人間は誰しも生まれながらにして罪を負っている。これは、キリストの教えであり、無信仰の僕には本来関係のない言葉である。
現に僕の家族は、明治時代か江戸末期かに、ある農婦が神がかりになって以来始まったといわれる、名の知れた新興宗教の信者だし、僕自身はサルトルの「神がいようがいまいが、人間には関係ない」という言葉を知って以来、正確な意味で無神論者である。
と、思っていたのは高校生の頃までだ。
井の頭線沿線に住んでいる方はお分かりかと思うが、電車が高井戸の駅にさしかかると、高架から見下ろす環状道路のそばに、大きな教会が建っている。
何度車窓から見たか知れないあの教会に、大学時代の僕はついに一歩も足をふみ入れることはなかったが、その存在だけでどれだけ自分の心の支えになっていたか。それを思うと「神の御心の深さ」を思わず信じたくなってしまう。
たとえ死にたいほどの絶望に陥ったとしても、「あそこに教会がある。教会に駆けこんで神の前にひざまづけば、何物かが救ってくれるかもしれないし、救いも何もないかもしれない。いずれにせよ、まだ自分はそこまで絶望してはいない。つまり、希望が残されているということだ」と考えて、窮地を切り抜けることができたのだ。
私は学生時代、キリスト教に近さを感じていました、なんてことを言うと、人は僕のことをまじめくさったつまらない人間だと思うかもしれないが、逆説的な言い方をすれば、キリスト教には、自分に罪を感じている人間しか信者になれない、というところがあると思う。
生まれてこの方警察のお世話になったのは、小学生のとき拾った500円札を届に行ったことぐらい、という僕が、いったいどんな罪を犯したというのか?犯してもいない罪の意識にどうして苛まれる必要があるのか?
そんなことに神経をすり減らすのは、ムダの多い生き方ではあるが、やはり僕に罪の意識はあることは否定できない。太宰治ではないが、「生まれてすみません」みたいな意識は拭い去りがたい。
別のページにも書いたように、最近、必要があって読んだ三浦綾子のエッセーに、こんな挿話があった(『明日のあなたへ』集英社文庫。ちなみに、読むなら三浦綾子だ。間違っても塩野七生なんか読んではいけない。メールを下さったこのページの読者の方の表現を借りれば、あれは「無意識な名誉白人感覚」だ)
遠足に行った小学生の話。ふだんひとりでいることが多く、友だちの少ない女の子が、ある仲好し3人組に「これあげる」とチョコレートを差し出した。3人組はめったに人と話しをしない彼女の行動を不審に思い、「ごめんなさい」と断った。すると、その女の子は突然、「どうせ私が貧乏だからでしょ!」と怒鳴りはじめたという。
日ごろ、仲好し3人組の姿を遠くから見ていて、いつか友だちになりたいと思っていたに違いない。そこで、遠足の日に意を決して声をかけたが、すげなく断られてしまった。その失望は想像するにあまりある。
仲好し3人組は、何も悪いことはしていない。ふだんと同じように3人で遠足を楽しんでいただけだ。しかし、そのことがある人にとっては、苦悩の原因になっていることもある。
もちろん、ある人が幸せになったからといって、それ自体悪いことでもなんでもないが、それを「罪」であると規定することもできる。それがキリスト教の考え方であると思う。
そうなると、キリスト教の「罪」という言葉は、僕らが普通に使う罪という単語とはまったく違うコノテーションを持っていることになる。そして、自分が感じる罪の意識は、キリスト教的な罪だということに、大学生の僕は気付いたのだ。
どうして自分はこうなんだ、こうなってしまったのだ、という後悔の念にとらえられることは多々ある。後悔というものは、「本来はそうあるべきだったのに」という理想と裏腹になっている。
その理想とて決して高望みではなく、ふつうの人なら当たり前に享受しているような幸福だったりする。それさえ叶わなかった自分をふり返って、そこにはじめて後悔というものが成立つ。
そこで、自分自身を外側から見つめてみる。他の人は自分に味わえない悦びを、まさに僕の生きている様に見出して、同じような無念さを抱いているかもしれない。そのために自分の生き方のふがいなさを、僕と同じように悔やんでいるかもしれない。
それを考えると、僕はただふつうに生きているだけでも、ある種の「罪」を犯していると言えないか。
いつかのエッセーで、重い荷物で手をふさがれた少女が、電車の中で席をゆずってもらったのに、頑として応じなかったエピソードを書いた。あの少女は、単に遠慮していただけではなく、いかにも重そうな荷物をもっているがために、周囲の乗客に「席をかわってあげなきゃ」という思いを抱かせてしまったことに、「罪」の意識を感じていた、と言えないだろうか。
仮にそれが、キリスト教的な罪に近いものだとすれば、僕がキリスト教に近さを感じるのも無理はない。日ごろの僕がよく感じる心の痛みは、この罪にひじょうに近いからだ。
ただ、僕が洗礼を受けることは絶対にないだろう。僕らがふつうに理解している罪という言葉の意味に即して、僕は受洗するにはあまりに罪深すぎるからである。職場では効率!効率!と言って、役立たずののろまは切り捨てかねない勢いだし、のん兵衛や女ったらしを受け入れるほど寛容でもない。
罪の反対語は、罰ではなくて、許しである。その意味で、まだキリストの教えと僕の距離は遠すぎる。
...と感じている僕は、自分が思うよりもずっとキリスト教的になってしまっているのかもしれないが...。