最近PHP新書の中島義道・著『<対話>のない社会』という本を読んだ。日本国内どこを歩いても、おせっかいなアナウンスや標語の書かれた看板だらけ。そのくせマナー違反の輩を見かけても、見て見ぬふり。会議でも「空気」が支配し、はっきりモノを言う人間が一人もいないままなぜかものごとが決まっていく。
そのような日本的な<対話>のない社会に対して、ソクラテスの対話篇に個人と個人がおたがいの違いをごまかすことなく<対話>を続けることの理想型を見いだし、日本もちょっとは<対話>した方がいいんじゃないの?という論旨の本だ。
この中島氏の本、実は自己循環になっていて、もし日本人に中島氏のこのようなお説教を聴く耳があれば、おそらく標語の書かれた看板も効き目があっただろう。中島氏は自分の本もやはりおせっかいなアナウンスと同じ効果でしか日本人に受け入れらないというところまで予期できただろうか?要は、中島氏の本は、ちゃんとした「脱構築」になりえず、ミイラとりがミイラになってしまっている例と言うことができる。
なぜ中島氏の議論が自己循環になっているのか、その理由は比較的かんたんだ。中島氏の言う<対話>が近代的な意味での主体を前提としているからだ。つまり語る「私」は、つねに自分が何を語りたいかを明確に認識しているという前提があるからだ。中島氏がこう言い切るためには中島氏自身が西洋的な主体という問題構成そのものの内部にとどまらなければならない。同時に、中島氏が「日本的」だとして批判する「<対話>のない社会」もそのままとどまらなければならない。そして両者がそのままにとどまる限り、中島氏と「日本的なるもの」の間の<対話>は成り立たない。
だから中島氏の本書は日本人にとっての標語看板と同じことになる。最悪なのは中島氏が自分と看板の相似を分かっていないように読める点だ。もし僕に同じ本を書く時間があれば、欧米的な<対話>など持ち出さずに「日本的なるもの」のロジック(やはりそこにも論理はあるはずなのだ)が自己破綻をきたすところまで追い込むだろう。
このカント学者への根本的な批判はそれくらいにしておいて、別の観点から問題を考えてみたい。実はこの本ではさらっと1行書かれているだけなのだが、中島氏が日本よりはるかにましな社会だと考えている欧米でも、昨今<対話>がなくなりつつある。だとすれば、これまで日本社会で<対話>がなかったのは日本人的精神性のせいだとしても、今、日本でも欧米でも<対話>がなくなりつつあるのは全く別の原因だと考えなければならない。
ではその「全く別の原因」とは何か?それはおそらく商品やサービスの細分化だ。ひとことで言えば、人間が言葉以外のある種の「言葉」を持ち始めているということである。
さまざまな企業は、消費者一人ひとりにカスタマイズされた商品やサービスを提供しようとやっきになっている。昔ならテレビと言っても品数は限られていたが、今は風呂場におく防水型の5インチテレビから、壁掛けの液晶テレビまで、それを使う一人ひとりの生活様式(もちろん「年収」のような経済的条件も含む)に合わせた実に多様な製品が売られている。そのうちどのテレビを買うかだけでも、その人の生活の仕方がある程度分かってしまう。
また雑誌をとってみても、昔は日本中の学生やサラリーマンが『平凡パンチ』の愛読者だったりしたが、今では『フィッシング』を読んでいるサラリーマンもいれば、『アニメージュ』を読んでいるサラリーマンもいる。
同じように製造業からサービス業まで(農業も?)どの分野をとってみても消費者のニーズに合わせて商品・製品の細分化が行なわれていて、逆に、ある人が消費しているモノやサービスを見るだけで、その人がどういう人なのか分かってしまう。本人の口よりもその人の消費様式が多くを語ってしまうというのが、ますます「個」を重視しつつある現代の消費社会のすがたになっている。
言いかえれば、<対話>するまでもなく人と人の差異が明らかになってしまっているということだ。で、<対話>が中島氏の言うように差異をごまかすためのものではなく、差異を確認するためのものであるとすれば、なおさらわざわざ<対話>する必要がうすれてくることになる。もちろん消費行動によってすべてを「語る」ことはできないので、言葉が必要になってくる余地はまだ残っているが、商品の細分化が進むにつれて、将来ますます<対話>の必要性が弱まってくることは確実だろう。
そういう背景を考えると、<対話>がなくなりつつあるというのは、中島氏が思っているように単に倫理の問題ではない。経済の問題でもある。企業が必死になって「個」の欲望にそった商品を産み出すということは、企業の生産過程が個人に代わって「話している」のと同じことになる。個人が「これこれが欲しい」というより先に、企業が「これこれが欲しいでしょ」と語ってしまうということがますます進行しているということだ。
今まで個人と個人の間の<対話>であったものを、企業が代理人(エージェント)として代行していることになる。個人が発する言葉の代わりに商品がある。
よく考えてみれば個人の行動範囲が昔とくらべて格段に広くなっている現代においては、江戸時代の農民なら出会わなかったような大勢の人たちと出会うようになるわけだが、まったく違う人と出会うたびに、おたがいの差異を一から言葉で語ることがはたして合理的な行為だろうか?むしろ商品を代理人として語らせる方が意志疎通はなめらかに進むのではないか?
一生のうちで出会う可能性のある人数がどんどん多くなってくるとすれば、「みんなとなかよく」というのはますます欺瞞になってくる。オタクを批判する人たちはオタク社会の閉鎖性を批判するのがお決まりだが、少人数とでもいいから密な人間関係を持ちたいという動機からすればオタクの方がはるかに誠実で、非オタクの八方美人的生き方の方がよほど始末が悪い。
つまり、現代社会に生きる人間が会う人会う人と<対話>していたら気が狂うのである。中島氏が理想型としてあげているソクラテスの時代とは、当然ながら生活条件がまったく違うのだ。だから言葉のかわりに商品に語らせたり、八方美人的な生き方より特定の集団内でベストを尽くすというオタク的生き方という選択肢も出てくる。
このように<対話>のない社会には、それなりの時代背景というものもあるのだ。時代背景から切り離したところで人間精神の独立した発展を考えている点も、中島氏の啓蒙主義的な限界をはっきりと示している。
でも僕自身、落ち着いて考えないと中島氏の限界がわからないほど、欧米の啓蒙主義的な考え方というのは骨身に染みついてしまっているんだけどね。