷たさが感じられるようになったのか、それともその樹脂は本当に固まりながら冷えていく性質なのか、最後までわからなかったが、とにかく型がとれて樹脂をはずす頃には、歯茎がぴんと緊張するような冷たさだった。

いざ助手さんの指が口から抜かれると、なんとも言えない名残惜しさを感じる。恋人ができたら一度指で奥歯を抑えてもらおうかと、谷崎潤一郎みたいな倒錯的なことを考えていると、今度は、仮の詰め物をしておきますとのこと。

これは歯科医ではなしに、助手さんがやることになっているらしい。金属でできた細い注射器で、ぴこぴことゴムのようなものを歯に詰めていく。ところがこの詰め物がまずい。レストランに来ているのではないのだから、うまいもまずいもないのだが、この詰め物の分泌する液体が、いかにもゴムです、みたいな味がしてまずいのだ。

そう言えばTVのニュース番組で、最近いろんな化学物質が人間のホルモンに影響を与えて、男性の精液に含まれる精子の数が極端に少なくなるなどの異常が観察されているという報告があり、その中に、歯の治療に使われている一部の物質にもその原因と目されるものが含まれているとあった。

注射されたゴムの味は、その「一部の物質」を想像させるに十分なほど妙な味で、こうして僕の精液に含まれる精子の数も減っていくんだ。将来結婚して子供ができなかったら、僕の精子が弱いせいだとか何とか言って、孫の誕生を心待ちにしている一部の親戚筋から責められることになるのだろうかと、歯科医の診察台でするべきことでもない心配をしはじめる。

治療代の清算のとき、受付に座っているおばさんのきめ細かいアドバイスで明らかになるのだが、じつはこのゴムは飲み込んでも害はないそうである。考えてみれば当然だ。いくらしっかり詰めたところで、ぽろっと外れてうっかり飲み込まないとも限らない。そんなゴムが猛毒だったらエライことだ。

ゴムの注入が終ると、「しばらく、ぐっとかんでくださいね」という指示。今度こそじぶんで噛みしめる番である。ところが、いざ「噛め」と言われると、自分が普段どう噛み合わせているのか、その感触を思い出せない。

ちょっと下あごが前に出過ぎじゃないか?いや、もう少し上あごを右にずらさないと、きっちりかみ合わないないぞ、と考えているうちにも詰め物は固まっていく。今ヘンにあごをずらしたりすると、せっかく固まりかけたゴムが妙な形で落ち着いてしまうかもしれない。しかしこのゴムはまずいなぁ...。

それで治療が終り、あまりの迅速さとそっけなさに、ある種の失望さえ感じながら僕は歯科医を後にするものだとばかり思っていた。落とし穴はそこにあったのだ!

もう仕事が終ったはずの歯科医が、ふたたび治療台のそばにやって来て「じゃあ、歯石を取っておきますね」と、見慣れたドリルを手にした。

歯石?確かにここに来る前にいつもより念入りに歯磨きをしたとき、歯と歯の間に白く固まった歯垢が気になりはしたし、虫歯を治してもらうついでに、歯石も取ってもらおうかな、と考えていたことは確かだ。

しかし、歯石取りはきっと別料金になるから、自分から言い出すのはやめておこう。いや、もとよりそんな気の利いたことはこちらから言い出さない限り、歯科医の方でもやらないのが普通だろう、と考えていた。

ところが、歯科医の方から「歯石を取りましょう」と言ってきたのは、まったく意外な展開だった。少なくとも小学生の頃、歯医者でそんなことを言われた覚えはない。せいぜい先のとがったカギのようなもので、歯の間をガリガリとひっかかれた程度だ。

おいおい、そんなことをすると歯茎から血が、血が出るじゃないか!そんな心の中の悲鳴をあざわらうかのように、猛烈な回転のドリルは、歯茎と歯の間の三角地帯をくまなく攻撃し、歯石をはねとばしていく。

その攻撃は、親のかたきとでもいうように容赦なく、ドリルが歯と歯の間の内側から、外側につきぬけるまで止まらず、一個所が突き抜けたら今度は隣の歯と歯の間、という具合に、デンタルミラーで僕の口をこじあけながら、上下のすべての歯をすみずみまで制覇していく。

中には明らかにドリルの先端が歯茎に当たっている個所もある。さっきあれだけ強力な麻酔をかけるという細心の配慮がウソだったかのように、歯科医はドリルを歯茎に突き立てるのも辞さずに歯石を砕いていく。

そんなことしたら血が出るって!血が!という声なき叫びもむなしく、僕の口の中には鉄イオンの味が広がりはじめていた。

ドリルの断固とした攻撃は、歯茎の出血など小一時間で止まる、そんなもの歯石の害に比べれば屁みたいなもんじゃ!という、飽くまで事務的に治療をすすめてきた冷静な歯科医の、物言わぬ鉄の意志を表現していた。

歯石の除去が終ったとき、僕の両手は冷や汗でびっしょりになっていたことは言うまでもない。「じゃあ、口をすすいでください」。こともなげにそう告げる助手の言葉が、これほど残酷に響くとは予想だにしなかった。なぜなら、僕の口の中は、すでに鉄イオンの味でいっぱいになっていたのだ。

おそるおそる金属のコップを手に取り、口をすすいだ水を吐き出すと、まるでそのために水を吐き出す器が白く設計されていたかのように、鮮やかに真っ赤な血が流れていく。もう一口すすいで吐き出しても、まだ赤い血が混じっている。3口めを含んで吐き出しても、まだ赤い。

これ以上すすいでも無駄だ、と悟った僕は、観念してコップを置いた。すると助手さんが背後から一言。

「もうよろしいんですか?」

当然彼女は、歯石を取る作業によって僕の口の中が血だらけになることを知っていたのだ。

普通の人なら、血が出なくなることを期待して無駄な努力を続けるかもしれない。しかし僕はそれほどバカではないぞ。これだけ歯茎をかきまわされた日には、そう簡単に出血が止まるわけはない。少なくともそれを理解するだけの知性は備えているのだ。

僕が3杯で口をすすぐのをやめたのは、そのような無言の抵抗だった。

歯科医を後にし、いつもの週末のように名古屋の繁華街へ出かけ、いつものようにLOFTの6階にある紀伊国屋書店で本を買って、尿意を催して入ったトイレで口をすすいでみたとき、唾液にはまだうっすらとピンク色のものが...。

歯石、おそるべし。

(追記)おかげで歯と歯の間の風通しがよくなりました。


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