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複製人類時代の社会問題
( 19981215 )

Japanese/English

読者からクローニングについて意見を聞かせてほしいという英語のメール(!)を頂いたので、今回はこの問題について書いてみる。ただ全くの門外漢なので、趣味で書くエッセーとはいえ、多少調べておこうとインターネット上のリソースを当たってみた。

まずクローニングとは何か?Yahoo!Japanで「クローン」をキーワードに検索して唯一見つかったサイト「クローンの世界へようこそ!」によれば、クローニングとは有性生殖によらず個体を増やす技術とのこと。

たしかに有性生殖の生物が子孫をふやすには、生殖という手続きをふむ必要がある。生殖なら両親から遺伝子を半分ずつもらうので、親のどちらとも遺伝子情報が違う個体が生まれる。一方クローニングは一つの細胞をコピーするので遺伝情報は完全に同じになる。

逆に言えば、有性生殖をしない生物、たとえばメスだけで子孫を増やすギンブナなどは「天然クローニング」をやっていることになる(こちらのサイト「フナの繁殖生態と遺伝資源開発に関する研究」を参照)。自然界にもクローンが存在するからといって人間が無差別にクローニングする口実にはならないが、知識として知っておくべきだろう。

クローニングには(1)受精卵を分割する方法、細胞の核を移植する方法の2つがある。後者はさらに(2)受精卵の核を移植する方法、(3)ふつうの体細胞の核を移植する方法の2つにわかれる。

1997年の初めドリーという羊のクローンが話題になったのは(3)の方法ではじめて出産後もちゃんと生きのびたからだという。(1)や(2)の方法によるクローンならすでに多くの実例があるらしい。動物のクローンはまだ実験室の中だけだが、植物のクローンは品種改良のためにすでに広く使われているようだ。

教科書的な解説はここまでにして、クローンという技術がなぜ不気味なものに思えるのかを考えよう。メールを頂いた方も「scary and bizarre(恐ろしくて不気味)」と書かれている。

クローニングに対する一般的な反応を見るために、『世論の広場』というサイトの「クローン技術はどこまで許されるか」のページを読んでみる。クローニングの問題は、技術の安全性、生命の尊厳、個体のアイデンティティーの3つに整理できそうだ。

最初の2つはクローニングだけの問題ではない。まず技術の安全性や悪用への懸念は、古くは「電気」という得体の知れないエネルギーから、最近の原子力にいたるまでくり返されてきた古くて新しい議論である。なので科学技術の倫理問題として広く議論すべきだろう。

次に生命の尊厳についてもクローニングだけの問題ではない。例えば安楽死(euthanasia)。最近アメリカを騒がせているニュースの一つに、ルー・ゲーリック病患者を安楽死させた医師が第一級殺人罪を問われている裁判がある。CBSがドキュメンタリー番組でその様子を放送していたことから大変な話題になっているようだが、これも人間は生命の領域に踏み込んでいいのか、という問題を提起している。

科学技術の安全性も生命の尊厳も、ともに解決不可能な問題であると僕は考える。前者は科学技術を生み出した人間の理性の限界を問うものだし、後者は人間もその一部である生命の定義にかかわる。

理性に自分で自分の境界を定める権利はないし、生命体である人間に生命の境界を定める権利もない。むしろ人間が理性や生命の境界を決める権利があると考える方が「冒涜」だ。人間にできるのは最善のルールを決めることだけだ。

また、生命の尊厳について、よく「生命は神の領域だ」という議論があるが、これは「生命」という定義不可能な「他者」のかわりに、やはり定義不可能な「神」という「他者」を持ってきただけ。科学技術の安全性の問題にしても、「神」や「自然」など、定義不可能な「他者」を持ち出しても何の解決にもならない。それどころか宗教の違いという新たな対立要素を持ち込むことになる。

(それにクローニングは、厳密に言えば「神の領域」に踏み込んだ技術ではない。生命のないものに生命を吹き込むのではなく、すでに目の前にある生命の「数」を増やすだけだからだ。クローニングは全面的に「神」に頼っている)

草の根レベルの反対運動には残念ながら、このような単なる「他者のすりかえ」に終わっているものが多く、推進派たちへの有効な批判たりえていない。理性には理性の内部からその限界を指摘して抵抗するより他ない。

いずれにせよ最初の二点、科学技術の安全性と生命の尊厳については、ここで結論を出すことはできない。人間にできるのは議論を続けることだけだ。(ただ結果的に原子力利用についての議論と似てくるだろうと思う。学術目的の利用は制限しないが、商用の場合に用途や交易を制限する国際条約が結ばれる、など)

最後に残った個体のアイデンティティーの問題はどうだろう。仮にクローン人間が実現して自分のクローンが登場したら「この私」はどうなるのか。しかしこれもクローニング固有の問題というより「差別」の問題である。

たとえば「天然クローン人間」である一卵性双生児のことを考えてみればいい。一卵性双生児が「私がもう一人いる!!」と叫んで、アイデンティティーの問題に悩まされているだろうか。そんなことはない(ちなみに僕は二卵性双生児だが、毎日自分とそっくりな人間と暮らしてきたけれど、それが原因で自己同一性の問題に悩んだことなどない)。

仮に一組のクローン人間を全く同じ環境で育てたとしても、全く同じ人格に育つことはありえない。そもそも人格までが胚に決定されると考える方がおかしい。また「人格が同じ」という事実をどうやって「測定する」のか?

つまり自分とそっくりのクローン人間の登場によって、自分のアイデンティティーがおびやかされるというのは全くの杞憂だ。それより今話題になっているインターネット上での「なりすまし」のように、市民生活の事務手続上、クローンが自分の個人情報を悪用しないか、それだけを心配すればいい。これは芸能人のそっくりさんが人をダマすのと同じ法律上の問題にすぎない。

本当に心配すべきなのは、ある人がたまたま「クローン」であるという事実が、たまたま「黒人」であるという事実や、たまたま「身体障害者」であるという事実と同じように、社会的なスティグマにならないかということだ。

クローン人間を移植用臓器の生産機械するなんて発想は実現しないだろう。だが万が一実現しそうになれば、それはクローンに対する差別の問題となる。かつて黒人が労働力として搾取されたように、クローン人間が臓器の集合体として搾取される、などなど。

間もなく21世紀を迎えようという近代社会でさえ、たまたま「女性」だからというだけで就職で不利になるなどの差別が横行している。そこへたまたま「クローン」の人間が登場してくれば、確実に差別されるだろう。そうならないために僕らができることは、まず今存在する差別をなくすために努力することではないだろうか。

このように見てくると、クローニングには新しい問題は何もないことが分かる。むしろクローニングの独自性を強調するのは、例外的な判断を誘うことになり、かえって危険だ。理性の限界や差別の問題など、クローニングは僕らが今かかえている問題をきちんと議論することへ送り返しているのである。


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